北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年3月の俳句(令和3年度)

       【弥生の句】

 

① 物言わぬ つくしんぼうの 宇宙服
 

②  仲直り 指のぬくもり 猫柳

 

③ 老梅や かはりし人と なりし母       《春の愁い》

 

 

 令和3年度最後の俳句会も、コロナ禍のせいで中止となった。各自の俳句を書いた短冊を集めて紙上での「選句会」となったのは、1月から3ヶ月連続である。さらに、来年度の4月からの見通しも立てられないのは困ったものである。
 ただ、メリットもあった。会員が、じっくりと作品を練り上げる時間の確保と意識の高まりがあったようで、皆さん良い俳句作りができていると思う。毎回、3句を選ぶのだが、今月は6句となってしまい、ようやく次点の3句を決めて、「選句会」へ提出した。
 ところで、今月は、季語「春愁(はるうれい)」に挑戦しようと発想していた。そのせいか、「春の草花」の題材ではあるが、どこか複雑な心情面を表現するような内容となった。題して、春の愁い三題である。


 【俳句-①】は、春先の土手から何本かの土筆(ツクシ・別名つくしんぼ)が、背比べをするかのように生えている様子を詠んだ。
 ツクシは、スギナという後から生えてくる植物の「胞子嚢」を供えた胞子茎だということも、また古生代に繁茂したトクサの仲間の子孫だということも、知識としては知っている。
 しかし、その独特な短いスカートが節々に付いているコスチュームが、長い時空を越えてくるのに必要だった「宇宙服」のように感じられて、思わず下句が出てきた。
 当初は、背比べ(丈比べ)をしているように見えて、その感動を伝えようかと思案したが、寧ろ、春の他の植物と違って、異質に見えてきたことから、思い切って修正した。

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土筆の背比べ

 

 ところで、ツクシは、スギナ(杉菜、接続草、学名:Equisetum arvense)の胞子茎である。後から生えてくる緑色のスギナが、栄養茎で、本体である。分類では、
シダ植物門・トクサ綱・トクサ目・トクサ科・トクサ属の植物の1種で、日本のトクサ類では最も小柄であるようだ。
 トクサ類が所属するシダ植物は、古生代デボン紀に出現して、さらに多様化して石炭紀には大繁栄して、大きな森ができた。幹に相当する部分は空洞だが、
樹木のように大きくなるシダ植物の森林である。 リンボクやカラミテス(トクサ類)が繁り、やや乾燥した所にはフウインボク(リンボク類)、メドゥロサ(シダ種子類:種子ができるが胞子で殖える進化上の絶滅種)、プサロニウス(リュウビンタイ類)が分布し、林床にはトクサ類やシダ類が繁茂していた。
 石炭紀ペルム紀は、繁栄したシダ植物や、シダ種子類が、大森林となり、埋没して石炭層となって残されている。
 そんな遙か昔の植物の子孫が、大きさは小さくなってしまったが、激動の地球史の中、丈夫な宇宙服を着て、堪え忍んでいたと思うと感慨深い。

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デボン紀の陸上の想像図

 

 【俳句-②】は、猫柳(ネコヤナギ)の柔らかくて可愛い「花穂」の魅力を伝えようと、勝手に恋愛ストーリーを作ってみたという俳句です。
 青春初期の頃の恋愛は、愛しく思う人や恋人が、異性と話しているのを見ただけで、嫉妬して仲違いしてしまうこともあります。誤解が解けて、二人は『指切りげんまん』をして仲直りします。
 その時の彼女の指の柔らかさ、温かなぬくもりが忘れられません。ネコヤナギの花穂を見て、そして触れてみると、同じ感触が伝わってきました。青春の日の思い出です。
 1月下旬に「みゆき会」H会長さん宅に伺うと、『温室に入れておいたから』と、既に花穂の色が変わっている枝を頂いた。さらに、庭の枝も切って来て頂いてきた。こちらは、玄関の水盤に生けてみた。1ヶ月半ほどして、赤紫色に花穂が変わり、白い産毛のようなものが出てきた。
(ちなみに、生け花のネコヤナギの他は、南天の実(赤色)やスターチスの乾燥花(紫色)と蘭の造花(白色・黄色)で、船型の水盤は、自作の焼き物です。)

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玄関に生けた猫柳(ネコヤナギ)

 


 【俳句-③】は、昨年の大晦日に救急搬送された母が、救急病棟から普通病棟に転院して、現在リハビリ療養中だが、以前のようには身体機能は回復しない。春が来れば、老梅でも花を咲かせて蘇るのに、母はどうなっていくのだろうかという気持ちを詠んでみた。
 佐久地方では、3月下旬に梅の蕾がほころび、花が咲き出す。桜は4月中旬頃、5月連休にはライラックが花を付ける。これらに、チューリップや海棠(かいどう)・山吹の花なども加わり、春から初夏へと花暦は進んで行く。
 早春の庭先や土手で最初に目にする花は、福寿草オオイヌノフグリ等の草花ではあるが、やはり、『耐雪梅花麗・雪に耐え梅花麗し』(西郷南州の漢詩の一節)ではないが、趣深さは、梅花の方が数枚上手という感はある。
 加えて、個人的趣味だが、桜より梅の方が好きである。下世話な例え話で恐縮だが、聡明で美人、気配りもできて愛想の良い女性でも、なんとなく私には「この女(ひと)の方が相性が合う」という、分析的な理由ではないフィーリングの世界がある。それが、梅の花となるようだ。

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幹にカビが生えた老梅(薬師堂)

 母も、私にとっては極めて素敵な人で、庇護者であり理解者であり、晩年は守るべき人でもあったのだが、今は、どうしたものかと迷っている。脳血栓による認知症になったわけではないが、コロナ禍の為、ガラス窓越しに、看護師さんの通訳を通して接する母は、喜怒哀楽の感情が薄れている。元々、「おすまし」型ではあったが、会話が成立しない。私の存在や氏名は覚えているが、『Yes or No』の応答のみで、『5W1H』には反応できない。それ故、「かはりし人」と表現した。
 今でも、母の部屋は、毎朝夕、カーテンの開け閉めをしている。どうなるか?

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狩野山雪「老梅図」(襖絵)

 【編集後記】

 3月・弥生の俳句で、令和3年度「みゆき会」が終了した。先輩諸氏に誘われ入会したのが、平成28年5月なので、ほぼ6年が過ぎた。その間、毎月3句ずつ採り上げては、俳句創作に関わる背景を解説してきた。わずか17文字でしか許されない俳句の世界なので、どうしても表現したい真意や背景が伝えられなくて始めたものだった。それでも、私の歩んできた記録にはなったと思っている。

 ところで、今年も5月連休に開催される薬師堂の花祭り(一月遅れ)に掲げる「奉灯俳句」の額を用意しなければならない。載せる奉灯句もさることながら、俳画のアイディアも練らないといけない。

 一昨年(令和2年)の私の句は、『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』で、俳画には、地元の浅間山を背景に、咲き誇るアヤメを描いた。
 「TOKYO2020」五輪・パラリンピックが、できますようにとの願いからだったが、コロナ禍で1年延期となった。

 それで、昨年(令和3年)には『夏空へ 届け薬師の 鐘聖し』という句を奉納し、夏(7/23開会式)には大会が無事に開催できることを祈念した。俳画は、室生寺五重塔や貞祥寺の三重塔を参考に、架空の寺の三重塔が空に延びていく様を強調してみた。

 今年(令和4年)は、どうしたものか?
 会員の皆さんの奉燈俳句の題材や季語の内容にも配慮しなければならないが、これだけ大きな国際問題となっている「戦争と平和、人権と民主主義を守り、国際秩序の中で、経済・安全保障で安心できる世界の実現」を願わずにはいられないという思いもあります。

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梅のつぼみ

 

 昨年、少し閃いた「渓谷の水が滴る滝の上に安置された観音像」という構想もあります。しかし、仏像や石仏などは難しそう。会員のTさんは、水墨画もやっているので、お願いすれば可能かもしれないな。
まあ、まだ4月の予定も見通せないので、もう少し思案してみます。 (おとんとろ)

令和4年2月の俳句(令和3年度)

 【如月の句】

 

① 山路ゆく 配達員に 春の風

② 空の藍(あを)少し薄れて 土手青む

③ 歩を止めて 逢瀬重ねる 梅暦                

《春の訪れ・三題》 

 

 2月の俳句会も、早々に中止が決まった。言うまでもなく、コロナ禍のせいである。みゆき会・H会長が、会員宅を回って俳句を記した短冊を集め、紙上での「選句会」となった。私は、季語を見つけ出すのに苦労しているが、今月は自然に出てきた。また、珍しく3句とも散歩をしながら練っていたらできてしまった。特別な思い入れもなく、見て思いついたままを、そのまま俳句にすることができたようだ。
 例年になく厳しい寒さと降雪に苦しめられた冬(特に2月)だったので、春の訪れが、とても待ち遠しくて、その思いを詠んでみた。 
 ところで、私にとっては、忘れ難い2月となったかもしれない。平成26年・佐久の積雪量記録1mに達する積雪ではなかったものの、朝の寒さと、本格的な4回の雪掻き、そして母の見舞いの日々。更には、北京冬季五輪パラリンピック大会と、世界史の教科書には必ず記されるであろう「ロシア軍のウクライナ侵攻」があったからだ。そんな激動の国際情勢の中で、小市民的な世界ではあるが、春の訪れを楽しみにする風情を吟じてみた。

 【俳句-①】は、山間のアスファルト道を郵便配達員さんが、オートバイクを走らせていく。木枯らしの初冬から、寒風の真冬を過ぎて、今の季節風も冷たいが、それでもだいぶ優しくなった春風の中を駆けていった。『少しは楽になりましたか?』と声がけしてみたい気持ちを詠んでみた。
 この俳句の元の素材は、散歩中に見た
新築中の3階建ビルの外壁工事で働いていた作業員の姿だった。田舎には珍しいビル工事なので、いくつかある散歩コースの中で、必ず足を止めて進捗状況を眺めていた。
 季節風の強い日、足場を覆うネットも激しく揺れて、その中で彼らは働いていた。ところが、ある日、大きな笑い声が聞こえてきた。休憩時間らしく、ネットの隙間から車座になった3人ほどが見え、面白い話題で盛り上がっていたようだ。風も弱く、暖かな日差しがネットに注ぐ。 屋外で働く人々にとって、天候などの自然条件は、直に人の皮膚に突き刺さるようにして感じられるはずである。その日は、作業員の笑い声だけでなく、長閑な陽気も、嬉しく共感することができて、俳句にしたいと思った。
 ただ、散文でないと表現できないほどの内容なので、屋外の労働者は郵便配達員の方に代わってしまったが、こちらも散歩中に何度も目撃したことだった。
 ところで、コロナ禍により、在宅勤務をする人が多くなってきたことを受けて、『エッセンシャル・ワーカー』なる新語を耳にするようになってきた。新型コロナ・ウイルス感染拡大防止策として、「テレ・ワーク」や「リモート・ワーク」ができない職種や業務内容に携わる人々に敬意を込めて使われるようになった。
しかし、かつて使われたことのある「ブルーカラー」・「ホワイトカラー」というような呼称とは少し意味合いは違うが、個人的には、あまり好んで使いたくない表現である。どこかに、「エッセンシャル」で無い方の仕事は、一体何なの?・・・という意地悪な疑問も湧いてくるからだ。

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Essential Workers(インターネットから)

 

 【俳句-②】は、田圃道を散歩中に土手を見ると、ナズナオオイヌノフグリなどの小さな草花が芽を出していた。
 もっとも正確には、冬の間も地表に張り付くようにしてあったものだが、存在がより確かなものになった。雪解けの水分を含んだ黒土は、とても柔らかく暖かそうである。「土手青む」という季語が似合いそうである。
 空を眺めると、冬晴れの日の藍色の空は、いくぶん薄れて普通の青空になっていた。
空気中の水分量が多くなり、霞の時期までにはならないが、どこまでも藍色に近い冬の群青の空ではなくなっていたことに気がついた。
 厳しい季節風が吹く中、見上げる藍色の空は、空を見ているというより、宇宙空間を眺めているような錯覚になるほど、空が深い。そんな冬の空が懐かしくもあったが、
優しい空の青と、土手の春は良く似合う。

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「故郷」とともに、人気のある童謡のひとつ「朧月夜」

 

 

 【俳句-③】は、散歩コースのひとつに、梅の木があって、度々、足を止めて、梅の花のほころび具合を観察した。枝に積もった雪が解けて垂れ、小さな氷柱になっていたこともある。赤紫色の冬芽は、少しずつ変化してきたのだろうが、気がつかないほど、ゆっくりとした歩みだった。そして、だいぶ膨らんだと思うと、私も散歩中に汗ばむほどとなった。
 恋人との「逢瀬」ではないが、梅の木に会ことを楽しみにしていたので、少し洒落てみた。まさしく、日めくりの梅暦のようです。

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梅の蕾が膨らんできた

 

【編集後記】はてなブログ)  【令和4年 3月14日】

 3月は、別れの季節である上に、「3・11東日本大震災」の大きな影が今もなお、重くのし掛かる。加えて、世界史の教科書に確実に記載され、戦争犯罪が追究されるであろう「ロシア軍によるウクライナ侵攻」は、とても他人事とは思えず、毎日のように苛立ちを覚え、深く心を痛めている。

 私は生まれてはいなかったが、確かな情報が伝わっていれば、かつての日本軍も、「大東亜共栄圏」の理想を抱え、中国大陸や南方の島々へ進撃していく様子は、ロシア軍の侵攻と似た姿に見えたのかもしれない。

 現代の新しい太平洋戦争史観は、(日本の戦争犯罪を弁解したり、正当化したりする意図ではないが・・)少し変化してきている。それは、欧米列強国によるブロック経済の包囲網の中で、日本が戦争によって活路を見いださなければならないような状況下に導かれて行ったというものだ。日本の亜細亜進出は、広義では、明らかに侵略・植民地化であろうが、そこには、とりわけ欧州人(白人)の現地人を奴隷と見る感覚ではなく、日本人と同じ「天皇の民」という人格を認めた対応もあったと聞く。現地人への教育や産業育成にも目を向けていた。もちろん、例外も多々あるが・・・。

 ただ、そんな観点から戦争を見ると、少なくともロシアのウクライナ侵攻には、客観的理由もない。世界が、ロシアを侵攻へと追い込んだわけでもない。テレビ解説で、「まるでストーカーです」という表現があったが、「相手を脅し、強引に自分の物にしようとする狂人」以外の何者でもないと思う。(おとんとろ)

 

 

 

令和4年 1月の俳句(令和3年度)

      【睦月の句】

① 救急の 母案じつつ 去年今年

② 柝(たく)を聞く 大黒柱 百二年

③  浅間峯ニ 瑠璃光鮮ノ 御慶カナ 

                 《大晦日から元旦》

令和4年(壬寅)の正月は、国際政治という観点からも緊張感に満ちた年明けであったが、我が家にとっても未曾有の事態となった。(後で述べる。)
 また、新型コロナ・ウイルス感染の拡大では、変異したオミクロン株が蔓延し、年明けの全国の新規感染者は一日で「数千人/日」程度だったが、12日に1万人を越えると、2~3日間隔で、更に1万人ずつ増加していった。月末は「8万人/日」台となった。(ちなみに、2月に入ってからも増加し続け、2月6日に「10万9915人/日」と11万人に迫って、ピークを迎えている。)

 例年のように、長女夫婦が子どもを連れて暮れから帰省していて、正月前半は、二人の孫と遊んだり、我が家の趣味である散歩に、全員で出かけて、楽しい時間も過ごした。昨年の睦月の俳句は、そんな孫たちとの題材を選んだが、今年は、先に述べた未曾有の事態となった「大晦日から元旦まで」の状況を俳句の題材にしてみようと思う。


 【俳句-①】は、「お歳取り」と呼んで大きな意味のある大晦日を迎える日の晩、救急搬送された母の容体を案じつつ年越しをしたことを俳句にしてみた。
 定刻の午前7時に、私の作った味噌汁と些細な料理を母の所へ運び、朝食を食べ始めたが、母はトイレに立った。やや籠もった声で、普段と様子が違うのと、脳卒中を連想し、私は母を待った。
 『あの針が、あそこまで行ったら見に行こう』と躊躇していたが、トイレで少し音がしてたので、私は急行した。
 『立てない』と母が言う。身体を抱えて、居間に寝かせた。家内に連絡を取り、血圧と脈拍を確認した。数値的には大きな問題のない値だったので、しばらく寝かせておけば回復するだろうと判断した。
 しかし、帰省した次女が、『明日から病院は3連休になるし、お婆ちゃん、朝から回復してない』という指摘で、「119番」救急車を要請した。
 (年末に、申し訳ないと思い、私は救急要請をためらっていた。この点、若者の方が決断は早かった。聞きつけた長女も「119」通報をしてしまい、二重に電話が掛かってしまい、片方をキャンセルしたというエピソードもあった。)
 私は、救急車に同乗して佐久医療センターに入り、検査結果を見せてもらった。「アテローム脳梗塞」との診断で、脳の血管が細くなったり太くなったりしているのがわかった。脳の問題の部位は、血流が途絶えていて、右の手足と言語に影響を与えていたらしい。症状は初期段階だと言うが、高齢(93歳6ヶ月)なので、突然、何が起こるかわかりませんと言うことだった。
 後から自家用車で到着した家内と、救急外来で待機し、上記の内容を医師から伺った。その後、日暮れ前には帰宅して、母のいない「お歳取り」をした。そして、『満年齢とは別に、大晦日から元旦を迎える真夜中を境に、人は皆、1歳だけ歳が加わる』と言う話を孫たちにした。

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2歳と88歳の歩み(母の米寿祝いに使用)

 【俳句-②】は、母を案じつつ頭に浮かんだ光景が、「火の用心」を喚起させる拍子木の音と、それにまつわる母の思い出であったので、主人公は私から大黒柱に代えて、その状況を俳句にしてみたつもりである。

 私の祖父が祖母と結婚して、1年半かけて我が家は完成した。大正の始めの頃は、新築と言うと、木材の確保から、材木加工~棟上げ、瓦拭き、壁塗りや内装と、今では考えられないほど人の手間暇をかけて建てたものらしい。
 家が完成するまでの間、夫婦は本家で、祖父の旧家族と共同生活をしたらしい。(祖母は多くを語らないが、大変だったらしいことは想像できる。)
 我が家(母屋)は、築101年であるので、お歳取りの晩には、家の大黒柱は、ひとつ歳を加え102歳となる。

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雪の舞う冬の夜更け (インターネットから)

 

 ところで、俳句歳時記を調べていたら「寒柝(かんたく)・柝(たく)」という季語を見つけた。平易な表現では、冬季に「火の用心」の為などで夜警・見回りをして、拍子木を打つこと、及び、その拍子木の響く音のことである。TVの時代劇に登場する『火の用心、さっしゃりませー』(寒空に拍子木の甲高く響く音)という情景である。
 現代でも防犯や防火を目的とした夜警は行なわれているはずだが、さすがに、人々が寝静まった深夜に、拍子木を打って夜回りをしているとは想像しにくい。
 しかし、私が住む地域では、私が小学生の頃、正確ではないが、第18回東京五輪(昭和39年)の少し後の頃まで、冬季に実施されていた。近所同士の2軒ずつの「火の見当番」が、2回ほど回ってきて、深夜の午前0時を夾んで、その前と後の2度、当番が地域の夜道を拍子木を打ちながら巡回していた。
 少し脱線するが、多くの当番は拍子木だけで、「火の用心」の呼びかけはしなかった。気持ちだけ聞こえる程度の人はいたが、大声で回る名物爺さんがいて、時々、その声で起こされたこともあった。

 さて、この寒柝(かんたく)が、なぜ母の思い出に重なるかと言うと、我が家は隣家のMさん宅と組んで当番をしたが、深夜2回の巡回の間に、家の炬燵にあたり体を温め休憩するので、火の見当番(主に男性)のお茶や漬け物準備や接待の為に、母も起きていたからである。(私も、起き出してきて、お菓子をもらい、お茶を飲んだこともあった。)
 いつだった正確ではないが年末に、父が学校の宿直当番と重なり、母がMさんと火の見当番をすることになった。晩年、喘息に苦しんだ祖父が代われなかったので、かなり後のことになろう。
 その晩、夜間の休憩待機は我が家の番で、私も起きていた。二人が夜回りをしてくるのを待っていた。家の近くで拍子木の音が聞こえ、戻ってきたので、3人でお茶を飲んだ。そこに、祖母も加わった。どうも2回目の巡回をした後は、私が眠ってしまっていたようだ。気づいて、母たちの寝室を見に行ったら母がいて、とても安心したように記憶している。
 今、当時の世相や勤務体制、何よりも地域の為に「ここまでやるか!」と思うと、隔世の感がある。多くの犠牲と労力をかけて維持してきた慣習ではあったが、母という同じ人間が、生きながらえて体験してきた人生の一部だった。もちろん、存命ではあるが、奇しくも大晦日に緊急入院したので、寒柝を思い出した。ちなみに、大黒柱は102年だが、母は嫁いで70年である。

 

 【俳句-③】は、元旦の午前中、家族全員で氏神様や菩提寺に挨拶回りをする。その折り、今年は雪が多く、浅間山の冠雪が眩かった。天空から「瑠璃」色の光が山頂に降り注ぐように鮮やかに見えた。
 「御慶」とは、少し改まった表現だが、「新年おめでとうございます」という意味で、新年の祝賀の言葉である。元旦の浅間山と空の麗しさの対照が印象的で、それを俳句に詠んでみた。
 ちなみに、「瑠璃色」とは、やや紫がかった藍色のことである。日本列島周辺が冬型の気圧配置となった時、佐久地方は、写真の光景のように青空が続くが、空の深い方(上空)に目をやると、青空は寧ろ「藍色」に見える。さらに、本当に澄み切った快晴の空は、藍色よりもっと藍色が強調されて、まさに瑠璃色となる。今年の元旦の空は、まさにそんな色だった。

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根古岳(菅平)~烏帽子・浅間火山群の展望 (佐久市前山から)

 

 ところで、「瑠璃光鮮」は、昨年の12月の俳句で紹介した薬師堂鐘楼の梵鐘に刻まれていた四言詩の一部で、誰かが創作したものからの盗用であることは、先に白状しておかねばならない。それが気に入って採用したら漢字が多いので、助詞にあたる部分をカタカナにしてみた。なぜか、俳句が漢文の読み下し文のようになった。
 次にこだわったのは、「嶺」と「峰または峯」である。ほぼ似た意味ではあるが、山で例えると、「嶺」は北アルプス(山脈)のイメージ、峯(峰)は富士山(単独峰)のイメージである。
 今回の浅間山でスポットを当てたかったのは、浅間火山群全体ではなく、最高峰付近の「峯」にしたかった。御慶の挨拶は、その噴気のあがる峯と交わしたと思っている。
 こんな些細なことに私がこだわるのには、理由がある。それは、同じ山の光景を見ても、日本人と欧米人は見え方が違うのではないかと、思う節があるからだ。
 ひとつの根拠は、日本の学校に来ていた米国のAETの男性が、浅間山を見て『黒っぽい茶色だ』と表現した。私たちは山紫水明と、遠くの山は紫がかるが、季節によって青緑が深まったり、夕焼けに染まったり、季節や時間帯でも絶えず変化していると感ずる。ところが、米国人の彼は、夏を中心とした時期は乾燥して木立は枯れ落ち、山も森も茶褐色のイメージらしい。育った米国の様子からの発想だと思うが、自然の変化の微妙な違いが理解し難かったようだ。
 
 次に思うことは、山と空の境を私たちは「山の端」と表現するが、同じ箇所を英語では「スカイライン」と発想する感性についてである。
 小さな子の風景画では、緑か青のクレヨンで、山の稜線を線で直線的に描く。
しかし、少し大人になると、例えば里山稜線の木々の枝の凹凸に気づいて、少なくとも直線にはしない。
 また、『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。』(枕草子)ではないが、山の端と明けゆく空の境目は、明確な区別できる境ではなく、色彩のグラデーションで、自然に移りゆくものなのだ。そして、それが日本の美学でもあると思う。さらに、日本人は視線を山の麓から山際にと上げて、空へと移していく。
 一方、スカイラインの響きは、大地の果てと空(大気圏)の境が明確で、空の世界との国境を示すイメージがある。空が主体で、その下限を確認するような目配りと感じる。欧米人は、多分、そんな風に感じているのではないか?
 その点、「地平線・水平線」と「ホライズン」の関係は、日米共通に近いものを感じる。旅の果て、航海の先を想像し、不安の中に希望を見る時の視線は、明らかに大地や大洋が主体で、空が従だと意識する。
 さて、俳句の作成の意図を表現できなかったが、(ア)山を下から見上げた、(イ)山頂は始め瑠璃色でなかった、(ウ)御慶の祝賀に、突然、瑠璃色の鮮やかな光が見えた・・・というストーリーにしたいと思ったからだ。

 


【編集後記】(はてなプログ)

 信濃毎日新聞・朝刊「けさの一句(土肥あき子さん・俳人)」を真似て、私も自分の俳句の創作した背景を短文で説明しようと始めたが、1月号は、文書量が膨らんできている。当初は、3句全部で1頁に収めて、最大でも2頁だった。
 平成28年度から始めたので、令和4年3月まで続ければ、ほぼ丸6年となる。ただ、今年になって、再びコロナ禍で、1・2・3月と定例の句会が「オン・ライン」ならぬ、短冊に書いたものを代表が回収・印字したもので、句会を代用して、各自が3句ずつ良作と思う他の人の句を選んで、互いに評価し合っている。

            *  *  *

 ところで、今は既に3月(弥生)に入っている。2月4日(立春)の北京冬季五輪・開幕式から、2月20日(雨水の翌日)まで、オリンピック競技を毎晩遅くまで視聴していた。興味・関心の高い種目は、昼間も熱心に観戦した。
 この間、佐久地方では、まとまった降雪(15~25cm)が4回あり、早朝や午前中の雪掻きに追われた。佐久平の水田地帯が全て雪原となったのは、何年か振りであったろうか?
 北信地方の山ノ内中勤務の折り、生徒と一緒にノルデック用スキーとブーツを買った。転勤で佐久に帰ってきてから、何年かした年にも大雪となって、野山(畑や山道)、水田地帯でスキーを滑らせたことがあった。
(大学時代には、もっと本格的に、シールを着けた山スキーで、冬~春の雪山のスキーツアーをしたことがあった。

cf:かなり初期の頃に「はてなブログ」に載せた作品を参照)   
 そんな久し振りの雪景色は、光の春の訪れと共に、追加の積雪もなかったので、少しずつ解けていった。
 しかし、辺りの春の訪れを予感させる景色とは裏腹に、2月25日頃から、軍事訓練に名前を借りた怪しいロシア軍の動きが、全世界の人々の心を氷付けるようなウクライナへの侵攻が始まった。
 日本政府(外務大臣)は、『ロシア軍による侵略』と明言した。(2月26日)
以下、これらについての言及は、次回以降にするが、暖かい部屋でTV画面を通して、避難民や死傷者の様子を見ている自分に腹を立てている。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-156

 第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 

3.コングロ・ダイクと熱変成の関係

 

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ホド窪沢の標高980m露頭

 【写真―上】は、ホド窪沢の標高980m付近で撮影されたもので、周囲の地層とコングロ・ダイクが、ヒン岩によって熱変質されている産状を示しています。
 中央の灰色に見えるのが<コングロ・ダイク(大:10cm×1m、小:4cm×1m)で、周囲は灰白色に熱変質した泥岩です。泥岩層の走向・傾斜は不明です。(周囲の傾向では、EW・緩い南落ちです。スケールがNSを示します。)礫岩と周囲の泥岩の境界面は、波を打ったような状態になっています。                  

 

 玢岩(ヒン岩);閃緑岩組成をもつ斑状 (porphyrite) の半深成岩。(今はあまり使わないが・・・・)斑晶は、斜長石・角閃石または、輝石。石基は完晶質で、安山岩の石基より粗粒。

 日本では、特にグリーン・タフ地域に、岩脈または、小貫入岩体として多産する。

   

                 *  *  *

 

【写真―】は、ホド窪沢の標高1010m付近で写したもの(合成写真)です。黒色泥岩にコングロ・ダイクが貫入した後、さらに両者をヒン岩の岩脈が貫入ています。

 

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ホド窪沢の標高1010m付近 / 写真の説明図(下)

 

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 周囲の黒色泥岩は、熱変成され粘板岩(slate)化しています。層理面がはっきりしないので、この露頭の少し下流の泥岩の走向・傾斜N75°~80°E・10°Sを採用すると、ほぼ東西方向に延び、緩やかな南傾斜です。写真の右側(上流)に傾斜しています。(木製のスケールが、南北を示す。)
 
 これに対して、幅20cm×長さ4m以上のコングロ・ダイクは、N20°W・垂直で、ほぼ川の流れが走向で、垂直に貫入しています。両者の非調和な構造に、さらに、ヒン岩岩脈(岩枝)の一部が、これらを貫いています。残念なことに、沢水をかぶっているので、境界面の様子は、よくわかりません。
 この事実は、①内山層プロパー(黒色泥岩)の堆積→ ②何らかの原因によるコングロ・ダイク礫岩層の貫入→ ③ヒン岩岩脈の貫入という順序性を、如実に物語っています。

 

4.岩石学的特徴からみた成因(まとめ)

 

(1)コングロ・ダイクの礫種は、主に黒色頁岩と、細粒~中粒砂岩であり、チャート礫を含まない。これは、通常に堆積した礫岩ではあり得ない。

 

(2)黒色頁岩の礫や岩塊に、「ひじき構造」といって二次堆積した証拠を持つものがある。

 

(3)コングロ・ダイクを含む泥岩層が(玢岩など貫入岩の)熱変質を受けている。さらに、コングロ・ダイクを含む泥岩層に、玢岩の岩枝が貫入している。一連の事件の中で、玢岩貫入は一番最後の過程である。

 

(4)コングロ・ダイクは、5タイプあった。 

 

 

 

 【 閑 話】     ランプロファイヤー(lamprophyre)の岩脈

 「ランプロファイヤー」というのは塩基性火成岩(煌斑岩・こうはんがん)です。岩石を構成する鉱物の性質から、さらに細分類されます。専門的になるので、珪酸(SiO2)が少ない半深成岩(玢岩とは、違いますが・・・)としておきます。
 こういった火成岩岩脈のように、地下深部のマグマが、既存の地層を突き破って貫入してきて、冷えて固まったというストーリーは、わかりやすいです。有名な例を紹介します。(いずれも、インターネットからの写真資料です。)

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シップロックの岩脈と岩頸(火道跡)

【米国・ニューメキシコ州・ナホバ自治区の岩脈】
 後方が、シップロック山(Ship rock)2188m(比高482m)で、マグマが上昇した火道跡(岩頸)が、浸食されて地表に現れたものです。
 手前が、岩脈の一部です。砂漠の下の基盤岩・マンコス頁岩層(Mancos shale)の割れ目に塩基性火成岩が貫入してきて、冷えて固まった後、浸食され、壁のように残りました。最大な岩脈は8km連続していると言います。岩脈の年代は30Ma(漸新世後期)、古第三紀末に活動した火山の産物です。

 

    *  *  *  *  *  *  *

 

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瀬戸内海・鹿浦越岬の岩脈

香川県東かがわ市・鹿浦越(かぶらごし)岬の岩脈】
 白と黒の縞模様に見えるのが、シル(岩床)のように貫入した岩脈です。白い部分は、花崗岩です。
黒い部分が、塩基性火成岩で、花崗岩体の弱線を見つけるようにして貫入してきました。2cm~2mと貫入幅があるのは、納得がいきます。
  花崗岩も火成岩(深成岩)なので、火成岩同士です。貫入時期は、測定されていませんが、花崗岩の年代(白亜紀後期・90Ma?)から、それ以降だと考えられます。

 

 

 【編集後記】

  「コングロ・ダイク」(私たちが、フィールド・ネームとして名付けたもので、正式な科学用語ではありません。)の成因を考える上で、インターネットなどを使って、いくつかの「岩脈(ダイク)」を見つけました。

  例えば、本文の中の【閑話】で、紹介したような例もありました。また、以下の写真のような、かなり視覚的にも美しいものもありました。

 

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West Spanish Peak

 ただ、以上のような岩脈は、いずれも火成岩が、既存の地層の中で弱い部分を選んで、侵入(貫入)してくるタイプです。特に、上の写真の細長い筋のように見える連なりは、岩脈の列が連続しています。また、下の写真のように、貫入する方向が、ほぼ垂直方向だけでなく、水平に近いような場合もあります。(ちなみに、水平に侵入する場合は、特に「シル」という名前になります。)

 

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 以下は、火成岩ではなく、砂岩の岩脈です。固まった砂岩が貫入するわけではなく、侵入してくる時は、砂粒の状態で、後で固結して砂岩になります。周囲の地層が、まだ完全に固まっていない時に、地震とか地殻変動で弱い部分が出来て、そこへ砂を含む水流が流れ込んだのかもしれません。詳しい内容は、成因に関連した項目で後述します。

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 ところで、本州の南の太平洋側を移動していった令和4年2月10日(木)の「南岸低気圧」に伴う大雪には苦労しました。佐久地方、我が家の敷地内での定規による直接測定では、23cm~25cmでした。風も弱かったので吹きだまりという訳ではありませんが、場所によって多少の差がありました。

 北京冬季五輪のフィギュア男子フリーの演技が行われていました。特に、日本の3選手のライブ放送中は、テレビから離れることができません。フィギュアSPで、最高得点をマークした米国の「ネイサン・チェン」選手の滑走演技と得点が発表され、順位が確定してから、玄関から門柱、それから敷地と接する道路の除雪をしました。佐久地方では、雪が少ないので、「雪踏み」ではなく、「雪掻き」が一般的です。

 我が家の南側は、田舎にあっては比較的、幅広い道路ですが、お隣のMさん方の2階建物があるので、日陰になり雪が解けません。一方で、地下埋設の消火栓があったり、宅配・来客・その他で付近に車できた人の駐車スペースともなるので、特に綿密に除雪する必要があります。

 生涯、忘れることができない「平成26年2月の二日間で積雪1mに達した大雪」では無いにしても、降っても大雪とはならない佐久地方で、20cmを上回る積雪量は、大雪でした。

 冬型気圧配置が強まれば、佐久地方では、冬晴れの嬉しさの反面、厳しすぎる季節風に悩まされます。その中を、何んの因果か、私は冬田道を散歩しています。

 一方、長野県の北部や日本海側では大雪となっています。

 私は、ウルトラマンと同じで、太陽が出ていないと、どうも気分が優れません。青を通り越して、藍色に近い晴天の空の下、『雪国は大変だろうな』と思いながら、寒風の中を歩いていますが、たまには、雪国の苦労を私たちが、実体験するのも悪くありません。・・・しかし、2月11日の朝も含め、トータル3時間ほどの除雪作業で、筋肉痛とは別に、腰の辺りの筋が痛くなりました。(おとんとろ)





 
                   

佐久の地質調査物語-155

      Ⅹ章.コングロ・ダイクの成因

2.コングロ・ダイクの類型

 

(1)大型タイプ

 特に大きさに関して基準を設けていないが、幅よりも寧ろ、長さが5mを越えるようなもの。観察した中では、長さが5mを越えると、幅は20cm以上ある。
 周囲の地層の走向に対して、(ア)高角度~直角に交叉するもの、(イ)低角度で交叉するものがある。ただし、周囲の地層の傾斜より緩いことはなく、ほとんどが垂直に貫入している。

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【図-1】ホド窪沢・標高1020m(幅25cm×15m以上)

 撮影した露頭の写真は、「第Ⅱ章 コングロ・ダイクとは何か?」で見てください。
構造を理解してもらうには、図の方がわかりやすいと考え、【図-1】で示しました。
南に緩く傾斜する黒色泥岩層(頁岩にはなっていない)に対して、コングロ・ダイクが、ほぼ垂直に近い角度で貫入しているように見えます。
 露頭は表面しか見えていないので、下方にどの程度の深さまで達しているか、正確にはわかりませんが、棒状というより板状の形態だろうと推測しました。

  

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【図-2】釜の沢左股の林道(幅50cmと70cm×高さ8m以上)

 【図-2】は、南側に緩く傾斜している黒色泥岩層・砂岩層・黒色頁岩層の中に、ほぼ
垂直に近い(70°W)角度で、コングロ・ダイクが貫入しています。特に、地層の逆転は考えられないので、上位の黒色頁岩層が蓋をしたような産状となっています。

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【図-3】柳沢標高880m(層厚10~25cm×幅2.5m以上×高さ3m以上)

 

 【図-3】は、沢の左岸と右岸にコングロ・ダイクが認められ、かつて繋がっていたと考えられる露頭です。層状(板状)であったものが、沢水の浸食で失われ、その痕跡が、両岸に残っていると推測できます。
 露頭幅の10cm(左岸)~25cm(右岸)に対して、横への広がりは川幅2.5m以上、川底~崖までの高さ3m以上の広がりが予想されます。


   

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【図-4】東武道沢の右岸「林道・東山線」の崖露頭(幅1.1m×高さ10m以上)


    

 【図-4】は、目視できる程度の断層構造と共に、黒色泥岩や砂優勢の砂泥互層の中に、コングロ・ダイク(観察できた最大幅110cm)が貫入しています。
 但し、後述しますが、産状をうまく説明できないことが多く含まれています。


(2)軟着陸タイプ

 特に大きさに関して基準は設けていないが、幅と長さが共に大きく(例えば0.5m以上)、周囲の地層と比較的調和的に堆積している。潜らないで、軟着陸したようなので、そんな命名にしてみた。
 例えば、板状の素材が水に沈んで行く時、水の抵抗を受けて底に、
突き刺さらずに、広い板面を底に着水するイメージである。

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【図-5】小屋たけ沢のC地点(ウ)

 【図-5】は、小屋たけ沢の標高1000~1010mで見られる5つのコングロ・ダイクであるが、軟着陸タイプは、C地点の(ウ)
である。かつて、小滝の両側に水平な状態であったと推測できるが、現在は、中央が浸食されて、両岸に分かれている。

 

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【図-6】武道沢標高890~910m露頭(C)・(I)・(J)



【図-6】の【C】・【I】・【J】の板状に分布するタイプである。


(3)普通タイプ

 特に大きさに関して基準はないが、幅数10cm×1~2m(長くても3m)ぐらいもので、露頭で見ると「細長い棒」のように見える。実際は、周囲の地層にある程度の厚さ分だけ貫入している。周囲の地層の走向に対して、(ア)高角度~直角に交叉するもの、(イ)低角度で交叉するものがある。ただし、周囲の地層の傾斜より緩いことはなく、ほとんどが垂直に貫入している。観察した感触では、(ア)の方が多い。


(4)湾曲し不規則な形になるタイプ

 多くは板状、棒状をしているが、湾曲していたり、不規則な形になっていたりする。大きさは様々である。
 コングロ・ダイクが形成された後の変形か、形成中の事件を反映しているのかは分析しにくい。

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釜の沢下流とホド窪沢で見られた形態の様々な露頭


(5)交叉、十字タイプ

 2つのコングロ・ダイクが、十字に交わるもの。または、途中から枝分かれする。観察した中では、数は非常に少ない。原因は、わからない。 

産地:①小屋たけ沢(【図-5】(ア)タイプ)
   ②滝ヶ沢林道の沢(標高940mASL【図④露頭】)
   ③武道沢(【図-6】(H)タイプ)

 

 

【編集後記】

 露頭の写真よりも、形態の特徴を示すには、スケッチの方がわかりやすいのではないかと考え、代表的な「コングロ・ダイク」を示しました。小規模なものになると、あたかも、プラスチック製の定規やベニア板の切れ端のような精巧なものもあり、どうしてできたのだろうと、成因がわからなくなってしまうものもあります。成因についての推理は、後日にしたいと思います。

 ところで、立春・2月4日に開幕した冬季・北京五輪Olympic  Games)には、興味津々で、ついつい遅くまでテレビを見てしまいます。また、昼間も見ます。

 基本的に、スポーツ競技の、どの種目でも、日本人選手の活躍や健闘ぶりを応援していますが、やはり、自分もかつてしていた「スピード・スケート」に熱が入ります。

 ただ、期待されていた選手が、思い通りの結果に結びつかなかった時や、不運にも失敗したり、場合によっては、運命なのかとも言うべき自然現象に妨害されて、まったく期待とは裏腹な順位となった時は、過酷だなあという思いです。

 例えば、最近のオリンピック競技で新種目となってきた、「男女混合や団体」を強調した競技種目は、日本人好みの「男女、皆で助け合い、励まし合って」という心情にも合って、日本の得意芸だと思うのですが・・・・・

 フィギュア混合団体チームが、銅メダルという快挙を挙げたのに対して、不運にも、ジャンプ混合団体チームは、1回目8位から大健闘したとは言え、4位となってしまいました。茶の間で見ているだけの私たちですら、悲しいのですから、当事者や関係者は、どんなにか口惜しいことだろうと推察致します。

 

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パシュート女子(2018年平昌大会から)

  オリンピックの競技種目や選手の活躍に関心が向いていて、やや国際情勢や新型コロナの感染拡大の話題から目が離れがちですが、「日々、刻々と動いていく地球というダイナミックな歴史」を感じているような毎日です。(おとんとろ)
  

 

                    

佐久の地質調査物語-154

第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因


 コングロ・ダイクの産状や地域による多様性について、『第Ⅱ章コングロ・ダイクとは何か?』や、ルートマップのデーターを紹介する中で、報告してきました。
 この章では、それらをまとめ、コングロ・ダイクの成因を追究していきたいと思います。

1.コングロ・ダイクの礫の特徴

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(3)南部域の沢での様子をまとめると、以下のようです。

(ア)矢沢

◆珪質の灰色中粒砂岩層に入る(礫種は黒色頁岩と灰色砂岩)、内山下部層

 

(古谷集落北側の沢)

◆粗粒砂岩層に貫入(礫は主に砂岩)/・黒色泥岩層に入る(礫種は黒色頁岩と灰色砂岩)、 内山層下部層に3露頭

 

(4)内山川本流で見られたコングロ・ダイク(特異なもの)

 

(ア)内山川本流(大月層の分布域)

◆帯青灰色中粒砂岩層に入る(礫種は黒色頁岩、砂岩) 幅10cm×1・5m
◇細粒砂岩と中粒砂岩の互層に入る(礫種は黒色頁岩、砂岩、石英閃緑岩)、

 幅10m×1m、幅10m×5m、幅10cm×6mの3露頭

 

(イ)内山川本流(内山層の下部)

石英斑岩(Quartz-Porphyry) の十字貫入とコングロ・ダイク(礫種は黒色頁岩、砂岩)

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石英斑岩の交叉貫入とコングロ・ダイク

(5)コングロ・ダイクの礫の特徴


  亜角礫(粒子の角が少しとれているが、完全に丸くなっていない状態)から角礫で、どの沢でも黒色頁岩片が圧倒的に多く含まれます。その他の礫は、細粒~中粒の砂岩で、全域で認められます。石英安山岩(dacite)の礫は、隣り合った沢の武道沢と釜の沢左股沢の一部で、また、明灰色凝灰質細粒砂岩は、武道沢で多かったです。
 礫の最大径は、全体を平均化してあるのではなく、大型コングロ・ダイクがあると大きめに出ています。

 

★コングロ・ダイクの礫種に、チャート礫が含まれていないという、極めて重大な事実があります。
 チャート(chert)層は、中生代の地層にも含まれていますが、古生代の地層に多い傾向があります。佐久地方では、秩父帯(古生代の地層を取り込んだ中生代付加体)の中に、チャート層があるので、中生代以降に堆積した礫岩層には、例外なくチャート礫が含まれています。
 例えば、山中地域白亜系の白井層と石堂層の基底礫岩層には、多量なチャート礫が含まれています。また、その上位に重なる瀬林層と三山層の礫岩層にも、他の特徴的な岩石の礫とともに含まれています。さらに、新第三紀の内山層基底礫岩層にも、上部内山層最下部の礫岩層や砂礫岩層にも、多量に含まれています。

 ところが、コングロ・ダイクの礫には、チャート礫が見当たりません。「やや珪質の」という記載もあるので、必ずしも皆無とは言い切れないかもしれませんが、とにかく無いか、あったとしても発見するのが難しいくらいの少量でしょう。

【エピソード】水平距離20mで、産状の違いを生む(柳沢の標高918m~925m) 象徴的な2露頭があります。

  柳沢の標高918m付近に、この沢の最も上流で見られるコングロ・ダイクが2本(大15cm×6m、小5cm×2m)隣り合っている露頭が見られます。そこから水平距離で20mほど上流の標高925m付近には、上部と下部を分ける上部内山層最下部の礫岩層があります。この礫岩層には、円礫チャート(最大径3cm)が認められました。しかし、コングロ・ダイクの礫の中には、チャート礫はありません。こんな至近距離で、しかも層序から予想される時間的・空間的にも接近した関係にある2露頭は、チャート礫の有無に関しては、極めて大きな違いがあるのです。

 

 チャートは、珪酸(SiO2)成分が多いので、物理・化学的にも安定で、風化・浸食に対して極めて強い岩石です。だから、礫を供給する後背地にチャート層があれば、必ず礫岩層に含まれてくる礫種の代表のはずです。それが無いか、発見しにくいということは、極めて重要な事実です。コングロ・ダイクの成因に関わって、特別な条件を想定する必要があるのかもしれません。

 

(6)例外的なコングロ・ダイクからの情報


  コングロ・ダイクは、内山下部層で見られるのが一般的ですが、基底礫岩層(1例)、大月層(4例)、駒込層(内堀沢5例、尾滝沢1例)など、内山層以外の地層の中からも観察されました。
 この事実を考え合わせると、チャート礫を含む通常の礫岩層と同じような堆積の仕方をしていないのではないかと思わせます。また、時代が前にも後にも延びる分だけ問題を複雑にします。

 


(7)コングロ・ダイクの礫と【ひじき構造】

 

 全てのコングロ・ダイクの礫に認められるわけではありませんが、ホド窪沢の標高875m付近では、黒色頁岩の角礫や、引きちぎられたような細長い粒子が、礫として含まれている露頭がありました。海草のヒジキのように見えたので、「ひじき構造」と名付けました。

 これは、黒色泥岩が堆積し、石化する前に破壊され、それがコングロ・ダイクの礫の中に取り込まれたことを示している。また、黒色頁岩の礫の長径に着目すると、方向がそろっているので、礫岩を作った時の水流方向に並んでいると推理できます。つまり、コングロ・ダイクの礫も、一次または二次堆積していた時は、重力方向に対して正常な堆積構造をしていたと考えられます。

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ひじき構造と名付けた二次堆積

 

【編集後記】

 「佐久の地質調査物語-○○○」シリーズは、主に内山層についてまとめた内容を順番に紹介しています。100が「はじめに」で、以降、今回まで54回です。

 ですから、今回だけ見た方は、「コングロ・ダイク?」と言われてもわからないと思いますので、簡単に説明します。

 『コングロ・ダイク』とは、その産状の特徴をもじって、私たちが調査用に名付けた  フィールド・ネームで、正式な地学用語ではありません。礫岩(コングロメレイト・ conglomerate)が、火成岩の岩脈(ダイク・dyke or dike)のように、堆積岩(主に黒色泥岩)から成る地層に対して、非調和的に貫入しているように見える異常堆積構造のことです。このコングロ・ダイクが、内山層で頻繁に観察されます。

 

 以下の露頭は、露頭規模と明確さが顕著なので、度々紹介してきた典型的なパターンのひとつです。礫岩層が、黒色泥岩層に対して、ほぼ垂直に貫入しているように見えます。

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コングロ・ダイクの説明図

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ホド窪沢・標高1020m付近の露頭

 

ところで、日本選手団の活躍が期待される「北京冬季五輪」や、どこまでが真実なのかわからないまま懸念している「ロシア軍のウクライナ国境付近での訓練(侵攻の準備なのか?)などの動向」も、大きな関心事ですが、それにも増して、ここ最近、噴火活動や地震の話題が多いです。

(ア)トンガ王国の首都ヌクアロファの北65kmほどに位置する海底火山「フンガトンガ-フンガハアパイ」が噴火して、それに伴う火山灰、地震被害、津波被害が発生しました。噴火は、日本時間で1月15日の13時10分頃と言われます。M9・5

 その後も、トンガ北部で、深さ4.2kmを震源とするM6.2の地震が発生しました。(1月27日)

 

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海底火山「フンガトンガ―フンガフアパイ」の噴火(インターネットから)

(イ)九州の日向灘(N32・7°・E132・1°)の深さ45kmを震源とするM6.6の地震が発生しました。(1月22日、午前1時8分)最大震度は、5強です。(大分市佐伯市竹田市延岡市高千穂町など)私たちの住む佐久市では、人体に感じるような揺れは伝わってきませんでしたが、発生時刻が深夜なので、実際の被害に加え、心理的にも恐怖だったと察します。

 今回の地震日向灘に沈み込む海洋プレートの内部で発生した地震と考えられるため、南海トラフ地震とはメカニズムが異なり、震源や規模をみても南海トラフ地震への影響はほとんどないと、専門家は見ているようです。

(ウ)鹿児島県の十島村諏訪之瀬島の御岳」で1月24日の午後11時までに爆発が168回あった。2002年の爆発回数の観測開始以来、1日当たりの爆発が最多となったと言う。1月29日は、中程度の噴火が3回であったようだ。

 何んと鹿児島市の「桜島・南岳山頂火口」でも、新年になってから4回目の噴火があった(1月29日)とありました。

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桜島火山観測所(インターネットから)

 私たちが毎朝夕、眺めている浅間火山も、信濃毎日紙上の噴火警戒警戒情報などを見ながら、現在は僅かに噴煙が上がるのを散歩の折りに確認しています。

 必要以上に不安がることは必要ないかもしれませんが、相手が大自然地殻変動なので、どうしようもなく、ひたすら安寧を祈るしかありません。(おとんとろ)

 

  

 

佐久の地質調査物語-153

第Ⅸ章 内山層の層序

 

6.層序や岩相から示唆されたこと

 

 これまで地質柱状図で示してきた地域で、雨川水系の北側の支流と抜井川の北側支流は、主に内山層の下部層のみの分布でした。また、矢沢と灰立沢は、上部層だけのようです。

 ですから、下部層から上部層まで、内山層が連続して見られるのは、北部域の沢(特に、柳沢や大沼沢など)と、谷川だけです。
しかし、北部域・中部域・南部域を総括してみると、模式地(柳沢・大沼沢)は、全体の岩相を代表してはいませんが、堆積輪廻としての変遷や層序・堆積物の粒度変化を考える上で、以下のような内山層の特徴を表しています。

 以下の4つの観点から、模試地とその他の地域を比較して見てみます。

【観点-①】基底礫岩層の特徴(粗粒砂岩層の存在・礫の大きさ)

【観点-②】下部層の岩相と、その変化

【観点-③】下部層と上部層の境目(上部層最下部の粗粒岩の存在)

【観点-④】上部層の岩相と、その変化

 

【観点-①】

・模式地(柳沢や大沼沢)では、粗粒砂岩や粒度の小さい礫岩の上に、巨礫を含む礫岩  が載る。(基底礫岩層群)

◆その他の地域では、(ア)基底礫岩の下の粗粒砂岩のような存在は認められなかった。

  (古谷集落北側の沢は、例外)

 (イ)相立(内山川本流)と抜井川支流では、優に直径50cmを越える極めて大きな角のとれたブロックがある。

【観点-②】

・模試地では、砂優勢な砂泥互層→泥優勢な砂泥互層→黒色泥岩層にコングロ・ダイクが含まれる→泥岩層という順番で重なる。

・特定層準ということはないが、(砂質)黒色泥岩層に海棲動物化石(二枚貝化石が多い)が見られる。

◆その他の地域では、(ア)砂優勢→泥優勢という傾向は認められない。
  内山川黒田付近や抜井川第4沢では、基底礫岩のすぐ上位から、二枚貝化石を含む黒色泥岩層が厚く堆積している。

(イ)コングロ・ダイクを含む層準は、下部層の比較的上部がほとんどだが、それ以外でも1例認められた。(古谷集落北側の沢)

(ウ)コングロ・ダイクの分布は、西側に偏る。(詳しくは、別項で)

(エ)多産する神封沢付近では、灰色泥岩(シルト岩)~灰色細粒砂岩で産出している。

 

【観点-③】

・柳沢:粗粒砂岩と礫岩で、層厚2m(露頭幅10m)

・大沼沢:間に砂質泥岩層0.5mを挟み、上下に層厚2.5mの砂礫岩層
 隣接していて、層準からも、連続した砂礫岩層が顕著に認められる。

◆その他の地域では、(ア)全域で粗粒砂岩層や礫岩層の「砂礫岩相」が認められる。

(イ)巨礫が入ることはない。角礫であることもある。(基底礫岩の大きくても円礫と対照的である)

(ウ)神封沢では、礫岩層が下位層を不整合で覆う。(一時的な陸化が予想される。)

(エ)林道東山線では礫混じり層準の後、水棲植物の炭化物が入った中粒砂岩が認められる。

(オ)武道沢ではカキ殻、黒色頁岩塊が見られた。

 

【観点-④】

・模式地では、「砂礫岩相」層準の上に泥岩層が載り、海棲動物化石が見られる。その上位は砂泥互層が続く。

・上位に向けて、砂優勢・凝灰質傾向があり、凝灰岩層を含む。

・大沼沢では、玉葱状風化をする砂岩、緑色凝灰岩層が見られた。

◆その他の地域では、(ア)泥岩層はほとんど発達することなく、細粒砂岩層や中粒砂岩層のまま上位の層準へ推移する。(北部域の西側の沢、谷川)

(イ)上位に向けて凝灰質傾向が強まるのは、全域で見られる。

(ウ)北部域の東側(ワチバ林道の沢、舘ヶ沢)では、上位層準で凝灰岩層が頻繁に挟まるようになる。(かつて、駒込層として扱われていた経緯もある。)

(エ)堅い岩相でクランク状の渓谷を作る層準があるのか?(滝ケ沢林道の沢、障子岩)

 

 

6-(1) 滝ヶ沢林道の沢~仙ヶ沢付近の下部層と上部層

 

 様々な情報から「矢沢断層」が、都沢上流部から抜井川(柏木橋の西10m付近)、矢沢(コンクリート橋付近)、余地川(湯川と温泉の沢の間)を通り、滝ヶ沢林道の沢~仙ヶ沢を抜けていると推定されました。
 一方、雨川本流~滝ヶ沢林道の沢の岩相を見ると、中流部に内山層上部層を挟み、下流部~雨川本流と上流部が、内山層下部層のように思われます。また、仙ヶ沢下流部には、
内山層の下部層と上部層があるように思われます。
 それで、「まとめ」からの情報を手がかりに、地質構造を以下のように解釈しました。(数字は、ルートマップの数字です。)

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6-(2)熊倉川の内山層分布について

 

 標高865m付近にある滝(「知床滝」と名付けた)から下流側の熊倉川本流は、象ヶ滝、熊倉集落付近まで、明らかに先白亜系だと思われます。しかし、「象ヶ滝」を観察した後、本流の南側・尾根斜面から本流に降りる場所を探している途中で見かけた2露頭は、内山層上部層でした。象ヶ滝の上流側へ1本目の沢の標高920m付近(【図-⑬】)の暗灰色中粒砂岩層(N10~20°W・15~18°NE)と、2本目の沢の標高930m付近(【図-⑭】)の熱変質した灰白色細粒砂岩層(N30~40°W・10°NE)のことです。(数字は、ルートマップの数字)

 また、余地峠から東に延びる林道沿いも内山層です。標高1260m付近(【図-②】の熱変質灰白色細粒砂岩層(N25°W・20°NE)、標高1230m付近(【図-③】)の熱変質灰色細粒砂岩層・黄鉄鉱(pyrite)の晶出が顕著、(N20~30°W・10°NE)の2露頭は、内山層下部層としました。そして、「四方原山-大上峠」断層が推定され、林道分岐点(標高1140m)を過ぎた(【図-④】)の粘板岩(N40~50°W・15°SW)露頭は、内山層上部層と解釈しました。
 次に解釈の上で問題になるのが、熊倉川の【図-⑥】~【図-⑬】の扱いです。

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 問題は、礫岩層(⑧・⑨)です。礫岩層(⑥)と礫種は共通していても摩耗程度の違いから、別の時代の可能性もありますが、次の3つの理由で、全部が先白亜系だと解釈しました。

(ア)巨礫を含む礫岩は内山層基底礫岩層にもあるが、堆積盆の性質(東には開いていたと推測)から、基底礫岩層ではあり得ない。また、下部と上部の境の「砂礫相」に、巨礫は含まれない。

(イ)礫岩層の走向・傾斜がEW・北落ちである。周囲の内山層の走向は寧ろNSに近く、調和的ではない。(断層を境に変わっているとの解釈が合理的)

(ウ)推定断層の上流の帯青灰白色中粒~粗粒砂岩の変成前の原岩は、凝灰質砂岩で、内山層上部層に特徴的に見られる岩相であるのではないか。

 

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6-(3) 大上林道沿い露頭と

 第5沢の内山層分布について 

 大野沢支流第5沢と、その沢沿いに大上峠に至る大上林道で、内山層が見られるのはわかりましたが、その層序はわかりずらいです。特に、成因不明な小断層の話題(林道露頭【図-⑩】)は、依然として疑問のまま残りますが、ある程度明らかになった内山層の層序に当てはめて各露頭の所属を決め、以下のように全体像を解釈しました。

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 当範囲付近は、「四方原山-大上峠(よもっぱら・おおかみとうげ)」断層の通過が予想されました。走向・傾斜を見ると、【図-③】より西側は西落ち、【図-④】より東側は東落ちとなりますが、傾斜は50°~80°と高角度で立っています。一方、走向は、基底礫岩層(第4沢の基底礫岩と結んだ値)の「N40°W」が全体を代表しているように思います。
 それで、当地域は、全体的に見ると東傾斜で、一連のものだと解釈しました。
 また、周囲の情報(大野沢支流第6沢・第7沢や大野沢本流調査の結果)から、当地域は四方原山-大上峠断層の北側にあることが明らかになりました。ちなみに、断層の南側は、瀬林層(下部層と上部層)が、向斜構造で接している北翼になります。

 

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 【 閑 話 】

 内山層上部層の特徴について、『堅い岩相でクランク状の渓谷を作る層準があるのか?(滝ケ沢林道の沢、障子岩)』と付記しましたが、大野沢支流第5沢の標高1055m付近(【図-⑤】)の落差4mほどの滝も、非常に堅い珪質細粒砂岩で、チャート層と見間違えたほどでした。

 (ア)矢沢の第1・第2・第3クランク:珪質砂岩層が見られる、(イ)熊倉川の障子岩:全体は粗粒砂岩だが、珪質傾向である、(ウ)滝ヶ沢林道の沢のクランク状渓谷:熱変質した灰白色泥岩~細粒砂岩層、(エ)仙ヶ沢のクランク状渓谷:熱変質した中粒~粗粒砂岩層、(オ)第5沢の滝:珪質細粒砂岩層と、泥や砂で粒度は違いますが、どれも堅いです。
 堅くなった原因は、(ア)・(イ)・(オ)が珪質(siliceous)であること、(ウ)・(エ)が玢岩による熱変質であることのようです。偶然にも、内山上部層が多いですが、矢沢クランクは、内山下部層に属します。

 

【編集後記】

 元の原稿には、各沢のルートマップはありませんでしたが、もし、この章のこの内容だけ見た人は、さすがに、露頭番号がなければ、何のことだかわからないと思い、追加しました。

 内山層の分布している各地域を概観した内容をまとめたものですが、要は、模式地と言われる「柳沢や大沼沢」の岩相やその変化は、内山層全体を代表していないという結論です。それだけ、内山層の堆積盆は、広大なものではなく、地域によって堆積環境に差があったことを示しています。

 次の章では、「コングロ・ダイクの成因」について話題にしますが、この中で、堆積盆の様子についても言及したいと思います。

 ところで、前回に続き、今月のファイル使用量がまだまだ1%にも達していないので、既に、各沢のデーター紹介の折りに使った写真も含め、熊倉川の印象的なものを紹介します。

 

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「知床滝」と名付けた、いきなり川底に落下する小滝

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円形の滝壺 【破砕帯の上流】

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障子岩の大岸壁

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熊倉川の象ヶ滝

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熊倉川の自然公園

  

 救急の 母案じつつ 去年今年

 奇しくも令和3年の大晦日(12/31)の午後、119に要請をして、私の母を救急搬送してもらいました。この俳句のように、大晦日の晩から新年(元旦)にかけて時刻が移ろい、年越しの瞬間を過ごしました。

 佐久医療センターに入院した母は、明日ようやく転院できそうです。退院なら嬉しい限りですが、コロナ禍で、一番近くと希望していた病院では、一般病棟(リハビリを兼ねる)に空きがなくて、佐久総合病院(本院)へ入院の運びとなりました。

 救急隊員の方や、病院での医療関係の多くの方々のお陰です。感謝申し上げます。

 CTで見せてもらった脳の血管の様子から、かつての母の姿と同じようにとは期待できません。毎朝、午前7時には、私の作った(もちろん妻も基本的には用意しますが)味噌汁を持って、一緒に朝食を摂っていた生活に戻ることは、不可能かなと覚悟はしています。寒さ厳しい「大寒」ですが、私たち家族にとっても厳しい年明けとなりそうです。(おとんとろ)