北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-138

 中部域の沢

 

4. 湯川~温泉の沢の調査から

 平成18年5月27日、「湯川」と「温泉の沢(名称不詳:温泉跡があるので命名した)」に入りました。岩相については、特筆するような話題はありませんが、隣接するふたつの沢の地層に関連性がなく、まったく繋がらないという、別な意味で重要な情報を得ました。断層を推定する根拠になりました。(【余地川支流のルートマップ】を参照)

 尚、前日(5月26日)の夕刻、長年にわたり地学委員会委員長をされた伴野拓也先生が、ご逝去されました。私たちは、この日の調査の後の汚れた服装で失礼かとも思いましたが、共に大自然の中を歩き回った先生なら、寧ろ、懐かしんでくれるかもしれません。自宅に寄って、お焼香をさせていただきました。代表して六川先生が弔辞を述べました。

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余地川支流のルート・マップ(谷川本流との対比)

 湯川橋の上流20m(【図-①】)では、熱変質した帯青灰白色泥岩層が見られました。内山層の泥岩層と思われます。標高1030m付近(【図-②】)では、熱変質した泥岩層と灰白色中粒砂岩層が見られました。変色の様子から凝灰質です。

 標高1035m付近で、白色・灰色・黒色チャートの入った礫岩の転石を見つけました。東側の湯沢などで見られた礫岩なので、東側の内山層が尾根付近まで連続していることを示唆してくれます。

 標高1055m付近(【図-③】)では、軽石(pumice)が入る黒色の泥岩が見られました。ここが周囲と比べて、熱変質していないのは不思議な感じがしました。

 標高1070m二股付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色泥岩層が見られました。(中沢先生は、「玢岩の急冷縁部の風化ではないか?」という見解でした。)

 標高1090m付近(【図-⑤】)では、熱変質した灰白色泥岩層が見られました。そして、標高1100m付近には、かつての鉱泉なのか、湧水を集める設備がありました。酸化鉄や硫黄の析出があり、湧き水には、あまり味がしませんが、硫黄臭がしました。
 標高1125m付近(【図-⑥】)で、石英閃緑岩の転石がありました。この地点の高度から考えて、谷川本流の石英閃緑岩体の一部が、尾根にあって、そこからの落下の可能性があります。

 標高1140m付近(【図-⑦】)では、熱変質した灰白色泥岩層で、わずかに砂岩層も挟んでいました。走向・傾斜は、EW・10°Nでした。

 沢の様子から露頭が望めないので、西に沢を詰め、谷川と余地川の分水嶺尾根に出ました。標高1200mの鞍部に出ると、霧雨となり、南側の降りる尾根がわかりません。北西に延びる尾根の「☆」印まで偵察に行き、鞍部から西に下り始めたところで間違えに気づきました。スタートのわずかな違いで、谷川水系に降りてしまうところでした。

 気持ち西南西に余分に進んでから、沢を下り、【図-⑧】(1120m付近)に出ました。珪質の暗灰色砂岩が見られました。

 1080m二股を確認し、一気に下りした。標高1030m付近(【図-⑨】)では、珪質の暗灰色砂岩層の露頭がありました。岩相から、内山層のものとは考えられないので、ジュラ系かもしれません。

 標高950m付近で、谷川の「赤谷」集落に通じる林道に出ました。周囲は、熱変質して原岩の様子がわからなくなっていましたが、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)が見られました。(【図-⑩】)地図上の温泉は、現在は使われていません。

 露頭がほとんど見られなかった「温泉の沢」でしたが、内山層らしい地層は皆無で、先白亜系(ジュラ系)と思われます。直線距離で数100mしか離れていない隣接した沢で、まったく違う時代の地層が展開していることから、この2つの沢の間に断層のような構造があるのは確かなようです。(地形から見て、湯川の西の尾根の少し西側ではないか?)
 また、谷川本流の内山層基底礫岩層が、北へも南へも追跡できないことから、この延長先にも断層を推定しても良さそうです。
 それで、矢川水系と余地川~ダム湖周辺の地質図に関して、内山層と先白亜系の分布、および断層を下図のように推定しました。

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余地川~ダム湖周辺の調査から、推定断層の位置が明らかになった (地質図の関係部分)

 内山層は、湯沢と余地ダム北側の沢では、基底礫岩層で先白亜系を不整合に覆っています。それ以外の南縁は、断層で先白亜系と接しています。
 湯川と温泉の沢の間には、「矢沢断層」が抜けていると推定しています。
 「矢沢断層」は、四方原山(よもっぱら)の西から、都沢上流部を経て、矢沢(推定・標高978mのコンクリート製橋付近)を抜け、余地川に達しています。
 この先は、谷川上流部から滝ヶ沢林道の沢(標高1000m付近)を経て、雨川水系右岸の阿ざみ沢下流部で解消すると推定しています。

 

【編集後記】

  この付近の地質構造解析は、比較的、証拠がl得られたという感触があります。内山層の下部層、それも基底礫岩やそれに準ずる層準と、ジュラ紀付加体と思われる従来の地層名「海瀬層」との違いを見つけていけば良かったからです。

 後述しますが、「矢沢(やざわ)」では内山層が、何が原因か不明ですが、ものすごく珪質でチャートに匹敵するくらいの産状で、化石の発見がなければ騙されるところでしたが、さすがに、新第三紀層とジュラ系では、岩相が明らかに違うので、容易に見分けられました。

 それで、推定断層ですが、大胆にも、南北に連なる「矢沢断層」と、東西に連なる断層(名称は付けていませんが、延長は熊倉川にも延びている内山層と基盤岩を画する)

で、構造を説明しました。最新版は、内山断層の北側を含む地質図ですが、前述の内容がわかるように、地質図を再掲げします。

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山中地域白亜系から内山層の地質図(仁科原図の修正版)

 

 ところで、今日の午後に、Pfizer(ファイザー)社製のCorona Vaccine(コロナ・ワクチン)の2回目の接種をします。それで、午前中は、農作業には出かけないで、しばらく滞っている「はてなブログ」を挙げることにしました。

 早いもので、佐久地方の伝統行事8月1日の「お墓参り」をつい先日に行なったという感覚がありますが、明日は、迎え盆の前日、昔なら「花市」と言って、仏壇を飾る生花を買い求めたり、野山に採取に行ったりする日となります。

 一日早いですが、私は、仏間や仏壇の掃除をして、先祖のお位牌や盆提灯の飾り付けを始めようと予定しています。伝え聞くところによると、接種の2回目では、発熱する事例もあるとのことですが、どうか元気にお盆の準備ができますようにと祈っています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-137

         中部域の沢

 

3. 余地ダム湖周辺の調査から

 平成17年9月3日、午前中に石切場に通ずる「湯沢」を、午後「余地ダム北側の沢」を観察しました。石切場では、安山岩質溶岩の「火道」跡を見つけ、写真撮影しました。また、余地ダム北側の沢では、内山層と先白亜系の不整合を見つけ、不明だった地質構造が見えてきました。(【余地ダム湖周辺ルートマップ】を参照)

 

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余地ダム湖周辺のルート・マップ

 余地ダム湖の脇に車を置いて、工事用の新しい道路から湯沢に入ると、標高1075m付近(【図-①】)では、礫岩層が見られました。

 標高1080m付近(【図-②】)では、帯青灰白色細粒砂岩層が見られました。さらに、1090m~1100m付近でも、道路の東側で、同質の露頭が続きました。

 標高1100m付近(【図-③】)では、巨礫が入る帯青灰白色細粒砂岩層が見られました。礫種は、白チャート(最大は、5×7cmの亜角礫)と、砂岩(最大は、5×8cm)でした。標高1005~1015mも同様ですが、礫の大きさは小さくなり、最大でも、白チャートの2cm大でした。

 標高1120m付近(【図-④】)では、礫岩層(N40°E・20°SE)が見られました。礫種は、白~灰色チャートや珪質の粗粒砂岩です。北からの水の流れていない沢との合流点手前、1128m付近でも、一部、珪質の粗粒砂岩層もありましたが、同質の礫岩層が見られました。標高1130mの沢状地形は、見逃すほどでした。

 そして、標高1140m付近(【図-⑤】)では、礫岩層と粗粒砂岩層が見られました。礫岩は白チャートが多く、また粗粒砂岩は珪質で、これが共通する特徴ですが、上流ほど礫の最大径が小さくなっています。走向・傾斜は、EW・5~10°Nで、上流側ほど上位の地層であるので、一連の礫・粗粒砂岩層として良いのではないかと思いました。そうなると、【図-④】~【図-⑤】は、内山層の基底礫岩層に相当する層準なのかもしれません。

 標高1155m二股(【図-⑥】)では、熱変質した明灰色細粒砂岩層が見られました。同質の地層は、道路に沿う右岸の尾根にも見られました。
 標高1170m付近(【図-⑦】)では、同様に熱変質した明灰色細粒砂岩層が見られ、走向・傾斜は、N60°E・10°Nでした。同質の地層は、標高1200m付近の道路が大きくヘアピンカーブする所でも見られました。。

 「金子鉄平石」の私道(アスファルト道)は、傾斜10~15°で、曲がりくねりながら山頂に繋がります。標高1250m付近(【図-⑧】)では、熱変質した細粒砂岩層が優勢な泥岩層との互層が見られ、N70°W・18°Nでした。ほぼ同じ標高で、東に15mほどの所(【図-⑨】)で、比較的熱変質の少ない砂泥互層部があり、走向・傾斜を測ると、N40°W・25°NEでした。この少し上は、安山岩(鉄平石)を掘り出した跡でした。

 安山岩溶岩の貫入があったにも関わらず、内山層の堆積層が山頂直下まで、それほど乱されることなく整然していることに、驚きました。

 私道を東へ、少し登りながら移動すると、標高1310m付近に、石切場がありました。(【図-⑩】)
 この地域の標高の高い尾根の部分は、安山岩露頭で、【図-⑨】の上と、西側が既に切り出した場所(写真)のようで、東側を現在掘り出していました。
採石済みの板状節理の傾向は、N20~40°E・40~50°SEで、現在、採石中の節理は、ほぼ水平でした。

 ところで、「鉄平石(てっぺいせき)」というのは、安山岩(Andesite)の中でも、特に板状節理が発達していて、一定の厚みのある板のように割れる性質がある石材に付けられた名前です。地下のマグマが地表や比較的浅所で冷えて固まった時、冷却面に平行に割れ目ができやすくなると言われています。
 安山岩溶岩の崖で、やや茶褐色の場所を見てみると、周囲の板状節理の堅固な溶岩に対して、巨大な安山岩塊や溶岩ではない岩片(捕獲岩)が、ルーズに乱雑に配置されているゾーンがありました。
 地表で見られる安山岩でない深部の火成岩(最大径60~100cm、最小径5~10cm)や、時代不明のシルト岩が、取り込まれていました。これは、この部分が、「火道(かどう)」と言って、マグマの地表への通り道だったろうと思われます。地下深部の岩石をマグマと一緒に持ち上げてきたり、反対に、周囲の溶岩塊を崩して取り込んだりして、乱雑に通り道を埋めた跡だと考えられるからです。
 採石が済めば、無くなってしまう地形や露頭なので、貴重です。全体の写真や各部分の拡大写真などを撮影しました。

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石切場の山頂付近・左側が「火道」跡

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ルーズな巨岩塊や捕獲岩が見られる


 ・・・・・石切場で昼食を取り、午後は、下山した後、余地ダム湖に東北東から流入している「余地ダム北側の沢」に入りました。

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余地(よじ)ダム(ダムの下から撮す)

 標高1065m付近(【図-①】)では、チャート層が見られました。灰色チャートも見られますが、ほとんどが白チャートから構成されていました。粘板岩や珪質で縞状砂泥互層も含まれていました。岩相から先白亜系だと思われます。

 標高1075m付近(【図-②】)でも、同質の地層が続いていました。
 標高1085m付近(【図-③】)では、礫が混じる珪質砂岩が見られました。そのすぐ上流の1085~1090m(【図-④】)では、塩基性火山噴出物(輝緑凝灰岩・schalstein)や帯青明灰色の細粒砂岩層が見られました。(いわゆる、グリーン・ロックです。)

 標高1095mで、余地峠に続く林道のヘアピンカーブにぶつかりました。道路下のコンクリート製トンネルは流木で詰まって通り抜けられないので、道に上がりました。

 林道脇(【図-⑤】)は、巨礫が入る礫岩層で、結晶質砂岩塊や黒色頁岩片は見られましたが、チャート礫をほとんど含まない、分級の悪い、汚れた感じのする礫岩です。結晶質砂岩の最大径は60×100cmでした。
 林道から沢に降りた標高1100m(【図-⑥】)でも、巨礫が入る同様な礫岩層が見られました。
 標高1105m付近(【図-⑦】)では、灰色中粒砂岩層がわずかにありましたが、標高1110m付近(【図-⑧】)では、再び礫岩層が現れ、上流に行くにつれチャート礫の割合が増えてきました。

 標高1118m二股(【図-⑨】)では、北から流入する合流点から下流側がチャート層で、合流点の本流上流側が、巨礫を含む礫岩層でした。チャート層は先白亜系(ジュラ系)で、礫岩層は内山層基底礫岩層と考えられ、両者は不整合関係です。整理すると、「湯沢」と「余地ダム北側の沢」の対応関係および層序は、以下のような対応があります。

  《 湯 沢 》  【 主な岩相 】     《 余地ダム北側の沢 》

【図-②】   ・帯青灰白色細粒砂岩層      【図-④】
【図-③】   ・巨礫の入る帯青灰白色細粒砂岩層 【図-⑤】【図-⑥】
(1005~   (小さな礫入り帯青灰色細粒砂岩層) 【図-⑦】【図-⑧】

 1015m) 
【図-④】図-⑤】 ・礫岩層(分級・角礫→円礫へ) 【図-⑨】~【図-⑬】
【図-⑥】【図-⑦】・熱変質明灰色細粒砂岩層  【図-⑭】~【図-⑮】
【図-⑧】【図-⑨】・互層           【図-⑯】

 

 標高1118m二股から上流は礫岩層で、標高1125m付近(【図-⑩】)には、礫岩が造瀑層となる滝がありました。亜角礫の最大径は30×50cmでした。

 南から流入する小さな沢との合流点のわずか下流、(【図-⑪】)では、結晶質の明灰色細粒砂岩層が見られました。そして、標高1130m付近(【図-⑫】)では、明灰色細粒砂岩層と、巨礫を含まない礫岩層が見られました。砂岩が見られるようになり、チャート礫の少ない汚れた(分級の悪い)感じの礫岩から、珪長質な礫岩になりました。

 標高1135m付近(【図-⑬】)では、礫岩層でできた滝(落差2.5m)がありました。チャート礫や結晶質砂岩礫は、全て円礫で、最大径も5cmと粒度が小さくなっています。N80°E・10°Nの走向・傾斜でした。

 南東からの沢の合流する標高1145m(【図-⑭】)では、熱変質した灰白色細粒砂岩層が見られ、標高1160m二股まで、同様な産状が続いていました。
 二股から、北に延びる左股、標高1170m(【図-⑮】)では、凝灰質暗灰色中粒砂岩層が見られました。一方、右股の標高1175m(次の二股)・(【図-⑯】)では、暗灰色中粒砂岩と灰色泥岩の互層が見られました。やや熱変質していました。調査終了です。

 この後、下山し、青沼小に着いた頃(15:30)から激しい雷雨に見舞われました。

 

 【編集後記】

 平成17年(2005年)9月3日(土)の「湯沢」調査に先立ち、前年の11月に、単独で芦ケ沢(湯沢の西側の沢)に入っている。なぜ、こんな時期に一人で調査したのか、なかなか思い出せなかったので、当時の記録を振り返ってみた。 

 第31回信州理科研究会佐久大会の2日目・11月6日(土)の午後、放送係の仕事が終わったので、余地と赤谷を繋ぐ林道の様子を偵察にでかけた。目的は、断層があるのではないかと考えていたので、その形跡を探るための予備調査だった。

 地図に沢の名称はないが、この時、沢に懸かる橋が「湯沢橋」とあったので、沢を湯沢と呼ぶことにした。また、同様に「芦ケ沢(あしがさわ)橋」とあったので、芦ケ沢と呼ぶことにしたようだ。

 目的の推定断層の確認はできなかったが、八ヶ岳の夕陽のシルエットを楽しんだとあった。石切場に向かう整備された道路はあるものの、既に利用されなくなっている寂しい山道なので、あまりいい気分ではないはずだが、当時は、地質構造解析に燃えていた。

 

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季節は違うが南八ヶ岳(左から、赤岳・横岳・硫黄岳・東西の天狗岳

 ところで、東京五輪も、大会15日目を迎えました。日本選手の活躍も目ざましく、連日感動的な場面を視聴しています。しかし、新型コロナ・ウイルス感染の拡大の勢いも止まらず、東京都ばかりか、全国的に広がってきていて、心配な毎日です。

 ついに私の住む地域も、長野県の警戒レベルで5(特別警報Ⅱ)になり、連日、市の広報(音声放送)で「外出の自粛」を呼びかけています。もっとも、繁華街への外出と心得て、山や畑仕事には出かけていますが、ワクチン接種の2回目は、8月中旬の予定なので、緊張感は高まっています。

 私個人の力では、まったくどうすることもできませんが、せめて感染拡大の勢いが、減少へと転じてくれないかと、祈るばかりです。(おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語-136

2. 谷川本流調査から(後半)

 

 標高990mと、標高1000mには、熱変質した灰色細粒~中粒砂岩層が見られました。特に、後者(【図-⑬】)は、落差3.5mの滝を形成していて、直径4mの円形をした滝壺がきれいでした。

 標高1010m付近(【図-⑭】)では、この沢で初めて、明確な泥相が出てきました。泥岩が熱変成されて粘板岩(slate)になっていました。
N60°E・75°SE(下流側)、N50°E・85°SE(上流側)の走向・傾斜で、小さなコングロ・ダイク(幅5cm×1mと5cm×0.5m)が含まれていました。
この上流、標高1015m付近でも、粘板岩(ほぼEW・垂直)の中に、湾曲したコングロ・ダイクが認められました。

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コングロ・ダイク

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礫の部分の拡大

 
 そして、標高1025m付近(【図-⑮】)では、「三段滝」と名付けた落差8mほどの滝(写真)がありました。造瀑層は、熱変質した灰色細粒~中粒砂岩です。

 この日の調査は、六川先生と私のふたりだけだったので、高所の嫌いな六川先生は、右岸の手前から林間の中を遠回りして滝を越えました。一方、私は左岸の倒木を利用してと思いましたが、捕まる所がなくて登れず、結局、中央の沢の中を登攀しました。

 標高1035mの滝の上は、北からの小沢の合流の後、S字に流路をとって滝口へ沢水が流れ出ます。滝の音の中、観察していた私の背後に六川先生が突然現れ、私は死ぬほどびっくりしました。(一瞬、人と思わなかった。)

 

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谷川の「三段滝」と名付けた滝(下流側から、東に向けて撮影)

北からの沢の合流点より少し上流の、標高1040m付近では、礫岩層が見られました。標高1075mまでの間(【図-⑯】)は、礫岩層が連続します。1045m付近に、熱変質した灰色細粒砂岩層を挟みますが、全体は、円礫で灰白色の1~2cmの礫岩層です。礫種は、白~黒チャート、結晶質砂岩で、最大も5×8cm、8×10cm程度でした。

  南から流入する沢との合流点のわずか下流、標高1055m付近では、帯青灰色中粒砂岩層で、N50°W・8°NEでした。この中に、同質の岩塊が入っていて抜けたような痕跡がありました。(【下の写真】)何なのだろうか?

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何かが抜けたのか?【図-⑰】

 標高1075m(【図-⑰】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層に変わりました。
 走向・傾斜は、N40°E・13°SEと、N50°E・8°SEでした。

 南からの沢の合流点、標高1080m付近では、再び礫岩層が見られました。(【図-⑱】)
 全体は、熱変質した灰白色中粒砂岩層です。南からの沢の合流点(【図-⑲】)から5m下流に、滝が形成されていました。

 

 この上流も、熱変質した中粒砂岩層が続きました。標高1110m付近は、やや熱変質した泥岩が多いです。
 谷が両岸から迫ってきた標高1165m付近から、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)露頭が現れ、標高1180m付近まで確認できました。これまでも、谷川の下流域(例えば【図-⑦)】や【図-⑩】)から石英閃緑岩の岩枝のような産状は見られましたが、ここは、ある程度、まとまった岩体の一部が地表に露出していると思われます。
 もう少し上流部までありそうでしたが、少し天候が怪しくなり、確認しないまま下山することにしました。

 

 

       谷川の地質柱状図から

 荷通林道の鳥居近くの第1堰堤から、標高1165m付近の石英閃緑岩まで、地質構造解析と共に小区間の平均傾斜を推定し、地層の層厚を推定してみました。
(【谷川本流のルートマップ】と、【地質柱状図】を参照)

 基盤岩は、先白亜系で、標高940m付近の内山層基底礫岩で不整合に覆われるまで続きます。走向・傾斜から、いくつかの褶曲構造(背斜・向斜)があり、320mほどと、少なく計測されましたが、分布域はもっと広いので、全体の厚さは数千m規模です。従来、海瀬(かいぜ)層と呼ばれていた地層で、佐久穂町の「一ノ淵」からフズリナ化石(古生代二畳紀後期)が発見されていますが、今ではジュラ紀付加体と考えられています。
 (私たちは、先白亜系として、御座山層群に名称を統一してあります。但し、海瀬層は、秩父帯の北帯に属します。)
 内山層下部層は、基底礫岩層から砂相までの、約85mです。中部層は、泥岩中のコングロ・ダイクを含む層準(40m)から砂相までの約90mです。内山川水系の沢では、コングロ・ダイクを含む層準は2層準ありましたが、谷川は1層準だけでした。
 内山層の調査段階で、当初、中部層を設けていましたが、全域にまで拡大するには無理があるデーターもあり、一応、内山層を上下の2つに区分する場合は、中部層は下部層に含めます。 最後に、礫岩層や粗粒砂岩層から上位の層準が、内山層上部層です。この柱状図に、さらに上流部の熱変質灰色中粒砂岩層(2005年の調査)を加えると、約150mになります。上部層最下部の粗粒岩~砂相は、基底礫岩層と共に全域で確認できます。内山層は、大きな堆積輪廻の中で、一度、海退期を迎えたことが、岩相変化の証拠からわかっています。
 内山層基底礫岩層と不整合関係の産状で観察された石英閃緑岩は、内山層上部層も熱変質~熱変成しているので、地表近くへの貫入時期は、内山層堆積後のことになります。当地域では、玢岩貫入による熱変質の影響もありますが、石英閃緑岩体の方が、熱源として影響力は大きいです。

 

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谷川の地質柱状図(中部層は、下部層に含まれる)

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谷川本流のルート・マップ



   【編集後記】

  内山層の堆積盆については、他の地域の情報も紹介した後で触れる予定ですが、谷川は、他の地域と違って、砂相が卓越しているという特徴がありました。

 基盤岩(海瀬層)と不整合関係で接っし、多分、堆積盆の西端に近いと思われます。

 沢の印象は、綺麗な水流と、いくつかの滝があって、沢旅を楽しむこともできそうです。下の写真は、エピソードで朽ちた大木の根と、引っかかった丸い石が「龍の玉」のように見えた地点の様子です。(忘れていると思われるので、龍の玉を再掲します。)

 

 

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谷川の中流部の様子

 

 

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龍の口の中に玉石がある


 また、上流部はツツジの群生が、広葉樹の林の中に見られ、心和ませてくれます。

写真は、回転させる前のものを載せてしまいました。申し訳ないです。

 

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谷川上流部、ツツジの群生

 ところで、連日の猛暑の中、東京五輪大会が開催され、日本の選手のみならず、世界の強豪選手の活躍振りが報道されるのを楽しみに視聴しています。もっとも、テレビにかじりついての観戦というわけではなく、自分の特に興味のある種目や選手の場合でないと、ハイライト番組を見ることが多いです。(私も、この猛暑の中、午前と午後、2時間程度の農作業を続けています。)

 そして、メダリストへのインタビューも興味深く拝聴しています。どの選手の内容も、コロナ禍を乗り切ろうと下向きな努力をしたこと、感染拡大のリスクを負いなからも、大会関係が競技場を提供してくれたことへの感謝を語る内容に、感激します。

 どの選手の場合も、それぞれの背景と人柄や性格もあって興味深いものがありました。その中で、ボクシング女子・フェザー級で金メダルを納めた入江聖奈(いりえ・せな)選手(日体大)のインタビューも心に留まりました。小さな頃から始めた競技ですが、予定では来年の大学卒業を機に止め、就職して企業人としての道を歩みたいというものです。本人は、「有終の美」と語っていますが、私は、もしメダルを獲得できなかった場合でも、同じ道を選んでいく人だと思いました。

 もの凄いアスリートでも、年齢と共に体力的に衰え、場合によっては技術も低下して、現役の競技者から去っていくことが多い世界です。その中で、異色な印象も持ちましたが、これもありだと、私は、寧ろ共感しながら聞いていました。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-135

2. 谷川本流調査から(前半)

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東西方向に延びる谷川(やがわ)

【注】上の谷川のルート・マップでは、細部がわかりにくいので、90°回転させた縦長のものを載せました。

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谷川のルート・マップ


 平成16年10月17日、一日中快晴で、沢の中はちょうど良い気温でした。各地で熊出没の報道がなされていた頃ですが、その形跡はありませんでした。しかし、滝の高巻きでは苦労しました。

 荷通林道・鳥居の上流にある堰堤から沢に入ると、凝灰質の帯青灰色細粒砂岩層が見られました。
南からの沢の合流点を過ぎ、薄紫色を帯びた結晶質砂岩層から成る小さな滝があり、走行・傾斜は、N50°E・80°NW斜でした。(【図-①】)
 第2堰堤を越えて、右股・本流を進み、【図-②】では珪質の細粒砂岩層が見られ、N30°W・50°NEでした。

 標高855m付近(【図-③】)では、急冷縁部のある枕状溶岩が観察できました。【写真】ただ、周囲は溶岩の破壊されたものだけでなく、様々な礫も混ざった礫岩層という産状から見ると、一次堆積場所から運搬されたものかもしれません。

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 標高865m付近(【図-④】)では、青味がかる灰白色凝灰岩層(N50°E・10°NW)で、その上流、南からの沢合流点付近では火山砂のような凝灰質粗粒砂岩層(NS・70°E)が見られました。
 標高870m~880m付近(【図-⑤】)では、凝灰岩層が多く見られました。玉葱状風化をするものは、N75°E・30°Nでした。また、同質の堅い部分が塊となって入るものもありました。最大1m×1.5mの塊です。【下の写真】

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凝灰岩層の中の玉葱状風化 【図-⑤】

 標高890m付近(【図-⑥】)では、落差3mと2mの二段の滝がありました。造瀑層は、熱変成された結晶質砂岩層で、N20~40°E・30~50°SE傾向の節理が見られました。
 標高895m付近(【図-⑦】)では、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)が見られました。
        

 石碑(明治37年設立)の上流と、第3堰堤付近では、結晶質砂岩層が見られました。
(【図-⑧】)ちなみに、石碑は日露戦争戦没者の忠魂碑でした。
 林道の分岐する地点(標高915m)の橋付近では、灰白色の凝灰岩層が見られました。

 標高930m付近(【図-⑨】)では、珪質で灰白色細粒~中粒砂岩層があり、肉眼で石英も見られました。少し上流で、帯青灰色砂岩層(左岸)を挟んだ後、右岸の珪質で灰白色細粒砂岩層が続きました。

 そして、標高935m付近(【図-⑩】)では、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)が現れました。 そのすぐ上流(標高940m)の礫岩層は、直方体などの角礫で、分級されていない乱雑な配列の礫岩層です。礫種は、(ア)灰白色砂岩(最大70×30cm)、(イ)粗粒砂岩(50×20cm)、(ウ)珪質砂岩(35×25cm)、(エ)花崗岩(45×20cm)、(オ)黒色頁岩片(他と比べ丸い、最大5×10cm)で、巨大な岩塊を含んでいます。チャート礫、黒色頁岩片が少ないのが特徴です。
 マトリックスは粗粒砂岩で、内山層の基底礫岩層だと思われます。標高953m付近まで、礫岩層が見られました。(【図-⑪】)

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石英閃緑岩と接する内山層基底礫岩層【図-⑩】

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礫の間に石英閃緑岩が侵入



  ところで、石英閃緑岩と基底礫岩層の関係が重要です。
 (ⅰ)【写真・上】の産状:接触部は不整合です。(ⅱ)【写真・下】の産状:石英閃緑岩は礫岩層に部分貫入している。(ⅲ)上流の内山層の砂岩層(【図-⑫】)が熱変質している。
 この事実から、石英閃緑岩体が、不整合面を含む内山層の下に貫入していることがわかります。一方、地質構造から見て、両者の間には、断層が推定されます。つまり、石英閃緑岩体は、不整合面を中心に貫入してきたが、同時に、そこが断層の一部になっているのではないかと思われます。

 標高960m付近(【図-⑫】)では、落差8mほどの滝がありました。造瀑層は、熱変質した灰色細粒砂岩層で、堅いです。正面からの登攀はできないので、右岸側から高巻き、滝の上に出て、標高980m付近から、沢に戻りました。石英閃緑岩が風化した粘土層が見られました。(礫岩層だけでなく、砂岩層にも貫入していました。)

 

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右岸から高巻いた滝(下流側から撮す)

【編集後記】

 本文中で触れた『 石碑(明治37年設立)【図-⑧】・・・ちなみに、日露戦争戦没者の忠魂碑でした』という内容について、プライベートなことですので、内容は詳しく述べることはできませんが、当時のことを思い出しました。

 『陸軍歩兵・上等兵で、名誉ある勲章を受けた』方の石碑でした。調査で、谷川の沢筋を歩いて遡航して、この石碑に初めて接した時、「軍人の遺族や関係者は、どんな思いで、この石碑を建立したのだろう?」と思いました。明治37年(1904年)と言えば、その年から日露戦争は始まっています。

 今でも叙勲されたことは名誉なことですが、明治の時代にあって、明治天皇の御名で給わった勲章は、想像に絶するくらい誇らしいことだったと思います。しかし、我が子を「お国の為」とは言え、失った悲しみは、どの時代にあっても同じです。

 明治の時代にあっては、山仕事で入る道筋であったかもしれませんが、今、私たちも、林道を自動車を使わずに歩いて沢に入ったなら、数時間かかるほどの山の中です。

そんな場所に建立した気持ちを考えました。

 先祖伝来の墓地にではなく、山の中に石碑(墓碑ではない)を建てたのは、人目に触れる山里に建てられない(世間体を大事に)、しかし、誇らしい名誉ある戦死を称えてあげたいという、多分、親の気持ちがあったのではないか・・・と思いました。

 ただ、ひとつ心配なことは、2019年(令和元年)10月12~13日に、佐久地方を襲った台風19号による豪雨で、どうなったかということです。二日間で500mm近くにも達する降水量が記録されました。谷川流域も水害被害がありました。

 沢筋の河原に近い場所に建立されていたので、被害にあったかもしれません。どうか、無事であることを祈っています。最近は、山奥のフィールドに入ることもなくなっているので、確かめに行くことはないと思います。

 ところで、昨日(8月1日)は、佐久地方で、「お墓参り」と称する、佐久平のほとんど全ての家庭や世帯で、先祖のお墓を参拝する一日でした。

 江戸時代の1742年(寛保2年)、『千曲川犀川も)で発生した大洪水による死者を追悼することに由来していると言われています。その年の干支に因んで、『戌の満水』と称せられます。

 西暦で計算してみると、279年前の出来事ですが、その追悼儀式が、今まで、絶えることなく続いていることにも畏敬の念を覚えます。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-134

第Ⅶ章 中部域の沢

 谷川(やがわ)は雨川の南、余地川(よじがわ)は、更にその南を流れる河川で、内山層分布域の中部域に当たります。この地域は、主に平成16年と平成18年に調査をしました。
平成17年度は、後述する熊倉川に挑戦していました。調査年度より、北側からの地域別に紹介していきます。谷川左股沢(8/4 2006)・谷川本流(10/17 2004&5/29 2005)・余地ダム湖周辺(9/3 2006&11/6 2004)・余地川支流、湯川~温泉の沢(5/27 2006)の順です。


1. 谷川左股沢の調査から

 平成18年(2006)8月4日、既に調査済みの谷川本流との関係を明らかにする目的で、左股沢に入りました。(【谷川左股沢のルートマップ】を参照。谷川本流は、概略)

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谷川左股沢のルート・マップ(本流は、概略のみ)

 第2堰堤から沢に入ると、すぐに本流と左股沢の二股になります。

その上流(【図-①】)では、珪質の黒色泥岩層、白色チャート層、凝灰質の帯青灰白色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。互層部で、N32°E・50°NWでした。
 蛇行する川の湾曲部(【図-②】)では、凝灰質中粒砂岩層が、また、【図-③】では、石英閃緑岩(Quartz-Diorite)が見られました。標高860m付近(【図-④】)では、帯青灰色(珪質)中粒砂岩層と黒色泥岩層(礫を取り込み、pyriteが入る)の間で、目視できる小規模断層が見られました。ちなみに、断層面はEW・44°Nでした。

 そして、標高860~870mまでの間の接近した露頭、【⑤】・【⑥】・【⑦】・【⑧】では、この地層のでき方を考える上で重要な情報を提供してくれました。
 【⑤】露頭は、【④】→(東南東へ30m:S70°E)→【⑥】に至る流路で、小さな滝が2つあります。黒色泥岩層の中に礫が、様々な形態で含まれていました。

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黒色頁岩層の中に砂岩層の一部が入る(滝の上)

 いわゆる、「含礫頁岩」に似た、泥岩層です。特に、2つの滝に挟まれた露頭(写真)では、薄い中粒砂岩層が、層の形態を残しながら、泥岩層に不連続に入っていました。ちなみに、層理面が見えず傾斜は不明でしたが、走向と長さは、上流側から、N30°W(2m)切れて、N20°W(2.5m)~N10°W(0.5m)~N40°W(1.5m)、少し曲がり(0.3m)と連なります。(拡大ルート・マップを参照)
 混濁流による堆積物のようにも思えます。

 【⑥】露頭では、黒色泥岩の中に、更に大きな(2m×1.5m)の砂岩岩塊が入っていました。
 【⑦】露頭では、砂泥の関係が逆で、全体が中粒砂岩層の中に、黒色泥岩が層の形態を残しながら、N60°W・60°N(下流側)~N20°W・70°NE(上流側)で取り込まれていました。滝の間と反対で、泥岩層が砂岩層に取り込まれていました。
 その上流では、黒色泥岩層から帯青灰色中粒砂岩層に変わり、次に、礫岩層となりました。礫は、黒色頁岩片や中粒~粗粒砂岩で、短径と長径の関係や級化層理から、重力方向がわかるタイプで、下流側が堆積時の下位を示していました。(⑦の北東落ちから見ると、逆転していることを意味します。)

 【⑧】露頭は、黒色泥岩と凝灰質中粒砂岩の互層で、N50°W・80°SWでした。
垂直に近い傾斜ですが、すぐ下流の礫岩の産状から、上下は逆転しています。(谷川本流のデータからも、背斜構造の東翼に当たり、逆転を支持します。)

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谷川左股沢の①~⑧のルート・マップ(拡大)

 

南東から小沢が合流する標高875m付近(【図-⑨】)では、礫岩層が、また、その少し上流の北からの小沢が合流する所では、珪質の灰色中粒砂岩層が見られました。
 標高880m付近(【図-⑩】)では、帯青灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。走向・傾斜は、N50°W・垂直でした。
 標高910m付近(【図-⑪】)では、沢が荷通林道に接近し、露頭が少なかったですが、再び、黒色泥岩層が露頭幅30mにわたり現れました。わずかに、中粒砂岩層も含みます。
 南東から流入する小さな沢との合流点(【図-⑫】)では、黒色泥岩層が見られ、N50~60°W・50°NEでした。黒色泥岩層や灰色中粒砂岩層との互層が続きました。

 両側からの沢状地形、標高918m付近(【図-⑬】)では、黒色泥岩層が見られました。
しばらく黒色泥岩層が点在します。林道は、沢に迫って併行していました。
 標高940m二股(【図-⑭】)では、廃屋があり、左岸では、砂岩岩塊の巨礫(全体が直角三角形で、1m×1mほど)を含んだ黒色泥岩層が見られました。
 二股から、右股に沿って新しい林道が敷設されていて、少し入った所(【図-⑮】)で、
灰色中粒砂岩層が見られました。熱変質した内山層の砂岩に似ているとの感触を得ました。
林道は、この先も続きますが、車で入れる規格は標高1000mまでです。
 標高1000m付近(【図-⑯】)では、珪質の灰色砂岩の大岩塊が見られました。
 標高1040m付近(【図-⑰】)では、玢岩(pophyrite)の岩脈が見られました。
 尾根の手前、沢が南東に振る標高1080m付近まで調査しましたが、露頭も無さそうなので引き返しました。谷川本流で見られた内山層基底礫岩層が延長は、見られませんでした。(ちなみに、谷川本流935m付近で接している石英閃緑岩体と基底礫岩層の間に断層があり、P1145辺りまでの間で、連続が絶たれていると推測しています。)

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崩れた法面に青シートがかけられている

標高940m二股まで戻った後、沢は土砂が崩れていて露頭は埋まっていそうなので、荷通林道を登りました。この年(平成18年)の7月18日~19日の豪雨被害で道路が崩れ、その修復工事が行われていました。林道は、さらに雨川ダム湖方面まで通じていますが、車での進入は、標高1020mまでです。

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林道工事の重機や大型ダンプカー

 

  谷川左股沢の調査が早めに終了したので、駐車してあった荷通林道入口・鳥居から車で移動して、不老温泉・湖月荘側から「雨川砂防ダムの沢」に入りました。
 雨川ダム湖の放出口の反対側、南に延びる沢を「雨川砂防ダムの沢」と名付けました。沢の入口、地図上の「崖」付近では、岩盤が表土と共に崩れていました。およその方向は、N50°Eで、沢の延びる方向にほぼ一致した、小規模断層と思われま す。二股付近は、熱変質した(内山層の)灰色中粒砂岩でした。
 左股を進み、南に延びる沢の標高900m付近の二股では、熱変質した灰白色泥岩層で、N60°E・30°SEでした。
 この後、標高1060m付近まで沢を詰めましたが、転石ばかりで露頭が無いので、引き返しました。転石情報でも、基底礫岩に関する手がかりは得られませんでした。

            *   *   *   * 

 不老沢:2カ所で泥岩層中にコングロ・ダイク露頭があり、標高1060~1090mで粗粒砂岩層が見られました。(六川資料)

 

  【編集後記】

 調査当日に同行した渡辺正喜先生が、『頁岩の中に礫、特に、「偽礫(ぎれき・slump ball  or  pseudo  conglomerate)」が入るのは、付加体に多く見られると、由井俊三先生(元北海道大学教授)が言っていたぞ!』と話されたことが印象に残っている。由井先生(故人)に、この地を実地に見ていただきたかった。

 谷川本流の調査を紹介した後で、「地質柱状図」を載せる予定であるが、『含礫頁岩層』の見られた地層は、従来の分帯では、海瀬層」と呼ばれている。地団研が示した「関東山地の地体構造区分帯」では、秩父累帯北帯 に属している。 

 かつて、地層名の由来となった佐久穂町海瀬(一の淵)から二畳紀フズリナ化石が発見されたことから、古くは、「秩父古生層」と呼ばれた歴史もあるが、今日では、ジュラ紀の付加体だと、ほぼ確定している。

 そんな渡辺先生から聞いた話を思い出して、「含礫頁岩層」を調べてみた。

 『いわゆる異常堆積について(三梨 昴 ・垣見俊弘)』(インターネット情報)によると、混濁流の結果と位置付けないで、個々のケースに応じた調査・研究の必要性を強調しながらも、大別すると、”表層地滑り型”と、”深層地滑り型”があると述べている。

 雪崩に例えた、表層雪崩全層雪崩はわかりやすかった。大陸棚の比較的浅い所と、深い所というような場合もあるが、堆積物が堆積してからどのくらい時間を経て、固結状態がどの程度進んでいたかも影響する。

 論文の詳しい内容は省略するが、ひとつ残念なことは、発見した目視できた断層が、「固結断層」であったかどうかを見極めていないことである。これも、成因を推定する大切な情報であると言う。

 ところで、令和3年・4月~7月の俳句シリーズを、「はてなブログ」に挙げてから、2週間近い中断がありました。

 途中、みゆき会7月の句会があって、事前に載せたブログを修正しましたが、梅雨明けで、農作業が忙しくなりました。一番は、夏野菜の収穫と水遣りですが、我が家の場合、ジャガイモ掘りに3日かかりました。

 家内と私の、コロナ・ワクチン接種が入ったので、農作業を控えた日も入りましたが、それ以外は、畑の除草を兼ねる耕作もありました。

 この後、畑の周囲や片貝川堤防の除草(草刈り)なども、生活計画に目白押しです。

ただ、嬉しいことに、体重コントロールにいいてす。食事の量を控えていますが、体重が微減していくことに一喜一憂しています。

 ちょっと「平和ぼけ」した話題で済みません。

 しかし、最近のSNS情報を見ると、東京五輪に関して、『過去のことや、、イメージ作りではなく、今の気持ちや現実をを最優先した対応」が大切だと思うのですが。

( おとんとろ)

令和3年文月の句(蛍袋の異名三題)

 【文月の句】

 ① 寄り添いて 万葉語る 風鈴草
 ② 雨上がり 提灯花の 薄暮かな
 ③ 母語るとっかん花咲く遠き夏 《蛍袋の異名三題》 

 

 7月の句会は「暑気払い」を兼ねて少し遠出をし、「吟行」の真似ごとをしてみるのが恒例だったが、コロナ禍が続くので、もうしばらく我慢をして地域公民館で、マスクを付けて開催することとなった。
 今月のテーマは、「蛍袋(ホタルブクロ)」に決めた。我が家の「向山」と呼ぶ畑の土手に蛍袋が咲いている。花株の時期や大きさによって、花がひとつから、見た限りで5つまで、バリエーションがあった。それで、蛍袋は、様々な呼び名があることを知っていたので、花の印象を「異名三題」としてみることにした。

 

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寄り添う蛍袋の花(2花)

 【俳句-①】は、一株に蛍袋の花が2つ付いている印象を詠んだものである。
寄り添う2つの花が、あたかも恋人同士に見えてくる。万葉歌人を真似て、恋文や恋歌を交換しているようである。そんなイメージには、「風鈴草(ふうりんそう)」の異名が、似合うと思った。
 ただ、現代の若者なら、隣り合っていても、携帯電話でメール交換をしているかもしれない。ましてや、恋文という雰囲気ではなく、省略系の短文なのかもしれない。しかし、万葉を語るように感じた爺さんもいたとしておこう。

            *   *   *

 ところで、恥ずかしい秘密ではないが、のろけ話を聞いて、笑って欲しい。
 高校生の頃、ある女性と交際していて、時折、野外でデートをしたことがあったが、校内では、手紙の交換をしていた。鍵は付いていないが、各自専用の蓋付きの下足置き場があって、互いに、小瓶に挿した野草や手紙を入れて置いた。それも、日替わりぐらいの頻度となることもあった。

 さすがに、和歌や短歌を交わしたわけではないが、文書を通じて心の交換をするという雰囲気に、双方が似たような趣味だったのかもしれない。高校卒業後は、進路も違って、離ればなれとなった。

 就職後何年かして、お見合いをして、私が結婚することになる女性が現れた。一年ほどの交際を経て、結婚した今の妻である。

 ある時、『結婚しませんか?』という意味を込めた私なりの恋愛和歌を作って妻となる人に送った。私は、高校時代の彼女のように、返歌があるものと期待していたら、何んと電話が掛かってきた。まったく意味不明だったようだ。
 そんな妻との結婚生活も、来春で40年目を迎える。

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一番下に5つ目の花が付いている

 【俳句―②】は、一株にいくつもの蛍袋の花が付いている印象を詠んだものである。私が、土手で観察した限りでは、5つ目の花を付けたのが最大数であったが、株が大きく成長すれば、もっと多くなるのかもしれない。

 蛍袋の花が、ひとつだけだったら、寺院の鐘楼に吊されている釣り鐘(梵鐘)のようで、『釣鐘草(ツリガネソウ)』が似合う。
 スズランやアマドコロのように、花が小さいと、鈴やベルのイメージだが、蛍袋の花の数が多くなると、『提灯草(ちょうちんぐさ・そう)』かなと思う。

 それで、庭先に咲いていたら、雨上がりの夕暮れ時に、実際に観察したかもしれないが、少し離れた墓地に隣接する畑の土手に咲いているので、出かけて見た訳ではない。
 しかも、名前の「蛍」のように、発光している訳でもないので、辺りが薄暗くなった薄暮には、寧ろくすんでいるだろう。

 それで、想像を逞しくすれば、梅雨の雨が上がった東南東の空に十三日月が見えて、月明かりが微かにあって、それが、あたかも提灯のように見えているのではないか。・・・そんな創作である。
 ちなみに、月齢は11~12日でも良いが、満月(15日)では困る。

 

 

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佐久地方の俗称「とっかん花」


【俳句―③】は、花好きの母に蛍袋を一株手折って持って行ったら、佐久地方での別名「とっかん花」だと懐かしんだので、それを詠んでみた。
 「とっかん花(ばな)」が果たして季語となるかどうか自信はないが、蛍袋のことなので、いいかなと思うが、やはり季語は公式なものだろうと考え、夏を入れた。

 例えば、植物分類で同じ「科(Family)」となる桔梗(キキョウ)の蕾(つぼみ)を、私が子供の頃、指先でつぶして遊んだものだが、今では、可愛そうだし、もったいなくてする気にもならない。

 母たちも子供の頃、袋の下から息を吹き込んで、「とっかんさせる(割る)」のだろうと思ったら、そうではないらしい。

 蛍袋の花を野山から採ってきたら、丁寧に萼(がく)ごと切って、紫蘇の葉の入った梅漬けの汁に良く浸して、全体を柔らかくするのだそうだ。割れたり、切れたりしないようにする。

 そして、遊びでは、穴の開いている方から息を吹き込んだり、吸い込んだりして楽しんだらしい。私たちの知る感覚では、「風船ガム」という粘性の強いガムで、舌先から息を吹き込んで風船を作った時の、楽しみ方に似ている。
 膨らませる過程で、割れてしまうこともあったので、「とっかん花」と言うのかなと想像する。

 遊んだのは、次第に戦争へと進んで行く時代の、小学校低学年の頃だという。皆で遠くまで蛍袋を求めて捜しに行ったり、少し街場の子で手に入らない子には、分けてあげたりした。授業の業間休みには、「とっかん花」で遊んだり、持参した他の遊び道具で、仲間遊びをしたようで、先生から、不要物だと没収されることもなかったそうだ。

 実際、野山の草花を口に含んで楽しむのを、止めさせる理由もなかっただろう。

 

               *  *  *

 

 ふと、20年以上も前になるが、台湾で「檳榔(ビンロウ)

Areca catechu」を噛んで、それを道路に吐きだした真っ赤な跡を見て、汚いなあと感じたことを思い出した。(公衆衛生上、さすがに、今は禁止されていると思うが・・)

 今年の7月で満93歳を迎える母が、「とっかん花」との遠い日の思い出話を、夢中になって語ってくれた。それを孫たちにも伝えたいと思いました。

 

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実生からの蛍袋

 

  【編集後記】

  今月(7月)の「みゆき会」の俳句会は、7月14日(水)に予定されているので、今日(7/9)「はてなブログ」に載せている俳句は、まだ未発表の段階である。

だから、「編集後記」ではないかもしれない。しかし、今朝の信濃毎日新聞(朝刊)の文化面を読んだ後なので、少々、「未来」を進んでいることで、うきうきしている。

 いきものがたり・水野良樹の そして歌を書きながら 『今も未来を食えているか』 と題する文章に共感したからである。

  「起・承・転・結」のある文章の最後(結)の部分を見れば、内容がわかると思うので、転記します。(信毎も含めて、著作権の問題は、宜しく!)

・・・・10代の頃は無知ゆえの根拠のない自信もあってこの先には面白い日々があるはずだと信じることができた。言うならば未来を食って生きてきた。今の自分はこの先に思いをはせ、未来を食うことができているだろうか。自分は、今日ではなく明日のために時間を使うことができているだろうか。

 それはもしかすると精神が若くあるために最も重要な心がけなのかもしれない。今そう思って手を動かしている。 ・・・・・

 共感しました。なぜなら、私の「はてなブログ」の内容は、多くは、何年か前に既に書かれた文章や研究・調査内容を載せ、唯一、【編集後記】とする部分にだけ、少し新しい内容を書き足しているからです。それが、今日の内容は、全てが未来の発表前の内容で構成されていることに、嬉しくなりました。

        *   *   *

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ハナアブ

 ところで、蛍袋の別名「釣鐘草」も使って俳句ができればと頭を捻りましたが、思い浮かびません。しかし、我が家の畑の土手から、南西方向に少し行ったカラマツ林の近くに、ホタルブクロの群生地を見つけ、写真撮影中に「グッド・アイディア」が浮かびました。

 【下の写真】の蛍袋の花群(右上)の一番下の花に、ハナアブが写っています。

「釣鐘(梵鐘)」のような蛍袋の花の中に入り込み、しばらくしてから出てきた瞬間をとらえました。この時、Mさんとの面白いやりとりを思い出し、俳句の代わりに紹介しようと思いました。

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下向きの蛍袋の花の中から、虫が出てきた

 私は、子供の頃、『安珍清姫(あんちん・きよひめ)』の話を読んで、疑問に思っていたことがありました。

 奥州白河の若い僧侶が、熊野神社に参拝に来た折り、宿を借りた家の娘に惚れられてしまいます。僧があまりに美男子であったからです。しかし、思いを寄せた僧(安珍)に裏切られた少女(清姫)は、激怒のあまり大蛇に変身します。恐れをなした安珍は、清姫から逃げて、紀州道成寺へと駆け込み、梵鐘の中に隠れました。しかし、梵鐘に大蛇は巻き付いて、安珍を殺してしまった・・・というような伝説話でした。

 梵鐘は、下が開いているのに、隠れるなんて変だと思っていた。下から覗かれれば、発見されるし、鐘の中で手足で踏ん張っていないと、下に落ちてしまうではないかと。ところが、話を良く吟味すると、なぜか、釣り鐘は鐘楼から外されて、その中に入ったらしい。こうなると、シェルターなので合点がいく。しかし、重い釣り鐘をうまく外して、その中に入ることは、至難の技だと思うが・・・。

 大人になってからの疑問は、梵鐘の中に入ったら、どんな感じだろうか。特に、鐘を突いた時、中ではどんな音がするのだろうか? と想像した。

 『やってみよう!』と行動をする前に、予想した。私は、これでも理科系の科学者の端くれである。【音が聞こえるのは、物体が振動し、その揺れが空気を変形させ、粗密波(縦波)となって、鼓膜に届き、神経繊維が大脳へ伝えて、感知するからである。】

 要は、空気がどう振動するかを予想すれば良い。

 私の出した結論は、外で鐘の音を聞く時より、寧ろ、小さな音で聞こえるのではないか、場合によっては、こもった低い音程になるかもしれないである。そして、薬師堂の鐘楼に掛かっている梵鐘で試してみた。

 すると、ほぼ予想通りであった。音は空気振動だから、鐘楼の中の空気は、下が開いてはいても、限られた量しかない状態に近く、水の流れに例えれば、淀んでいる。しかも、例えば鐘の中心部では、常に反対方向からの粗密波がぶつかり合っているので、振動は弱められるはずである。

 そんな実験をした日から、何十年の歳月が流れただろうか。

 平成27年春、私は年齢順に回ってきた地区の役員となり、M区長さんらと、区有林の点検作業や神社仏閣の整備作業、それに行事や祭りの仕切などをした。その準備作業の折り、薬師堂の鐘楼へMさんらと登った。そして、私が、少し茶目っ気を出して、『安珍清姫安珍さんは、梵鐘の中に隠れたと言うが、外で鐘を突いたら、どんな音に聞こえると思いますか?』と、疑問を投げかけてみた。すると、Mさんは、『おもしろいな』と、実行に移すことになった。

 鐘の中に、すっぽりと入り、私が外から鐘を突いた。しばらくして、中から出てきて、『頭が割れるような音がするかと思ったが、案外、大きな音がしないものなんだ』と驚いたようであった。他の若手の方にも、体験を勧めたが、断ったところをみると、M氏は、好奇心に溢れた行動派なんだと思った。

 私は、何度も薬師堂の梵鐘を突く機会があるが、その後、Mさんのように試してみたことは無い。Mさんには、伝えなくて申し訳なかったと思うが、釣り鐘の鉄製金具が錆びてきているし、強く打つと激しく揺れて、鐘楼全体が、震度1~2ぐらいの感触で揺れる体験をしたことがあるからだ。

 大きな音を出す為に、強く鐘を突く時は、梵鐘の振動の様子を観察していて、突く棒に鐘が向かってくる時に、打ち付ける。その反対に、遠ざかる時に打つと、横揺れ振動は増幅され、釣ってある金属部分が軋み、しかも、揺れの振動が建物に伝わり、少々の恐怖感を味わうことになるからだ。

 ★最後に、今日も雨の1日で、とりとめもなく、「はてなブログ」の内容が、増えたようだ。

『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』(令和2年度)

『夏空に 届け薬師の 鐘聖し』(令和3年度)

 2年続けて、東京五輪パラリンピック大会の成功を祈願した、薬師堂鐘楼に掲げた奉燈俳句であったが、大会競技のかなりな会場では、無観客で競技が実施されることが発表された。元々、私はテレビでしか観戦しないものの、とても残念でならない。

 しかし、日本が、ここまで真剣に対策を講じ、さらに国民一人一人が、冷静かつ誠実に、大会運営に理解ある言動ができれば、新型コロナ・ウイルス感染拡大の状況下で、国民として、民族として、それなりの成果を上げられると思います。(おとんとろ)

 

令和3年・水無月の句(夏の花三題)

 水無月の句】・・・《夏の花 三題》

 ① 木天蓼(またたび)の 白葉癒す 緑雨かな
 ② 花見つけ 現の証拠や 祖母の味
 ③  白日下 桑の実採りし 夫婦の手  

 

 今年の5月中旬から6月中旬にかけての天気は、適度な量の雨降りの後、必ず一週間ぐらい晴天が続き、野菜の水遣りをしたことがなかった。
 気象予報士の解説では、偏西風が例年よりも大きく蛇行し、その波が変わらない状態が続いたことが原因だと言う。日本列島の快適さに対して、北京やモンゴルの高温・異常乾燥と、太平洋を夾んだアメリカ西海岸の記録的猛暑は、地球規模で関連があった気象現象のようだ。

 さて、今月の句会には、「夏の花」を題材にしようと決め、実地に捜したり、俳句歳時記を手がかりに、花の候補を選考した。

 詠んだことのない花をと考えているが、俳句歴の短い私なので、よりどりみどりで、花の名前が挙がる。それでも、実体験の素材であった方が良いとの思いで、3つの花を選んだ。

 

 【俳句-①】は、新緑に静かに雨が降り注いでいるが、木天蓼(マタタビ)の白色の葉を、癒して元の緑色の葉に戻してくれるかのように感じて、詠んでみた。
 雑木林の中で見かける「マタタビ」や「アケビ」の葉は、病気になって葉が白くなる訳ではないが、新緑の木々の中で、葉緑体の抜けた「斑入り葉」や「白葉」は目立つ。どんな理由で、白くなるのか知らないが、緑色が無くなった可愛そうな存在に思えてしまう。
 新緑の頃に降る雨のことを、俳句の季語で、「緑雨(りょくう)」と言うようだ。

 あたかも白葉に治療薬を注ぎかけるかのように、雨水が優しく癒してくれるような気がした。しかも、緑色の雨という表現も、面白いなと考えた。

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木天蓼(マタタビ)の葉


 【俳句-②】は、特徴のある葉と、白い可愛い花を付けた「ゲンノショウコ」をみると、祖母の煎じた薬草茶の苦い味を思い出すことを詠んだ。
 胃の弱かった私の祖母は、野山から薬草を採ってきたり、それらを敷地に植えたりして利用した。

 子供心に覚えているのは、ドクダミ、クコの実、センブリ、そしてゲンノショウコである。
 これらの葉や茎・根などを乾燥させ、和手ぬぐい製の手縫い袋に入れて、煮沸する。要するに、「煎じ薬」にする。

 漢方薬の伝統的民間薬としては有名なものだと聞いた。時々、私も祖母と一緒飲んだ。言うまでもなく苦い。諺の『良薬は口に苦し』と言うのはこのことだと実感した。

 余談ながら、祖母の胃は、漢方治療だけではだめで、入院して胃潰瘍手術をすることになった。父は仕事で遅く、母が付き添いで病院に泊まり、小学低学年の私と妹の食事は、祖父が作ることになった。大きく切断した野菜が、生煮えで、とても奇妙な食事を、2晩ほどいただいたことを覚えている。


 「現の証拠」は、薬草の効果がすぐに(現に)証拠となって現れることから命名されたと聞くが、私にとって、まさに現の証拠は、祖父母との思い出と共に、なぜか強烈な味の印象も残っている。

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現の証拠(ゲンノショウコ)の花 (白花)

 

 【俳句-③】は、私たち夫婦で、ジャムに加工しようと、桑の実を採ったが、
手袋を外してみると、指先は「どどめ色」になっていて、誰の目にも隠しようもないくらい(白日の下に晒された)証拠となっていたことを詠んだ。

 上句の「白日下」には無理があると思う。本来の意味は、太陽の照っている真昼にと言う意味なのだが、隠そうにも、簡単に洗い流せない色素が証拠だという意味を込めた。まさに、コンビニ店や銀行等を対象に実施する、逃走犯人や車に「カラーボール」を投げつけた跡のようなものである。

 佐久地方で、桑の実は、『メド』と呼ばれる。これを食べると、舌(べろ)を中心に、口の中は濃い青紫色に染まる。この色を「どどめ色」と呼ぶようだ。藍(あい)の濃い青紫色より、少しだけ赤の要素がある。

 私の父母の世代までは、桑の実を食べたようだが、私たちの世代は、「スグリ」や「グミ」は食べたが、「メド」は敬遠した。しかし、最近になって、健康食ブームから、桑の実ジャム作りに励んでいる。

 ところで、私が桑の実を取っている桑は、俗称「おうしゅう桑」と呼ばれる桑の木である。かつて、養蚕が盛んであった頃、植えられた低木の桑は「いちのせ」と俗称され、実の成る前に、枝ごと伐採されて蚕に供せられたので、桑の実を見たことはない。

 俗名の「おうしゅう桑」の大木は、佐久地方で養蚕産業が廃れた昭和40年代後半(1970年以降か)に、「いちのせ桑」が根ごと抜かれて畑になっていった中で、畑の周囲に、そのまま残ることとなった。

 昨今、蚕(カイコ)の糸は、絹糸としての利用というより、例えば絹糸タンパク質から人工血管となったり、遺伝子組み換えの素材に使われたり、様々な目的で注目されていると聞く。また、桑の葉も健康食品やお茶に加工されているようだ。

 我が家の場合、大木を伐採するのを躊躇したから残っているのわけだが、蚕からの絹織物の歴史は古く、中国では紀元前数世紀に遡ると言う。夏休みに孫たちが田舎に来たら、桑の大木の下にブランコを設置したり、木登りをさせたりして、遊ばせようと思っているが、はたして、その誘いに乗ってくるだろうか。

 可能なら、大人になった時、桑と蚕、その起源や絹の歴史について、実地に桑の木に触れて、思い出のひとつとなれば良い。

 そう言えば、「桑実杯」もある。大学入試で生物を専攻した人なら「桑実杯」を覚えていると思う。受精卵が、細胞の数を殖やしていく卵割段階で、概観が、桑の実に似ていることから名付けられた生物学の科学用語である。しかし、桑の実の実物を見る人も少なくなった現代、「桑実杯」は、そのイメージを若い人々に伝えているのだろうかと、少しだけ不安になる。「苺(イチゴ)に似ている」なんて言うかもしれない。

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桑の実 (メド)

 

【編集後記】

  本文中に、蚕(カイコ)の話題が出てきました。

 養蚕(ようさん)は、天皇家の宮中における伝統行事として、皇后陛下が取り組まれ、蚕に桑の葉を与えられたりするニュースが、報道されることがありますが、逆に、庶民や若い人は、知らないことが多いのではないかと思います。それで、私が子供の頃に関わった、蚕にまつわるエピソードを紹介したいと思います。

 まず、カイコの一生について、概要を理解しておきましょう。(※難しい漢字は、2回目から、ひらがな・カタカナ表記とすることもあります。)

 人工飼育でない自然状態だと、蚕(かいこ)は、繭(まゆ)の中で、蛹(さなぎ)という状態となってが冬越し、春になると、マユを破って、羽化し、外に出ます。カイコ蛾(が)で、成虫です。これには、雄(♂)(幾分小さい方)と雌(♀)(お腹の太く大きい方)があって、互いに相手を見つけて交尾して、卵(たまご)を生みます。

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カイコの一生(生活段階)

 私は、どんな卵か見たことはありませんが、昆虫の卵のイメージでしょう。

 養蚕農家に届けられるのは、この卵が孵化(ふか)して、とても小さな幼虫の段階からです。大きさというか、長さが1cmにも満たないので、何匹というより、何グラムという単位で取引されます。

 最初の幼虫段階では、桑の葉を細かく刻んで与えます。小さな白い塊が動いて、緑色の葉が無くなってしまいます。正確に何日後のことかは子供にはわかりませんでしたが、大人はカイコの桑の食べっぷりから、幼虫が第一脱皮状態(カイコの場合、セミのような脱皮をする訳ではない)になったことを知ります。半日か1日後には、次の幼虫の段階になって、盛んに桑の葉を食べます。こうなると、農家では、1日に2~3回、山の畑へ桑の葉採り(桑採り)に出かけないと間に合いません。

 このようなサイクルを4回経て、長さが5~6cmになると、急に動かなくなります。蚕の体内では、生糸を吐き出す為の変化が進行しているのかもしれません。大人は、「しきた」と言い、『お蚕あげ』の準備をします。

 お蚕あげとは、蚕を一匹ずつ丁寧に掴んで容器に入れて運び、マユを作らせる装置、「まぶし」(昔は、藁(わら)で編んだもの、後に、紙製の仕切りのあるものに代わる)に入れた。よく、ぎっしりと詰まった状態を蚕棚(かいこだな)のようだと言うが、狭い空間の有効利用の為、「まぶし」籠(かご)を棚に保管した。

 この後、蚕に桑の葉を与えて育てた床の片付けをする。蚕が大きくなってくると、葉だけを与えるのではなく、本文で紹介した「いちのせ」桑という枝ごと供していたので、棒も片付ける。しかも、蚕の糞尿(ふんにょう)がたまり、発酵しているので、生暖かく、匂いもある。私は、抵抗感もなく扱ったが・・・。

 さて、「まぶし」の中の蚕は、口から生糸を吐き出して、マユ玉を作っていく。その手順については省略するが、私の中学校の国語の教科書には、この科学レポートが掲載されていた。1匹の蚕が吐き出す生糸の長さは、1.5~2kmにもなるという部分は、覚えている。

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蚕は口から生糸を出していく

 「まぶし」の中にできた蚕のまゆ玉は、中央部の玉と、その回りの部分があり、綺麗な中央部だけ、品質の良いものだけを選別する。「繭掻き(まゆかき)」作業という。手動の装置で行う。そして、養蚕農家は、農協(今のJA)などの仕入れ業者に運んでいく。

 

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蚕の繭(まゆ)玉ができた

 養蚕農家の仕事は、ここまでだが、まゆ玉をお湯に漬けて、生糸をほどいて、長い繊維状の糸を取り出す工程がある。かつての製糸工場である。世界遺産となっている群馬県富岡製糸場などが有名だが、全国各地にあった。

 この繭玉(まゆだま)の中には、糸を吐き出した後の蚕が、茶褐色の塊のような蛹(さなぎ)となって、入っている。製糸工場で扱われた蛹は、もちろん死んでしまうが、自然状態のまま繭の中にいる蛹は生きて、越冬する。再び、カイコガとして蘇り、次の世代へと、生命を繋いでいくのだ。

           *   *   *

 「カイコの一生」の概要と言いながら、養蚕農家の話題も入れたので、長くなってしまいました。

【エピソード-1】 

 「真綿で首を絞める」ようにという表現があるが、若い世代は、真綿の実物を知っているのだろうか? ・・・まず、言葉の意味だが、『いきなりではなく、遠まわしに、じわじわと責めたり、痛めつけたりすることのたとえ』である。

 次に『真綿』だが、これは「繭掻き(まゆかき)」工程の中で、繭玉の周囲から取り除いた蚕の糸や、不良品となった繭玉をほぐした生糸のことである。それを綿状にしたものである。この利用方法は、様々だと思うが、私の知る限り、木綿の綿を入れて布団作り(その昔は、古い布団綿は専門業者が洗って加工してくれていた)をする時、綿がずれないように、外側を覆った。伸縮性があり、しかも切れない。この性質が、最初の「首を絞める」のにふさわしいのだろう。

 私は、スケート大会に出場する時、祖母に、肌着の上に真綿を張ってもらい、その外側にセーターを着た。現代のスケーターは、ワンピー(スケート競技用のワンピースの高性能素材)を着て滑っているが、昔は防寒、防風の為・・・何より、背中に家族の声援を背負っていたようなものである。下の写真は、ある日の松原湖大会である。

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背中に「真綿」を背負ってスケート滑走

 

【エピソード-2】

 「蚕食(さんしょく)する」という表現があるが、これも若い世代では、イメージし難いと思う。 言葉の意味は、『じわじわと侵食していくこと。領地などを端のほうから徐々に侵略していく様子。鯨が、一気に飲み込む様子と併せて、他領を侵略することを蚕食鯨呑(さんしょく・げいどん)との表現もあると言う。

 養蚕農家は、気象条件や供給できる桑の量に応じて、「春蚕(はるご)」・「夏蚕(なつご)」・「秋蚕(あきご・しゅうさん)」・「晩秋」さらに「冬蚕(ふゆご)」まで飼ったようだ。寒さ厳しい信州では、ぎりぎり「晩秋」蚕を少しだけというのが、限界であった。

 私が子供の頃、蚕は家の中で飼うのが当たり前で、特に、量が多くなる夏蚕の場合、人が住む母屋も蚕を飼育する場所となった。我が家は、母屋と長屋、別棟を合わせると、現在19部屋ある。この訳は、養蚕の為に広い空間が必要であったものを、その必要が無くなった後で、空間を簡易壁で仕切ったから、部屋数だけが増えたからである。

 夏蚕の時期になると、今も私が勉強部屋として使用している2階の10畳の部屋の内、南側の板敷4畳分には、蚕を飼育する為の蚕籠が4枚設置され、蚕を飼育されている空間とは、カーテンで仕切られた。

 ほぼ夏休み中のことであり、昼間は、家の北側に物好きで設置した、ビニルシート製の秘密基地ならぬテントで過ごしたり、外で遊んでしたりして良かったが、蚕の隣りの畳の部分が、私の寝室であったので、古典落語の『寝床』に登場する大店の小僧さんではないが、泣きべそになる。しかし、1日遊び疲れた私は、あまり気にしない。

 それでも、寝付くまでの何分間は、夕方に「いちのせ桑」を供せられた蚕が、桑の葉を食べる音を聞いていた。蚕という昆虫の口は小さいが、結構硬い桑の葉を少しずつ、かじっていく。擬音語表現では、『ザワザワ・サワザワ』と、途中に少し音の変化を含みながらというのが、近いのかもしれない。こればかりは、実体験した人でないとわからないと思うが、いずれにしろ、尖閣諸島にしつこくやってくる中国公船のイメージである。

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桑の葉を食べる蚕(何齢かの内、後半の幼虫)

 

【エピソード-3】

 ある日を境に、『はるさめサラダが食べられなくなってしまった』理由。

 世に「トラウマ」という心理的な現象があって、人々を苦しめていると聞くが、どうやら、私にも当てはまりそうだ。

 養蚕農家では、たかが蚕に対して、「お蚕様」と様付で呼んでいた。稲作を通して得られる米の収入が生計を維持する主力ではあるが、比較的、短時間で効率の良い現金収入のあった養蚕は、昆虫飼育に「様」を付けるだけの理由と現実があった。

 冒頭に示した、野菜サラダに「はるさめ」があると食べられない理由は、「蚕あげ」だけでは無いが、うかつにも、上記「エピソード-②」で語ったように、蚕の身近にいて、うっかり蚕を踏みつけてしまったことがあるからだ。

 蚕を摘んでみると、その柔らかさと、冷たいさに驚く。

 無脊椎動物で、変温動物なので、と説明すれば済むが、実際に触ってみた人と、想像する人では違うと思う。

 脱線するが、旅行で訪れた沖縄で、人がようやく抱えられるほどの大きさの「ニシキヘビ」を観光客の首に巻いて撮影させるイベントが行われていた。当時、同世代の若い女性が、首の後ろ側から大蛇を垂らされて、『冷た-い』と、騒ぎながら笑っていた。しかし、私は、恐く無い蛇ではあったが、家内が写真を撮るからと言うものの、本心は恐くて、できなかった。

 私は、本来、蛇を、そんなに嫌いでもない。少年自然の家に勤務していた時、所員旅行で伊豆方面に出かけた昼食時、アオダイショウが、ヒキガエルを飲み込もうとする場面に遭遇したことがある。蛇は無理して、大きすぎる相手を飲み込んだのだろう。蛇の歯や顎の形態から、吐き出すこともできず、飲み込めもできず、苦しんでいた。

 私が『自然の摂理ですから、放っておきましょう』という意見に反して、S次長は、ヒキガエルの体を、蛇の飲み込んだ口から、強引に引きずり出してしまった。

 蛇の締め付けの他、唾液なのか胃液なのか、ヒキガエルの体は変色して、絶命の一歩手前であったが、その状態から、逃げて行った。その後の様子は不明である。

            *   *   *

 さて、「蚕上げ」の日に、うかつにも、私は、「お蚕様」を踏みつけてしまった。

 破裂して、内蔵の腸(消化系)と思われる部分が見える。祖母や母が大切に育てている蚕を、踏みつけた罪は重い。

 そんな思いを抱いて後悔していた時の、何とTVの昼番組で、「少し大型のヘビが、少し小型のヘビを飲み込む場面」を映し出していた。自然現象に関して、かなり残酷と思えるシーンであったとしても、それが、どうしようもない自然現象の一部であれば、手を加えずに、「あるがままに」と言うことが、私の考えである。

 それが、不思議なことに、いつまでも、気待ち悪いというイメージに変わりました。それは、たぶん蚕を踏んでしまったという後悔と、蛇が同じ蛇を飲み込むという場面に「透き通ったカイコの消化管」の視覚映像が重なり、たまたま食べていた「はるさめ」を見て、気分を害したのだと思います。

 それ以来、好きな野菜サラダは、毎朝、作っていますが、「はるさめ」を使うことは無くなりました。

 

 ★最後に、今日は、ほぼ一日中雨降りで、上記のような昔話を集めてしまいました。今の関心事は、梅雨の晴れ間をみつけて畑の除草を兼ねた耕作をしたいということですが、なかなか計画通りにはいきません。梅雨明けを待っています。(おとんとろ)