北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-129

雨川水系の沢

5. 林道・東山線の調査から

 この林道には、平成15年の偵察を兼ねた8月11日と本調査の10月19日を始めとして、その後、コングロ・ダイク露頭の写真撮影をする為に、何度か入りました。
 (ルートマップは、西武道沢と兼用ですが、参照してください。)

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林道東山線(大沼林道) 再掲載

 榊橋の東、地図のP990地点から、県道93号線と分かれて、林道・東山線に入りました。北からの小さな沢状地形(【図-①】)では、熱変質した灰白色泥岩層です。2本目の沢状地形の手前40mで、二枚貝Macoma sp. を見つけました。【図-②】でも、同様な熱変質灰白色泥岩層でした。そして、北からの小さな3本目の沢状地形の東(【図-③】)からは、熱変質の影響が小さく、暗灰色細粒砂岩と黒色泥岩(4対1で砂優勢)の互層が見られました。走向・傾斜は、N40°W・10~20°NEです。
 4本目の沢状地形の東(【図-④】)では、黄鉄鉱が認められるものの、熱変質はほとんどありません。砂泥互層が続きました。そして、林道の湾曲部(【図-⑤】)では、砂優勢(5対1)な砂泥互層で、N50°W・5~10°Nでした。ちなみに、サンド・パイプ(sand pipe)が、黄鉄鉱で置換されていました。
 北西から流入する沢の手前(【図-⑥】)では、わずかに細粒砂岩層を挟む黒色頁岩層で、二枚貝Macoma sp. を見つけました。N70°E・8°Nでした。
 少し先の【図-⑦】では、再び細粒砂岩と黒色泥岩の互層で、N25°W・5°NEでした。
 そして、崖の上部は標高1100mほど、林道は標高1085mほど(【図-⑧】)では、「大規模コングロ・ダイクの項」で既に紹介した《写真》のような崖露頭が見られました。

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コングロ・ダイクの露頭(東山林道)

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露頭の説明図



 見ている方向は北西で、コングロ・ダイクを含む地層の中に、正断層と逆断層が見られます。中央のコングロ・ダイクの礫岩層は、観察中、最大の層厚を示し、110cmありました。周囲の地層は、下位から黒色泥岩層、砂優勢な砂泥互層(風化した粗粒砂岩層を挟む)、茶褐色に風化した粗粒砂岩層、再び、砂優勢な砂泥互層と、正常な堆積構造をしています。
 走向・傾斜は、N70°E・10°N(左・南側)~N80°E・5°N(右・北側)と、ほぼ東西走向で、緩やかに北に傾いています。写真の右奥側へ、緩く傾斜していることになります。一方、コングロ・ダイクの走向・傾斜は、N80°W・80°Nなので、周囲の砂泥互層とはわずかにずれて、ほぼ垂直に切るような形になります。貫入の深さ(高さ)は、見えている部分で、5mほどです。露頭全体は、高さが10m強の切り通しです。

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 コングロ・ダイクの礫の種類は、暗灰色中粒砂岩と黒色頁岩片が主で、やはりチャート礫は含まれていません。最大な礫は、直径が20~25cmにもなる砂岩塊でしたが、礫の配列から堆積時の重力方向は特定できませんでした。
 一方、断層は目視でき、写真上部の風化した茶褐色砂岩層に着目すると、左下から右上に筋状に延びている正断層があり、左側が2m(1.5m+0.5m)ほど落ちています。その後で、この断層構造を右下から左上にかけて、逆断層が乗り上げるように切っています。移動は2.5m以上と思われます。
 しかし、現在は、コンクリート壁で覆われてしまい、観察することはできません。

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コングロ・ダイクの礫種(中央部を拡大した図)

              *  *  *

 

 北西からの沢状地形付近、【図-⑨】では、黒色頁岩から灰色泥岩に移行すると共に、砂岩の割合が多くなりました。また、暗灰色細粒砂岩層の中に、異質の砂岩塊が同一層準に並んでいました。山中地域白亜系・白井層の「軟弱砂岩」に形態は似ていますが、含まれている中粒砂岩塊は柔らかくはありません。ここで、コングロ・ダイク(5~2cm×2m)が1露頭見られました。

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異質砂岩塊が同一層準に並ぶ 【図-⑨】

 東武道沢の本流と交わる林道の湾曲部(【図-⑩】)では、暗灰色細粒砂岩層でした。
 【図-⑪】では、N70°E・10°Nの黒色泥岩層に対して、N50°W・70°NEのコングロ・ダイク(15cm×2m)が見られました。
 【図-⑫】では、黒色泥岩の中に、ノジュールがいくつか含まれていて、割って中を調べてみると、「甲殻類カニの爪」と思われる化石が認められました。【写真・下】

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ノジュールを割ると、カニの爪が出てきた

 

 林道の南への出っ張り(【図-⑬】)では、黒色頁岩が主体で、わずかに互層していましたが、【図-⑭】では、灰色中粒砂岩層になりました。層厚5cmの凝灰岩を挟みます。
風化すると黄土色や累帯構造のように茶褐色の縞模様になるのが特徴です。凝灰質だと思われます。
 【図-⑮】【図-⑯】【図-⑰】と、風化すると黄土色となる凝灰質の灰色~暗灰色中粒砂岩層で、一部には粗粒砂岩も挟まっていました。
 北からの沢状地形手前(【図-⑱】)は、大きな崖露頭で、
凝灰質の灰色粗粒砂岩層と、ほぼ同質の暗灰色中粒砂岩層の互層が見られました。N50°E・10~20°NWです。その少し北側には。水棲植物の炭化物が含まれていました。【写真・左】

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植物の茎や炭化物を含む

 

 辰巳沢本流と交わる林道の湾曲部(【図-⑲】)では、中粒~粗粒砂岩層が見られました。詳細に見ると、(ア)青味を帯びる灰色中粒砂岩層、(イ)灰色中粒砂岩層、(ウ)暗灰色中粒~粗粒砂岩層(特に黄土色に風化しやすい)の3タイプあります。全体的に凝灰質です。
 凝灰岩層(特に、緑色凝灰岩層)がもっと含まれてくる層準も含め、駒込層と解釈されてきた説明図幅もあります。
 しかし、泥相から砂相へと変わる辺りからが、内山層上部層として良いのではないかと考えています。

                 

 【編集後記】

 前にも紹介しましたが、写真の露頭は、林道に岩石などが崩れるのを防止する為に、コンクリート壁で覆われてしまっています。

 本文で紹介した露頭の写真は、色彩を少し加工したので、あまり手を入れてない写真も載せます。(おとんとろ)

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別な日に撮影した露頭

 

佐久の地質調査物語-128

 ○雨川水系

4. 西武道沢の調査から

 森林地図では、「西武道と東武道」は尾根の中央を境に区分されている地名ですが、西側の沢を西武道沢、東側の沢を東武道沢と呼ぶことにしました。尚、東武道沢には入っていません。ここでは、内山層の下部層から上部層が見られました。(下図【西武道沢~林道・東山線付近のルートマップ】を参照)

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西武道沢のルートマップ(東武道沢や林道大沼線と兼用)

 平成15年9月6日、西武道沢に懸かる榊橋(さかきばし)から沢に入りました。最初の露頭(【図-①】)は、熱変質して灰色になった細粒砂岩層でした。黄鉄鉱(pyrite)が含まれ、走向・傾斜は、N80°E・5°S~水平でした。
 標高1000m付近(【図-②】)は、熱変質した灰白色泥岩層で、表面はすべすべしています。ノジュールが3個ありました。熱変質を受けた時、暗灰色砂岩は灰色になるのに対して、黒色泥岩は明るい灰白色になります。

 そのすぐ上流には、薄い凝灰岩層(tuff)を挟み、灰色の細粒砂岩の表面に、黒い模様が見える露頭がありました。【写真下】

 一見、火山岩のように見えてしまいますが、灰色部分は細粒砂の変質したもので、黒っぽい部分は元の砂や泥なのかもしれません。

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熱変質した細粒砂岩(西武道沢-②)


 標高1005m付近(【図-③】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層が連続していて、N30°E・5°SEの走向・傾斜でした。

 標高1008m付近(【図-④】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層の中に、2mの間を空けて2つのコングロ・ダイクがありました。

下流側のものは、幅20cm×長さ1m、N50°E・垂直で、上流側のものは、幅30cm×長さ2m、N40°E・垂直でした。元々、繋がっていた一連のものだったのかもしれません。

 標高1010m付近(【図-⑤】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層の東西走向に対して、N10~20°W・80°W傾向をもつ小規模な破砕帯が見られました。

 標高1020m付近(【図-⑥】)では、熱変質がない本来の色のようで、暗灰色の細粒砂岩層で、走向・傾斜は、EW・5~10°Sでした。標高1030m付近(【図-⑦】)でも、EW・10°Sの黒色泥岩層が見られ、熱の影響はありません。ただし、黄鉄鉱は認められました。

 しかし、標高1035m(【図-⑧】)では、珪長質火山砂に見える凝灰岩層を挟む灰色細粒砂岩層があり、熱変質の特徴を残していました。

 標高1038~1040m(【図-⑨】)では、凝灰岩層を挟む中粒砂岩層が見られましたが、元の色彩の暗灰色でした。

 標高1045~1050m(【図-⑩】)に、川に沿って露頭幅40mに渡って、閃緑岩(diorite)が見られました。川底に、閃緑岩、その上に粗粒砂岩層が載っています。砂岩層は熱の影響を受けて、暗灰色に変色していました。【写真・下】

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閃緑岩と砂岩層との境

 この上流、標高1055mから1075mにかけて、黒色泥岩層が分布していました。
 1075m付近(【図-⑪】)の凝灰岩層との挟みで、N30°E・5°SEでした。また、黒色泥岩層には細粒砂岩層との互層部もあり、わずかながら二枚貝Macoma sp. が認められました。

 標高1080m二股(【図-⑫】)から上流では、帯青灰色細粒砂岩層が見られました。凝灰質な砂岩層が、熱変質を受けているものと思われます。点紋の入る帯青灰色細粒砂岩層も見られました。N20~30°E・8°SWでした。ここを境に、泥相から砂相へと岩相変化がありました。ちなみに、灰白色細粒砂岩層と帯青灰色細粒砂岩層の互層部で、目視できる極めて小規模な断層が認められました。

 北からの沢の合流点手前、標高1098m付近(【図-⑬】)では、無点紋の帯青灰色細粒砂岩層と暗灰色粗粒砂岩層が見られ、N40°E・5°SEでした。
 次の北からの沢との合流点、標高1110m付近(【図-⑭】)からは、凝灰質の暗灰色粗粒砂岩層が卓越してきました。

 南東から流入する沢との合流点、標高1125m(【図-⑮】)では、玢岩と帯青灰色細粒砂岩が接触している露頭が見られました。
 北からの小さな沢状地形の標高1145m付近(【図-⑯】)では、灰色細粒砂岩層があり、わずかに二枚貝の化石が認められました。この層準の上下は、凝灰質粗粒砂岩層なので、特別な層準です。

 これより上流から、標高1150m二股まで(【図-⑰】)は、凝灰質の暗灰色粗粒砂岩層が見られ、風化すると黄土色となる内山層上部層で典型的な層準でした。二股から上流は、両方の沢ともブッシュが多く、水量からも露頭が望めないだろうと判断して引き返しました。
( cf) 西武道沢の標高1040m~1150m、【図-⑨~⑪】付近の地形図の沢は、土砂堆積物が多く、本流を歩いていて、沢の合流を確認できませんでした。)

 

 【編集後記】

 この沢では、内山層の下部層の泥相から、上部層の砂相への変化が見られました。また、比較的、大規模に貫入してきていると思われる閃緑岩(diorite)の熱変成の様子や、少し規模の小さい貫入の玢岩(ヒン岩)による熱変質も見られました。

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 懐かしいメンバーとの踏査風景の写真(閃緑岩の露頭付近)です。佐久へ赴任したての石川先生の姿もあります。

 ところで、雨川水系は、内山層の大きな分類では、「北部域」に属しますが、東西に延びる低い尾根を境に、北側の内山川(北部域の言わばプロパー)とは、岩相が微妙に違います。この後、コングロ・ダイクの話題に関して、タイプの異なる産状が明らかになっていきます。

 ・・・・前回(6/14)と、大部と言うより、一週間近く間を開けてしまいました。この間、個人的な大きな行事は、定期検診の為の通院と、「みゆき会」の句会でした。しかし、なかなか俳句にするような印象的な体験やアイディアがなくて苦しみ、また、4月以来中断している「俳句に関したブログ」も未完成なので、そちらにも手を染めていました。それにも増して、今や、農作業の最盛期で、どうしても午前と午後の作業を入れてしまうと、「はてなブログ」を挙げる時間が確保できませんでした。

 そこで、今回は、農作業(草刈り)の後に入浴し、夕食前の短い時間で、慌ただしく取り組みました。ぼちぼちと続けますので宜しく! (おとんとろ)

佐久の地質調査物語-127

3. 中原倉沢~ヌカリ久保沢の調査から

 森林地図によると、雨川本流右岸の標高1050m~1100mの間に、3本の沢が北から流れ込んでいて、森林区分を示すように、それぞれ尾根に名前が付れられています。下流側から「初手ばらくら」・「中ばらくら」・「詰ばらくら」です。私たちの入った沢は、中ばらくらの西側の沢なので、『中原倉(なかばらくら)沢』と漢字表記し、呼ぶことにしました。同様に、ぬかり久保の東側の沢を『ヌカリ久保沢』とカタカナ表記にして、命名しました。(下図【中原倉沢~ヌカリ久保沢ルートマップ】を参照)

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中原倉沢~ヌカリ久保沢のルートノップ

 平成15年の夏休み8月11日に、樽ヶ久保橋の近くの道に駐車して、中原倉沢に入りました。沢を詰めて稜線尾根に出て、踏み跡道を使って次のヌカリ久保沢の上流部に降りました。沢を下って県道に戻り、「林道東山線」の下見をしました。(林道情報は、別項)

 中原倉沢の入口とその東側の崖(【図-①】)で、凝灰角礫岩(tuff brecia)が見られました。崖露頭は、高さ15mほどあります。この尾根の東側にも類似の崖がありますが、特に崩れやすい訳でもないのに、なぜ崖になっているのか不思議でした。また、入口付近で川が小さく湾曲する理由もわかりません。(ちなみに、地質図では、大上峠~熊倉沢~大滝~初谷沢に至る断層を推定した場所になりました。)

 コンクリート製の砂防堰堤は、右岸を巻いて上に出ました。西から小沢の流入する標高1075m付近(【図-②】)では、凝灰角礫岩が見られました。北東から沢の流入する標高1085m付近(【図-③】)でも、同様に凝灰角礫岩が見られ、堆積物が入り混じり、炭化物も含まれていました。泥流のような堆積の仕方をしたのかもしれません。

 標高1087m付近(【図-④】)では、黒色の火山砂が礫となる礫岩層が造瀑層となる滑滝がありました。礫には最大15×20cmの火山砂の岩塊が含まれていました。沢の入口からここまでが、兜岩層だと思われます。

 

 そのわずか上流、標高1090m付近(【図-⑤】)には、灰色泥岩(シルト岩)があり、走向・傾斜はN80°E・10°Sでした。こちらから、内山層(上部層)だと思われます。
 東から流入する沢との合流点、標高1100m(【図-⑥】)付近には、軽石を含む暗灰色中粒砂岩層(風化面は黄土色)が見られました。
 標高1115m付近(【図-⑦】)では、灰色泥岩(シルト岩)が見られ、標高1120~1135m(【図-⑧】)では、灰白色中粒砂岩(火山砂)から暗灰色~黒色細粒砂岩層へと漸移していきました。標高1140m(【図-⑨】)では、灰白色の凝灰質細粒砂岩層が見られ、鉄分があるのか、風化面は累帯構造(zonal structure)のような縞模様ができていました。

 標高1140mから1150m二股(【図-⑩】)にかけて、灰白色で凝灰質の中粒砂岩層や粗粒砂岩層が、小さな滑滝を形成していました。わずかに挟まる黒色泥岩との挟みで、N40°E・5~10°NWを記録しました。

 二股から左股を詰め、稜線尾根に出ました。全体的になだらかな尾根の小さな鞍部で、標高1185m付近(【図-⑪】)では、人工的とも思えるほど完璧な形状の「すり鉢状地形」が認められました。完全円の直径は20mで、『隕石の落下した小クレーターではないか?』という話題も挙がりました。2万5千分の1地形図に現れてはいませんが、とても不思議な地形だと思いました。

 尾根の踏み跡道を進み、ヌカリ久保沢の源頭から沢を下ると、見慣れた内山層の黒色の砂質泥岩が現れました。標高1170m(【図-⑫】)です。しばらく露頭がありませんでしたが、標高1125m二股(【図-⑬】)からは、黒色砂質泥岩層が見られました。
 標高1118~1120m付近(【図-⑭】)では、ほぼEWで10°N、北落ちの黒色泥岩層の中に、3つの小規模なコングロ・ダイクが見られました。
 上流側から、(ア)幅5~10cm×長さ1.2m、N30°E・80°Eないし垂直、(イ)15cm×1.0m、N15°E・垂直、(ウ)軟着陸タイプ、幅40cm~10cm×長さ1.5mの板状のものでした。

 東からの沢が流入する、標高1105m(【図-⑮】)では、黒色の砂質泥岩層の中に、二枚貝Macoma sp.(ゴイサギガイ)と巻き貝Turritera sp.(キリガイダマシ)が認められました。この東の沢に入ってみると、コングロ・ダイク(5cm×40cm以上(両端が不明)N20°E・垂直)がありました。

 標高1100m付近(【図-⑯】)には、タイプの異なるコングロ・ダイクが認められました。黒色泥岩層の走向・傾斜60~80°W・10°Nに対して、上流側露頭から、
 (ア)走向が類似して、N70°W・60°N、幅15~20cm×2m、
 (イ)基盤が単層ではなく黒色と灰色の泥岩の互層となっている中、N10°E・垂直、   15cm×3mと、貫入している、
 (ウ)それぞれ幅15cm×長さ2mほどの2つのコングロ・ダイクが、ほぼEWとNS   走向で、直角に交わっている、
 (エ)幅40cm(先端は細くなる)×長さ6mの大きなコングロ・ダイク(N10°W)に、小さなコングロ・ダイクの一部が、それを切るように入っている、このタイプは、比較的珍しいものでした。

 標高1087m三股から上流へ25mの地点(【図-⑰】)には、黒色泥岩の小さな滑滝があり、コングロ・ダイクと玢岩岩脈が貫入していました。

 標高1083mで北西から流入する沢との合流点付近は、全体的に泥岩が熱変質し、灰白色を帯びていました。そこで、小さな沢に入ってみると、熱変質した灰白色泥岩の中に、こちらも熱変質したコングロ・ダイク(N10°W・垂直)が貫入している様子が観察できました。(【図-⑱】)
 これから下流側へ、熱変質した泥岩層が分布していました。(【図-⑲】)
 標高1068m二股付近(【図-⑳】)で、玢岩岩脈が現れます。ここから下流側の随所で、同様な玢岩露頭が見られました。そして、標高1040m付近(図-★)では、玢岩が激しく風化していました。断層などによる破砕帯なのかもしれません。

 

 【編集後記】

 沢の名称は、正式には無名沢のようです。それで、私たちが、森林地図に記されている尾根の名前から転用して名付けました。林業関係者は、沢も利用したと思いますが、主に尾根に名前を付けて、区別しています。ここの「原倉(ばらくら)」という全体の地域名に対して、初手~中~詰(つめ)という形容を冠しています。

 ところで、本文中の「小さなクレーターのように見えた窪地」の写真があれば、興味深いですが、残念ながらありません。クレーターのようと表現していますが、もちろん、本物ではありません。ただ、気になる地形でした。

 平成18年(2006年)の第5回信州自然学・下伊那大会の2日目(8/9)に、飯田市上(遠山郷・旧上村)の「御池山隕石クレーター」を見学しました。

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チャート中のPDFsからわかった衝突の証拠を説明する坂本正夫氏と露頭

 坂本正夫先生らは、御池山山頂の北側尾根に同心円状の高まりが点在していることに気づき、隕石衝突の仮説のもとに、長年の調査・研究から、最後は隕石衝突による結晶構造の分析から、隕石衝突の痕跡だと結論づけました。

 直径900mほどの同心円状地形ができるには、少なくとも直径40~45mの小惑星が、2~3万年前に、御池山の南東斜面に衝突したと推測されます。(尾根沿いを中心に、約40%のクレーター地形が残っていると言われます。)

 極めて高速で隕石(小惑星)が地球に衝突したことを示す証拠は、石英の結晶内に形成された面状微細変形組織(PDFs)の存在です。石英の他形の一種です。隕石物質が、残っているのは稀なことなので、その証拠が得られたことも貴重な存在です。

 この夏で、15年も前のことになりますが、クレーターの話題から、御池山露頭のことを、ふと思い出して紹介しました。

 ところで、もうひとつ、「標高1140m(【図-⑨】)では、灰白色の凝灰質細粒砂岩層が見られ、鉄分があるのか、風化面は累帯構造(zonal structure)のような縞模様ができていました。」というエピソードで、急遽、庭の片隅に置いてあった砂岩を写真撮影してきました。

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累帯構造のように見える黄土色(風化色)中粒砂岩

 動物や植物の化石も採集してきますが、面白い形や堆積構造を示す岩石も、家に持ち帰ることがあります。

 累帯構造とは、造岩鉱物の長石(チョウ石)で良く見られる結晶構造で、マグマが冷えて固まって行く時、回りへと少しずつ結晶構造が拡大していった痕跡のようです。専門的には、相平衡や化学成分、冷却速度など、もう少し複雑なものがあるようですが・・

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斜長石の累帯構造(偏光顕微鏡の観察による)

 そこで、この採集してきた砂岩は、どうなっているのでしょう。

 まさか、砂岩が外側へと成長(堆積)したという訳ではありません。今、見ている面が堆積面なので、平面状を外側にという感じです。どうしてなのか、わかりません。

 砂岩には、「玉葱状風化」という現象も見られますが、風化のひとつの姿だとは思います。素人の推理では、『濾紙や和紙の一部に、染料を垂らすと広がっていく現象の、「ペーパー・クロマト・グラフィ』のように、茶色く見える成分(例えば、酸化鉄など)が、砂粒の中を移動していくのに、何らかの速度の統一性・規則性があったのかな?』と推理するのですが、知っている人がいましたら、教えてください。

 本文のような、ルート・マップを解説する地質調査記録は、あまり面白くないと、自分でも思いますので、山や沢から拾ってきた、面白い石やエピソードも載せていきたいと思います。今日は、雷雨がありそうなので、農作業は、畑の点検だけです。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-126

2. 小唐沢~大唐沢の調査から

 平成15年7月6日、つめた沢橋の上流から雨川に入り、合流点からは小唐沢に入って尾根まで詰め、南牧村との県境尾根を経由して、つめた沢を下りました。最後に、別荘の脇を流れる大唐沢に入り、一日で3本の沢の調査ができました。(「つめた沢~小唐沢~大唐沢」ルートマップを参照)

 雨川本流、つめた沢橋の上流、標高1015m付近(【図-①】)では、黒色の砂質泥岩層の中にコングロ・ダイク(幅10~15cm×長さ1.5m、N20°E・垂直)が見られました。小唐沢との合流点手前の川底には、露頭幅20m以上に渡って玢岩が分布していました。(【図-②】)合流点では、灰白色~明灰色の泥岩層が見られました。今までの観察から、この産状は、元は黒色(砂質)泥岩が熱変質により、明灰色になっているものと思われます。砂より泥が多くなってくると、灰白色になります。

 小唐沢に入りました。標高1025m付近(【図-③】)では、熱変質された明灰色泥岩層(N30°E・40~50°SE)の中に、幅5mほどの破砕帯が認められました。
 標高1030m(【図-④】)から、南西からの沢の合流点まで、同様な熱変質した泥岩層が続き、標高1040m付近(【図-⑤】)では、黒色泥岩層の中にコングロ・ダイクが見られました。
 その少し上流に玢岩岩脈があり、東からの沢の合流点(【図-⑥】)では、暗灰色泥岩層に黄鉄鉱(pyrite)の富化が見られました。

 東からの3本目の沢との合流点(【図-⑦】)では、熱変質した泥岩層・砂岩層があり、再び玢岩岩脈が見られました。
 そして、標高1060mの西からの沢との合流点(【図-⑨】)では、熱変質した礫岩層が現れました。最大直径15cmの亜角礫の巨大な礫を含みます。礫種は珪質の砂岩で、含有成分の差と変質からか、赤紫色・薄紫色・暗灰色など様々です。また、花崗岩や花崗閃緑岩の巨大な礫です。礫は、いずれも古い時代のものと思われます。今までと、明らかに岩相が異なります。
 そこで、重要な境になるだろうと考え、東側への延びが予想される【図-⑦】に戻って、少し上流部も確かめると、同様な産状が見られました。内山層との境や不整合は認められませんでしたが、ここから上流側が、兜岩層の分布域と考えて良さそうです。さらに、少し上流の【図-⑨】では、直径30cmの花崗岩塊が礫岩に含まれていました。不整合的な産状として良いと考えました。

 標高1070m二股(【図-⑩】)を左股に進みました。軽石を含む凝灰角礫岩層が続きました。標高1075m~1120m(最終二股)まで、軽石を含む凝灰角礫岩層が点在していました。(前述の範囲として【図-⑪】)崩れやすく層理面がわかりずらく、走向・傾斜が測定できないので、どのくらいの層厚になるかは不明です。

 「下まで戻るのが大変」なことと、詰めた沢の立木の様子から、尾根まで出られそうだと判断しました。南牧村との県境尾根のポコ(1210mASL)で昼食にした後、尾根を西に進み、つめた沢に降りることにしました。

 

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つめた沢~小唐沢~大唐沢のルート・マップ



 つめた沢の標高1120m付近に降りたようです。すぐに1110m二股を確認できました。そのわずかに下流(【図-⑬】)で、露頭幅15mの玢岩岩脈が現れました。さらに、西からの沢の合流点手前でも、同様な玢岩岩脈が認められました。

 標高1090m付近(【図-⑭】)では、熱変質した灰白色泥岩層、標高1080m付近(【図-⑮】)でも、同様な灰白色泥岩層が見られました。こちらは玢岩帯を含む破砕帯もあり、全体が脆くなっていました。

 隣の小唐沢からの延びが予想される兜岩層の礫岩層(巨大な礫を含む)や凝灰角礫岩層は、つめた沢には延びていないと思われます。2つの沢の間に断層がありそうです。(ちなみに、全体構造を見ると、大上峠~熊倉沢破砕帯~大滝~田口峠~本地域を経て内山断層にまで達する断層のあることがわかりました。)

 この後、標高1070m、1055m付近で、玢岩岩脈が認められました。そして、東からの沢との合流点、標高1040m付近(【図-⑯】)で、熱変質した灰色~暗灰色の泥岩層と砂岩層が見られました。
 標高1030m付近(【図-⑰】)では、泥岩層の中に3本のコングロ・ダイクが認められました。奇妙なことに熱変質した部分と影響のない部分(西側)がありました。すく下流にもコングロ・ダイク(小規模)がありました。
 標高1022m付近(【図-⑱】)では、黒色泥岩層が見られ、こちらは完全に熱変質の痕跡がありませんでした。玢岩の岩体が小規模なことが原因と考えられますが、熱変質の範囲は限られているようです。

 出発点の「つめた沢橋」に戻りました。まだ日が高いので、樽久保沢方面に向かいました。都会から週末に訪れ愉しむ為の別荘があり、手製橋が懸かっていました。おじゃまして、橋の少し上流から沢に入りました。すぐに凝灰角礫岩(tuff breccia)が、現れました。上流部は、凝灰質の暗灰色砂岩層でしたが、全体の岩相から見て、兜岩層だと考えました。小唐沢の上流部とほぼ同質だと思われます。(データーは図に記載)

          

 【編集後記】

  沢の露頭からは、内山層と、それを覆う「兜岩層」が観察できたり、南側から延びてきていると推定される断層の証拠が得られたりと、収穫の多かった調査でした。

 しかし、目新しい写真データもないので、この尾根から臨める荒船山を紹介します。

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荒船山(山頂が平らな「メサ」のような山体)

 上の写真は、佐久市下平~竹田の近くの「虚空蔵山」(多福寺の南東)から、東側を臨み、カメラでズームしたものです。

 ちょうど船を逆さにいたような山体の荒船山が見えます。左(北)側が、「とも岩」と呼ばれ、船尾のこと(とも・・船偏に慮)です。佐久と下仁田を結ぶ道路から、断崖絶壁が臨めます。

 反対の右(南)側は、荒船山の最高峰「経塚山(1423mASL)」です。

 平べったい山頂全体は、地学用語で「メサ(mesa)」と呼ばれる地形です。語源は、スペイン梧の食卓テーブルの意味です。上位に硬い水平な地層があって、下位に侵食されやすい柔らかい地層がある場合、下の地層が侵食されて急崖を形成し、上部は侵食されないためにテーブル状の台地となるようです。荒船山の場合、「とも岩」の断崖絶壁もこの類です。

 佐久を代表する3火山、「浅間山八ヶ岳荒船山」の内、荒船山は、他の2つよりはるかに古い第三紀の火山(新世末頃・7Maか?)なので、溶岩の浸食が進んで平らになっているようです。こんな例は、日本では、屋島琴平山香川県)・万年山(大分県玖珠町などが知られています。

 ちなみに、「屋島」は、源平の戦いの一つの舞台となった所に近い古い火山です。私が学生の頃、四国の地質巡検をした、お土産に「サヌカイト」という名前の、この屋島火山のガラス質安山岩を買って帰りました。お仏壇に供え、鐘のようにして叩いていました。割れてしまい、今はありませんが・・・

 下の写真は、佐久市内山の国道から、荒船山の南側に位置する「兜岩山」を撮したものです。「兜岩層」の名称となった山で、まさに武者の被った兜を連想します。

 ちなみに、「兜岩層」については、内山層のシリーズが終わった後で、香坂層などと共に話題にする予定です。

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荒船山の最高峰「経塚山」~星尾峠~山(無名)~兜岩山

 ところで、改めてブログに載せようとすると、推敲や写真の確認など、手間がかかります。今日も好天で、午前中は農作業を予定していましたが、文筆活動を始めてみると既に正午近くになってしまいました。

 今年は、梅雨入り前に、まとまった降雨が何回かあり、野菜への水遣りが省かれて助かりました。しかし、ここに来て、好天・高温続きで、昨日あたりから、水遣りを始めました。やり甲斐は感じますが、正直、大変です。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-125

第Ⅵ章 雨川水系の沢

 平成15年度、地学委員会では、調査域を内山川水系から、田口峠を越えた広川原や、尾根の南側の雨川水系へと広げました。(次頁:【雨川水系の主な沢の位置と名称】を参照。)
 示した名称は、林務関係者が使用した森林地図(原図は大正時代)に記されていたもので、沢の名称というより、場合によっては尾根筋に付けられたものや、使用目的であった森林区分を示す名称が多く載っていました。ですから、私たちが知りたい沢の名称が記載されていない場合も多くありました。例えば、以下のような状況です。

 

(ア)雨川砂防ダム湖の「不老温泉(鉱泉)」に、湖月荘(当時の佐久町の公営宿泊施設)ができました。その西側の一帯は『うりう』と呼ばれ、小さな尾根を境に、東側から  「東うりう」・「中うりう」・「西うりう」と、森林区分で呼ばれています。
  また、「荷通り」も沢の名称ではなく、周囲の尾根に囲まれた沢の一帯が、この名称で呼ばれ、場所は、枝番を使って区分しています。

(イ)現在、林道「東山線」は、尾根を経て雨川水系と内山川水系が繋がっていますが、古くは「大沼林道」と記載されていました。

(ウ)「西武道」と「東武道」は、尾根で東西に区分されていて、尾根と沢を含む一帯の名称です。沢がその中心にあるので、私たちのフィールド・ネームでは、沢の名称として採用することにしました。(ただし、地図では「東武道」を流れている沢は、西武道沢川と記されていました。雨川との合流点の橋が、西武道橋なので記載の間違いではなさそうです。そして、ひとつ上流の橋は東武道橋です。)

 

 以上のような事情がありますが、私たちは沢の名称の方が都合が良いので、森林区分に付けられた場合でも、沢を「土地の名前+沢」として、呼ぶことにしました。
 また、調査した順番にできるだけ忠実に、紹介していきたいと思います。

 

 広川原方面・馬坂川支流(6/8 2003)・小唐沢~つめた沢~大唐沢(7/6 2003)・中原倉沢~ヌカリ久保沢(8/11 2003)・西武道沢(9/6 2003)・林道東山線(10/19 2003)・阿ざみ沢~片原沢(10/18 2003)・小屋たけ沢~程久保沢(8/7 2004)の順番です。
 そして、『滝ヶ沢林道・地獄沢(6/5 2004)・仙ヶ沢~判行沢(8/11 2004)・不老沢(2004)』の雨川水系の南西側の沢は、まとめて別項にします。

 

 

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雨川水系の沢の名称

 

1. 広川原・馬坂川の支流の調査から

 内山川本流と北側の支流の調査を終えた平成15年度の最初の調査は、田口峠を下った広川原で西から合流する馬坂川の支流に入りました。(下図、ルートマップを参照)

 

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馬坂川の支流の沢、ルート・マップ

 

 県道93号線(田口峠から広河原や狭岩集落を経て、群馬県に抜ける)の橋から支流に沿って、かつての生活道路があり、堰堤から沢に入った。「昭和51年、谷止工事・コンクリート広川原№1長野県林務部」とある。(【図-①】)
 凝灰質な火山砂をマトリックス(基質)にして、玄武岩質岩塊や黒色の結晶質砂岩の礫を含む凝灰角礫岩からなる層が見られました。山中地域白亜系の調査(平成4~8年度)で、白井層に影響を与えたと推定する「新三郎沢層(先白亜系、ジュラ系か?)」に類似しているとの感触を得ました。

 標高775m付近(【図-②】)では、軽石が含まれた粗粒砂岩~礫岩層がありました。そして、標高785m付近(【図-③】)では、再び凝灰角礫岩層が見られました。
 標高795mには「昭和40年コンクリート谷止工事」の堰堤(【図-④】)があり、直下は、緑色を帯びた灰色の結晶質砂岩の滑滝となっていました。一帯は、続成作用で変質したと考えられ緑色を帯びた結晶質砂岩層でした。緑色岩など、火山性堆積物の存在は、新三郎沢層の下部層を想起します。

 続く標高800m付近(【図-⑤】)でも、薄紫色(細粒黒雲母の変質)や、黒色、灰色の結晶質砂岩層が見られました。岩相から、先白亜系であることは確かなようです。

 北から小沢の合流する標高810m付近(【図-⑥】)では、珪質の灰色砂岩層が見られ、N20°W・60~70°Wの走向・傾斜を測定しました。
 標高830m付近(【図-⑦】)では、玢岩(porphyrite)が見られ、少し上流の川底では、暗灰色の結晶質砂岩層と接していました。わずか上流の左岸には、小さな祠(ほこら)がありました。

 南からの沢と北西からの沢の合流する標高840m付近(【図-⑧】)では、川幅が広がり、玢岩の岩脈が頻繁に見られました。標高880m付近(【図-⑨】)までは、玢岩岩脈だけでしたが、再び図-⑥と同様に、基盤岩の暗灰色結晶質砂岩と接する露頭が観察できました。

 そして、標高910m二股です。右股の標高920~930mに、緑色を帯びた暗灰色の粗粒砂岩層があり、断層粘土と思われる露頭が認められました。(【図-⑩】)

 戻って左股に入ります。標高950m付近(【図-⑪】)に、緑色を帯びた凝灰角礫岩でできた滝(落差5m)がありました。滝の下と滝の左岸は、玢岩で、この滝を境に断層が推定されます。断層面は、N20°W・70~80°Eでした。大滝は両岸とも登ることができず、滝の上流への調査は断念し、引き返しました。

 右股の標高970m付近から、暗灰色粗粒砂岩層が現れ始め、これらが造瀑層となって小さな滑滝を形成しています。標高1010m付近(【図-⑫】)で、粗粒砂岩層の走向・傾斜は、N10°W・70~80°Wでした。

 これら大滝と推定断層の上流側(層位的には上位)は、断層を挟んでいますが、走向・傾斜はほとんど同じです。ただし、岩相は違い、緑色岩や緑色を帯びた凝灰質の傾向はありません。兜岩層だと考えています。

 

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田口峠から群馬県側(東)を臨む・・狭岩へは峠を南東に下っていく

 

【 閑 話 】 広川原の思い出

 標高差で田口峠から300m以上も下った広川原は、分水嶺を越えて群馬県側になりますが、なぜか、佐久市(旧・南佐久郡臼田町)に属しています。

 佐久の民話に、『昔、田口と下仁田の殿様が、日の出から双方で城を出発して出会った所を国境にするという約束をしました。田口の殿様は、馬でなく牛に乗って出かけるので、夜明け前に城を立ちました。ところが、田口峠を越えた広川原の狭岩(せばいわ)で、下仁田の殿様と出会い、そこが国境となりました。』という趣旨の話があります。

 佐久市との南の境は熊倉川ですが、東の境は馬坂川の狭まった辺りで、群馬県甘楽郡南牧(なんもく)村と接しています。

 調査年度(平成15年)、杉林の手入れをしていた老人の話では、『現在、私たち夫婦を含め、4世帯5人で、若い人は群馬県側に出てしまい誰もいない』ということでしたが、かつては、田口小学校「広川原分校」がありました。

 私が野沢中学校1年生(昭和41年)の夏休み、この分校で一泊二日のキャンプをしました。所属していた理科クラブ(現在の専門部活動)の顧問(故)小林茂男先生のご指導の下、狭岩にある「地下湖」の水質調査の為のサンプリングをしました。神秘的で巨大な地下洞窟や地下湖、特に、抜け穴の細い岩盤の「ほふく前進」は強く印象に残っています。
 翌年の夏休み、理科クラブを止めて、バスケットボールクラブに移りましたが、級友と自転車で再び訪れました。片道でも優に25km、自動車でも1時間以上かかる山道の、しかも往復、よくもまあ自転車で移動したかと思うと、今では感心してしまいます。

 

 【編集後記】

  広川原のことを、もう一度思い出す機会は、令和元年(2019年)10月11日(金)~12日(土)に佐久地方を含めて、日本各地を襲った台風19号でした。

 下の長野県内各地の10月の降水量は、ほぼ2日間に渡る台風による雨です。

 長野・群馬県境が特に多いことがわかります。ちなみに、10月12日の24時間雨量は、北相木395.5mm、佐久市303.5mmでした。

 この台風による洪水被害は、長野市の「新幹線車両基地の浸水」や「千曲川堤防の決壊」などが、全国に大きく報道されました。佐久地方でも、千曲川の主に東側から流れ込む支流が溢れ、床上浸水や堤防の決壊などの被害が多く発生しました。

 ところで、広川原集落は、佐久市に所属しますが、地形的には湿った大気が秩父山系や県境の山にぶつかって上昇し、激しい雨雲となる条件を備えた場所に当たります。

 正式な気象データはありませんが、北相木や佐久市の東部地域よりも、もっと多くの降水量だったことが予想されます。数名が暮らす集落からは、田口峠を越えて長野県側(佐久市臼田)へも移動できず、反対に群馬県下仁田側にも下れません。まさに、陸の孤島として、高齢者ばかりが取り残されました。台風通過後、ヘリコプターが出動して、佐久市側に救出されたニュースが流れました。 

 

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令和元年(2019年)10月の長野県内各地の降水量

 令和元年の10月の俳句会へ、

『秋出水 案ずる行方 難無きと』という句を出しました。

 私の住まいは、同じ佐久市内でも西山の際で、やや高台にあるので、降った雨は、そのまま低い佐久平に流れて行ってしまいます。だから、どうしても、高見の見物のように聞こえてしまいそうですが、この日は、『これだけ降れば、下流域では大きな被害になるだろうな』と予感し、流れていく水の行方がとても気に掛かりました。そして、案の定という災害となってしまいました。

 流行時期には、やや遅れてしまいましたが、新書ベストセラー「人新世の『資本論』(斉藤幸平氏)」の本を、最近読み返しました。筆者の述べたい趣旨は、最後半の、人々の意識が変わり、政治・経済体制が改善されないと、例えば、二酸化炭素の削減をめざしたとしても、根本的解決には繋がらないということの意味も、多少なりとも理解できるようになりました。

 そんな目線で、『米国ユナイティド航空が、現行のジャット旅客機の2倍の速度が出せる超音速旅客機(Overture)を購入する』と発表したニュース(6/5)を見ると、そんな必要ないよ!と感じます。この計画には、日本航空も投資していると言います。

 海外など、私の場合は、滅多に行かないですが、渡航に半年もかかるようでは困るけれど、一日二日で行ければ、それで十分ではないかと思う。長野新幹線は、東京まで行くのに大変有り難いが、リニア新幹線まで・・・必要なの?と思う。

 物欲を離れて、悟りを開いた人間では決してないが、自分の幼少期と比べ、もう十分に物については幸せ過ぎるからいいです、満足していますという心境です。それだけ、老人になったのかな・・。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-124

4. 牛馬沢の調査から

 当時まだ営業していた「ドライブイン草笛」さんに駐車させてもらい、北側の遊歩道を下って、牛馬沢の標高915m付近(【図-①】)から、調査を始めました。いくぶん青味を帯びた暗灰色の粗粒砂岩層がありました。凝灰質で、風化すると黄土色に変色し、滑滝を造るタイプの粗粒砂岩層です。
 標高918m、南東からの小さな沢の流入する付近(【図-②】)では、暗灰色粗粒砂岩
層が滑滝を形成していました。砂相が圧倒的に優勢ですが、わずかに黒色頁岩層を挟み、繰り返すこの境を周期に、水流が浸食して凹地(窪地)を作ります。

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内山川上流部・牛馬沢のルート・マップ

 これから観察していく上流側でも、同様な窪地群ができていました。【写真-下】
全体の岩相は大きく変わらないものの、沢水の浸食に差ができて、沢底がやや深くなって小さな淵ができます。

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ヒキガエルが一匹ずつ棲息する窪地

 その窪地群に、なぜかヒキガエルが一匹ずついるのです。最初は「あっ、いるな」ぐらいの認識でしたが、あまりに発見の偶然が重なるので、最後はヒキガエルが居ないと捜しました。きっと、窪地群ぐらいの規模の水域の広さが、「なわばり」なのかなと思いました。

 粗粒砂岩層の走向・傾斜は、黒色頁岩層との境で、N30°W・30°SWでした。
 ここから標高935m付近まで、同様な粗粒砂岩層の滑滝が続き、わずかに、黒色頁岩層が挟まります。そして、ヒキガエルを見つけました。

 標高920m付近(【図-③】)では、粗粒砂岩層の中に黒色頁岩片や同質の塊が取り込まれていました。【写真-下】粗粒砂岩の茶色がかった色は、風化色です。最大なものは、80×100cmほどでした。ちぎれたような不規則な岩片もあります。ここでは、N70°W・30°NEと、北落ちになっていました。

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黒色頁岩片の塊が入る

 標高935m付近(【図-④】)では、いくぶん黒色頁岩層が多くなり、砂優勢ですが粗粒砂岩層と互層していました。N60°W・20~30°NEと、ここでも北落ち傾向でした。
 少し上流で、目視できる互層部の小褶曲が見られたので、同質の層準が褶曲しているのかもしれません。

 標高940m付近(【図-⑤】)では、凝灰質のいくぶん青味を帯びた暗灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は測定できませんでしたが、傾斜が水流と逆(北落ち傾向)なので、落差2mほどの小滝を形成しています。

 小さな枝沢を登り、最初の二股(【図-⑥】)でも、同質の粗粒砂岩層が見られました。ここは、民有地で牧場となっていて、露頭はありませんでした。【図-⑦】には、牧場の牧舎などの施設がありました。

 同じルートで沢に戻り、2番目の小さな沢との合流点(【図-⑧】)付近でも、同質の粗粒砂岩層があり、落差1.2mの滝ができていました。
 合流点の上流15m、標高950m付近の右岸(【図-⑨】)では、黒色頁岩層が見られるようになり、粗粒砂岩層との互層が見られました。N30°E・30°NWでした。

 標高955m付近(【図-⑩】)では、小さな黒色頁岩片を含む灰色粗粒砂岩層が見られました。構成粒子の砂と黒色頁岩片が「ゴマシオ」のように見えるので、そう呼びましたが、凝灰質ではなくなっていました。そして、標高960m付近(【図-⑪】)では、黒色頁岩の塊や不規則な岩片が入る粗粒砂岩層が見られました。前述の【図-③】の産状に類似していました。

 東から小さな沢と合流する標高965m付近(【図-⑫】)では、大きな安山岩の転石が親子の熊のように見え、「熊石」などと名付けました。

 標高970m(【図-⑬】)では、黒色頁岩層が見られました。やや崩れやすくなっていましたが、N30°E・50°NWの測定値を得ました。
 標高975m付近(【図-⑭】)では、同質の黒色頁岩層ですが、激しく崩れていました。東からの小さな沢の合流点で、蛇紋岩や白チャートの転石があり、疑問に思いました。(道路も近いので、人為的なものであるかもしれません。)

 

      《内山層の基底礫岩層群》

 標高980m(東からの小さな沢)から985m付近(【図-⑮】)では、内山層の基底礫岩層が見られました。沢の流路から見て、層準的には上位から観察していきます。
 最初は、わずかに黒色頁岩層を挟む礫岩層で、最大20×15cm(白チャート礫)の巨大な礫を含みます。礫種は、白~灰色チャート、黒色粘板岩の岩片、結晶質砂岩です。
 次に、白色チャートの層状や塊状礫を集めた礫岩層、最大50×60cm(塊状の白色チャート)です。非常に巨大な岩塊と言っていいです。
 そして、チャート礫・黒色粘板岩礫・砂岩礫の礫岩層があり、その下が、粗粒砂岩層でした。・・・・地層の堆積した順番は、以上述べてきた順番を逆にしたものです。
 この傾向は、内山川本流で見られた基底礫岩層群の特徴と同じでした。すなわち、不整合で良く観察される「基底礫岩層」と言われる礫岩層の堆積に先立ち、まず、粗粒砂岩層が堆積しています。次に、基底礫岩層、そして、巨大な岩塊を含む礫岩層の順番です。この露頭が、佐久側で見られる内山層の基底礫岩層の最も東側になります。
(但し、巨大な岩塊を含む礫岩層は、堆積盆の端と思われ、全域で見られるわけではありません。)

              *   *   *

 

 このすぐ上流(牛馬橋まで目測で150m)(【図-⑯】)で、明らかに内山層のものではない礫岩層が見られました。礫種は、軽石(1cm×3cmの押しつぶされている)や黒色頁岩片、砂岩片で、稀にチャート礫が含まれます。全体は極めて凝灰質で、ハンマーで叩くと鈍い音がします。層厚20cmほどの凝灰岩層も見られました。水分を含むと青味を帯びた灰色で、断層粘土のようにも見えました。兜岩層の礫岩層です。

 標高990m・南東からの沢の合流点(【図-⑰】)では、巨大な礫岩の転石がありました。言わば、拳大の礫が固まった集塊岩のような形態です。
 牛馬橋の上、標高995~1000m付近(【図-⑱】)では、広く礫岩層が分布していました。礫種は、安山岩・ガラス質安山岩(黒色)・結晶質砂岩・粗粒砂岩で、最大径15cmほどあります。これらの礫岩層は、内山層を覆う「兜岩層」と考えられます。

5. 根津古沢の調査から

 

【編集後記】

 この後、北部域の沢『5 根津古沢(ねづこさわ)・俗称「ねっこさわ」』の原稿がくることになっていますが、未完成です。

 調査は、平成11年度(1999年)に委員会で、東隣りの「モモロ沢」と共に行いましたが、入口付近からわずかでした。(六川資料)

 私自身は、二度、足を運んでいますが、いずれもちょっと立ち寄っただけです。

 根津古沢のルート・マップは、「地球科学45巻3号(1991年5月)P203~P216」の小坂共栄先生らの論文で見ているので、概要はわかりましたが、素人なので、自分で実際に見聞きしたデーターでないと良く説明できません。

 平成14年(2002年)11月3日に、小坂共栄先生・野村哲先生・地団研埼玉支部の皆さんと、車で入りました。そして、「内山断層が通過しているであろう」と推定できる場所の観察をしました。【写真―下】の砂防ダムの建設中でした。

 根津古沢の標高850mの二股から、直線距離で70mほど下流の、標高838m~840m付近です。左岸側を見ると、ほぼダム建設の箇所から下流側に幅30mほどの破砕帯があり、すなわち断層(内山断層)の証拠かと思われました。 

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砂防目的のダム工事中(2002年11月3日に撮影)

 ここを訪れた後、その後、正式に調べようと思いつつ、さらに定年退職後、何度も調査を口にしながらも、新たな地域が課題となって、そちらに出かけ、とうとう未実施です。(しかし気持ちだけは、再調査するつもりでいます。)

 ちなみに、内山断層は、初谷鉱泉から、この砂防ダムの下を経由し、尾滝沢、内堀沢~温泉の西側沢(フィールドネーム)付近まで追跡できました。また、完全ではありませんが、内山層の堆積後に生じた「南北性の断層で切られている」ことも確認しました。

 当時の地学委員会の仲間は、ほとんどが退職しているので、年一回ぐらい、「交流と調査感を維持する為に、フィールドに入ろう」などと話題にはするものの、なかなか腰が重くなってきています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-123

3. 初谷沢の調査から

 地質調査を進めていく上で、いくつかの波があります。仲間と一緒に入ることはあっても、単独で入ることは、あまり多くありません。しかし、平成14年の夏休みは、夢中になって単独調査にのめり込みました。


初谷沢の内山川との合流点付近(【図-①】)と沢の入り口付近(【図-②】)については、内山川本流(3/3)で説明しましたが、内山層の「基底礫岩層群」が分布しています。明灰色粗粒砂岩層(2m)の上に、礫岩層(5m以上)が、載っています。

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再掲載:【図-①】露頭

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再掲載:【図-②】露頭

 「大月層」と内山層の不整合は、『内山川本流(2/3)【図-⑮露頭』で確認できますが、断層で接しています。但し、目視できる2つの断層で、大月層の黒色粘板岩や中粒砂岩が破壊されて、内山層の礫岩層と接しています。
 また、南部域(後述)の、例えば腰越沢では、山中地域白亜系を巨礫を含む基底礫岩層が、不整合関係で接しています。
 基底礫岩層の下位に粗粒砂岩層が認められる産状は、北部域だけの特徴のようです。

              *  *  *

 沢の湾曲部(【図-③】)では、やや砂質ではあるが、黒色粘板岩(slate)が見られました。黒色頁岩層も見られ、境でN80°W・30°Sでした。 次の湾曲部(【図-④】)では、黒色粘板岩層(EW・40°S)が見られました。

 沢が南東に湾曲する付近(【図-⑤】)では、黒色粘板岩層、暗灰色粗粒砂岩層、礫岩層(50cm以下)の互層が見られ、層理面でN70°W・45°Sでした。一部、黒色粘板岩の上に載る粗粒砂岩層が整合しない所があり、目視できる小断層が認められました。

 標高860m~865m付近(【図-⑥】)では、安定して黒色粘板岩層(slate)が続きました。一部に砂質な黒色頁岩層も挟まれています。同質の岩相の為、走向・傾斜は測定できませんでしたが、全体状況からは、南傾斜40°ほどと推定できそうなので、泥相部分の層厚は、120mぐらいになります。結構な厚さです。

 東からの小さな沢の合流点付近(【図-⑦】)では、川底に礫の入る粗粒砂岩層が見られました。

 標高870m付近の沢の湾曲部分(【図-⑧】と【図-⑨】)では、再び黒色粘板岩層が見られました。走向は、N80°Eで、湾曲部の小さな崩れでは、一部で30°Sと緩くなる所もありましたが、40°S~50°S~65°Sと、傾斜が増し、南落ちでした。

             *  *  *

 標高875m二股から、東南東に延びる沢(右股沢)に入りました。入口から20mほどで、暗灰色細粒砂岩層がありました。その上流から、標高950m付近までは、黒色粘板岩層で、わずかに黒色頁岩層も挟まれていました。走向・傾斜は、EW・垂直~60°Sと、南落ちでした。走向は、沢の延びる方向とほぼ一致しているようです。

 (【図-⑪】)岩相と厚く連続した露頭は、本流の【図-⑥】に対応しそうです。

 

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初谷沢のルート・マップ

 同じ二股に戻ります。本流のすぐ上流では、黒色頁岩層(N80°W・50°S)でしたが、沢の湾曲部分(【図-⑫】)では、下流側から中粒砂岩層(N10°E・60°E)/崩れた部分/黒色頁岩層(N20°W・30°E)と、走向・傾斜が乱れています。そこで、北から流入する小さな沢を登って、道路露頭を確認してみることにしました。

 【図-⑬】付近では、北から流入する小さな沢の西側に、コンクリートの防護壁がありました。沢の川底は中粒砂岩層です。そして沢の東側の黒色頁岩層(N60°W・垂直)に対して、防護壁の西側の黒色頁岩層(N60°E・70°N)は、走向・傾斜が大きく乱れていました。【図-⑫】の崩れ部分は、道路露頭【図-⑬】と関連しているものと思われます。周囲が、比較的安定した走向・傾斜なので、断層の可能性が高いです。

 同じ沢を使って再び、本流に戻りました。
 合流点から上流部は、黒色頁岩層が続き、EW・65°Sと、走向・傾斜は元の傾向に戻っていました。(【図-⑭】)
 ところが、標高890mの沢の湾曲部(【図-⑮】)では、黒色頁岩層の中に、暗灰色中粒砂岩片が入っていて、N70°W・50°Nと、北落ちに変わりました。少し上流でも、黒色頁岩層(EW・40°N)は、同様な傾向でした。

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 共に東から小さな沢の流入する標高895~905m付近(【図-⑯】)では、黒色頁岩層が続き、EW・80°Nでした。

 標高910m付近では、黒色頁岩層(N80°W・80°N)があり、右岸側に、礫岩層がブロック状に貫入していました。内山層で話題にしてきたコングロ・ダイクに似た産状
です。幅5cm×長さ3mが、曲がりながら入っていました。(【図-⑰】)

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内山断層か? 【図-⑱】露頭

 標高915m付近(【図-⑱】)では、下流側から黒色頁岩層が続き、層厚40cmほどの礫岩層が見られました。その上に、熱変質による珪酸分の富化した泥岩層があり、石英斑岩(Quartz-Porphyry)(【図-⑲】)と接していました。

 礫岩層は、長さ1~2mの3ブロックが、上流側から長い敷石を並べたように分布していました。ちなみに、N50°W/N60°W/N20°Wの方向に蛇行するように配置されていました。
 また、礫は現世の川底の石かと見間違えるような印象を感じさせるもので、最大20×15×15cm3もありました。

 砂岩の礫が多く、珪質砂岩や火成岩(流紋岩や粗面岩など)の礫も認められました。
珪質化した泥岩と石英斑岩は、シャープであるので、断層で接しているのではないかと思われます。方向は、N50°E・30°NWと測定できました。
 石英斑岩の露頭(【図-⑲】)の上流側は確認してありません。

 

 《初谷沢の地質のついての解釈》

 初谷沢全体の情報から走向・傾斜だけを見ると、中流部の【図-⑭】と【図-⑮】の間に、背斜軸がある褶曲構造も考えられます。(そういう風に解釈した先人の資料もあります。)
 しかし、下流側は黒色粘板岩層で、上流側は黒色頁岩層で、変成程度は大きく違います。

 寧ろ、【図-⑫】と【図-⑬】付近で断層が推定されるので、褶曲構造(背斜)ではないと考えています。

         

 【編集後記】

 初谷鉱泉の少し下流で、『内山断層ではないか?』と思われる断層面を観察した時、

感動しました。

 しかし、大きな時代を画する割には地味な存在で、それにも驚きました。ただ、この露頭は、小坂共栄先生や野村哲先生らが、存在を証明してくれたものなので、きっと確かなんだろうなと、思いました。

 ところで、今日は、ニンニクの土寄せ(午前)と、ジャガイモの土寄せ(午後)と、鍬での農作業だったので、疲れた一日でした。(おとんとろ)