北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-162

 Ⅹ.コングロ・ダイクの成因

 

9.混濁流説の問題点

 

9-(1) 形が精巧すぎる小規模コングロ・ダイク

 佐久教育会・夏季研修講座(平成19年7月28日)で、武道沢〔C〕露頭付近を案内していた時、小規模コングロ・ダイクを発見しました。長さは1.5mですが、幅4cm(上流側)~8cm(下流側)と、極めて小規模です。N20°W・垂直の走向・傾斜で、上流から1/3の位置に、礫層が2cmほど切れて、周囲の泥岩がつながっている部分がありました。
 ダイヤモンド・カッターで切れれば、内部の真相はわかることですが、それは、かないません。原因として、①小規模なので、泥が表面に付いているだけ、②泥に重力貫入した時、一部が割れ、間を泥が埋めた(NHa説)、③泥岩の割れ目に礫が、ジェット水流で貫入した(NHt中沢説)が、提案されました。地学委員のNHtさんは、私の重力貫入説に懐疑的です。

 ただ、次の反論ができ、疑問が生まれます。何度も話題に上がりますが、内山層の中に供給できる礫自体がありません。これが決定的な反論理由です。供給できる礫がありさえすれば、NHt説も可能となります。

 また、周囲の泥岩にきれいな層理面があって、その隙間に調和的に(sill・シルのように)貫入したのであれば、直線的な形態を説明できますが、貫入は非調和的な岩脈(dyke・ダイク)のようです。

 ところが、小規模コングロ・ダイクが、大きなものが割れた一部と考えると、『どうして、こんなにも精巧に、直線的に割れるのか?』という疑問が生まれてきます。何しろ、黒色泥岩への深さは不明ですが、厚さが4~8cmで、長さ1.5mの精巧な棒状(板状)な形状になります。剥離性のある頁岩や、板状節理の溶岩でさえ、これほどきれいには割れません。今まで小規模なものは、大きなものの破片と考えていました。確かに、それも存在するはずです。しかし、これだけ小規模であっても、精巧なコングロ・ダイクを見ると、単純に割れただけでは、明らかに説明がつきません。

 

 また、同じコングロ・ダイクではありませんが、二次堆積を示す証拠も認められました。コングロ・ダイクを構成する砂岩礫の中に、黒色泥岩礫が、貫入している部分がありました。このことは、「堆積し固結する時、砂より泥の方が、既に固結が進んでいて、砂の間に黒色頁岩片が突き刺さった」ことを意味しています。寧ろ、重力貫入説を裏付けます。

 「ひじき構造」で指摘したように、コングロ・ダイクを構成する粒子群の中には、既に一次堆積し固結が進んでいた状態で破壊され、二次、場合によっては、三次堆積したことが、わかっています。

 内山層プロパーに重力貫入する前の、コングロ・ダイクの礫層が作られた時と場所では、①供給場所から礫の状態のまま運ばれた礫、②少し固結が進んでいた状態で破壊された砂岩片や泥岩片、③未凝固ではないにしろ、可塑性を残した砂や泥、④マトリックスとなる砂や泥などが、同居していたことを伺わせます。コングロ・ダイクの礫の供給源は、一次堆積した内山層プロパーのものとは、異なっていると思われます。・・・・という仮定をしていますが、かなり特別な条件になり、不自然さも感じています。

 

 

9-(2) 海底に尖塔となっていたコングロ・ダイク

 次の写真とスケッチは、雨川水系の林道「東山線」、東武道沢右岸のコングロ・ダイクを含む地層で、正断層と逆断層が見られる露頭です。見ている方向は、北西です。
 中央のコングロ・ダイクの礫岩層は、これまでの観察中、最大の層厚を示し、110cmありました。周囲は、砂優勢な砂泥互層で、走向・傾斜は、左側(南)で、N70°E・10°N、右側(北)で、N80°E・5°Nと、ほぼ東西に近い走向で、緩やかに北に傾いています。

 これに対して、コングロ・ダイクの走向・傾斜は、N80°W・80°Nなので、周囲の砂泥互層と斜交しながら、ほぼ垂直に貫入しています。貫入の深さは、見えている部分で、5mほどです。露頭全体は、高さが10mほどの切り通しです。礫種は、砂岩と黒色頁岩片が主で、チャート礫は含まれていません。最大な礫は、直径が20~25cmにもなる巨礫でしたが、堆積時の重力方向は特定できませんでした。
 上部の茶褐色に風化した砂岩層に着目すると、左下から右上に筋状に延びている正断層があり、左側が2mほど落ちています。その後で、この構造を右下から左上にかけて、逆断層が乗り上げるように切っています。移動は、すこし色の変わった砂岩層からみると、2.5m以上です。(説明図を参照)     

 

林道東山線の露頭

露頭の説明図

 

                               *   *

 

 もうひとつ、重要な情報があります。私たちは、コングロ・ダイクの成因は、混濁流によって運ばれた礫岩層・砂・泥が、海水中で分級され、未凝固の泥堆積物層にコングロ・ダイクの礫岩層が重力貫入し、続いて、砂・泥の順に堆積したと考えました。
 だから、露頭スケッチのコングロ・ダイクを覆う砂岩層や砂優勢泥岩層は、この考えで十分説明できます。ところが、上部の茶褐色に風化した(破壊された形跡のない)砂岩層が含まれていることで、事情は違ってきます。この砂岩層は、火山性起源の物質や火山砂が風化したものです。同じ砂粒子でも、同一の混濁流の中で都合よく火山砂だけが分かれて堆積したとは、考えられません。                

 そこで、茶褐色の砂岩層が堆積するまでの間、コングロ・ダイク貫入に関わった同一周期の堆積サイクルは、終わっているはずです。その境界は、コングロ・ダイクの分布する途中なので、コングロ・ダイクの礫岩層は、しばらくの間、海底から尖塔のように頭を出していた可能性があります。
 その影響は、次に堆積してくる地層構造に残っているはずだと思いますが、この露頭ではわかりません。

 

 

最大幅の露頭を正面から写したもの

 ちなみに、以前の機会にも紹介しましたが、この最大幅110cm×高さ5mほどの林道・東山線の露頭は、下の写真のようにコンクリート壁で覆われてしまっています。

話題の露頭はコンクリート壁で覆われてしまっている

 

 【編集後記】

 佐久地域に分布する新第三系「内山層」についての地質調査の様子と、資料を載せてきましたが、今回で、やや尻切れトンボのようですが、「コングロ・ダイクの成因は仮説を立ててみたが、疑問が残されたままです」という状態で幕を閉じます。

 「山中地域白亜系」での地質調査の様子や資料も、今回のシリーズの前に載せましたが、統一した「連番」を付けなかったので、わかり難いと考え、内山層では、100番をスタートの「はじめに」としました。以下、101番から今回の162番まで続きました。

 実は、124番前後の「根津古沢の調査から」は、未完成のままにしてあります。

資料としては小坂共栄先生(信州大学)らのルート・マップや仲間の資料もあるのですが、写真を撮りに一度、沢に入っただけで、私自身が調査をしてありません。それで、いつかと思いながら、「まとめ」の原稿作りは果たせませんでした。

 尚、このシリーズには、文献資料をまとめた「ⅩⅠ.地球の歴史」が付随しています。ただし、2020年(令和2年)6月頃からに、既に「はてなブログ」に載せましたので、割愛致します。

 

  ~予告~ 

 次回(地質調査物語-163回)に、全体の「もくじ」を掲載します。そして、その次に、「おわりに」(164回)を載せて、内山層を終わりにします。その後は、調査地域が少し北側に移り、駒込層から八重久保層・香坂層(香坂礫岩層)などのシリーズを載せていこうと予定しています。(おとんとろ)

 ただし、俳句も同じ「はてなブログ」に載せていますので、途中に登場しますが、宜しくお願いします。

 

佐久の地質調査物語-161

第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 

8.内山層の堆積盆とコングロ・ダイク

 

 「群馬県南西部の新第三系の地質発達史(野村 哲・小坂共栄 共著)」に添付された地質図を見る機会がありました。縮尺が大きいものなので、細かな場所は正確に特定できませんが、私たちのフィールドの地層分帯から類推すると、私たちが駒込層と内山上部層とした部分を、一括して駒込層として扱っています。また、内山中部層(広義の下部層)のごく一部も含まれているようです。この見解の意図は、火山性物質が入り始め、凝灰質要素のある地層を全て駒込層として扱っているように思われます。ただし、この図幅は極めて広範囲を網羅したもので、当地域は完全な端に当たり、先生方の調査も内山川側からの調査であった可能性も高いので、もう少し慎重に検討してみる必要があると思います。

 

8-(1) 内山層堆積輪廻の2回目は、極めて小規模である。

 

 さて、前述の地質図を見て驚いたことは、内山層と同時代であるとされる「下仁田層」と「牛伏層」の南縁が、三波川帯の結晶片岩と接していることと、その分布域の南北方向のあまりの狭さです。内山層から、東側へほぼ12kmぐらいの等間隔をおいて、3つの地層分布域は東西に連なっています。各地層の東西方向の分布は6kmほどと大差ありませんが、群馬県の2つの地層の南北方向への広がりは、最大でも1kmもなく、極めて小規模なのです。たぶん、内山層堆積の最盛期には、東西方向につながりをもっていた海が、太平洋側から侵入していたはずですが、海退期には小さな堆積盆となってしまい、互いに独立していたか、わずかな水路を通じてつながっていた程度だと想像できます。だから、内山上部層の堆積盆は、十分に東側に開いた状態ではなかったと思われます。
 ただし、内山上部層の堆積時代は、駒込層と指交関係(inter-finger)や一部が同時異相になっていた可能性も充分にあると、言われています。私たちには証明手段がないので、将来、地質絶対年代調査などから、『内山層上部層=駒込層』ということになれば、その結論に従うつもりでいます。

 

                       *   *   *   *

 

 ところで、内山上部層が、かなり浅海成であったとすると、『内山層の堆積輪廻が2回あった』というアイディアは、少し修正しなければなりません。私たちは、内山層堆積盆の大まかな変遷を、次のように理解していました。

 

①山中地域白亜系と、(跡倉ナップ群に相当する)大月層に挟まれた陸上域が、地向斜 の海となり、これが内山層の堆積盆となった。そして、基底礫岩層群が基盤岩類を 不整合に覆った。

②急速に深まる海に、砂泥互層や黒色泥岩の下部層が堆積した。

③さらに海が深まり、堆積盆は拡大した。安定して発達した泥岩層にコングロ・ダイ
 クが、他の砂や泥とともに混濁流によって運ばれ堆積した。

④堆積盆は急速に上昇し、砂礫層が発達した。やがて、模式地を中心とする地域は、
 再び沈降し、砂泥互層の上部層をためた。西側地域は、浅海性の堆積環境であった。

⑤内山層は収束し、この上に駒込層が整合関係で堆積した。

駒込層堆積盆の中心は、北側へ移動した。

 

 このため、内山層堆積盆は、下部層と上部層の2回の堆積輪廻(海進→海退→海進→海退)があったと理解していました。この考えは、模式地の柳沢や大沼沢付近をみれば、そう見えます。
 しかし、分水嶺を越えた雨川水系や谷川の調査結果も加えて検討してみると、大局的には、内山上部層の堆積盆は、一度縮小した後、浅海性を保ちながら縮小して、少しずつ収束に向かっていたのではないか。また、内山上部層の堆積盆は、十分に東側に開いた状態ではなかったと思われることからも、裏付けられるような気がします。そして、北部域の中心部にわずかに深い堆積盆を残していたと理解する方が、適切だと考えられるのです。

 

 

8-(2) 内山層堆積盆は、中央部西端に高まりがあった。

 

 内山川水系(北部域)や雨川水系(中部域)の調査から明らかになった内山層の層序と比べ、谷川の地質は、次のような特徴があります。

 

① 基底礫岩層の分級が極めて悪く、巨礫の形や堆積状況から重力方向が推定できないほど、 乱雑である。
 

② 内山下部層のコングロ・ダイク集中層準が下位層準に1露頭と少ない。また、上位層準は  ほとんど砂相で、泥相がない。

 ③ 基底礫岩層に、石英閃緑岩が貫入している。内山層は、ほとんど熱変成されている。

 

 ③については、北部域や雨川水系の右岸で見られるヒン岩の貫入に対して、さらに大規模な石英閃緑岩体の貫入があり、この熱源により、谷川の内山層が熱変成されていると思われます。問題は、①や②の内容です。
 基底礫岩層が谷川に認められることで、内山層堆積盆の西側への広がりの限界がわかりました。礫種は他の地域と共通していますが、岩相から、供給源に近く、より浅海性の堆積環境であったことが予想されます。また、中部内山層のコングロ・ダイクが集中する上位層準は、泥相ではなく、砂相となっています。コングロ・ダイクは西側から供給されたと考えられるので、堆積盆の西端に当たる谷川で、上位層準に相当する部分が砂相ということは、既に本格的な浅海性環境(上部層最下部の砂礫岩層)に向かって動き出していたと考えられます。この時、コングロ・ダイクが1露頭と少ないことから、コングロ・ダイクを運んだ混濁流堆積物で埋められたとは考えられません。

 つまり、北部域・南部域よりも、元々浅い堆積環境にあり、堆積盆が拡大した時期も、浅海であったと推理できます。

 そうなると、谷川付近は、内山層堆積盆の中央部・西端にあたるので、中央部に高まりがあり、北側と南側に、2列の堆積盆が存在した可能性があります。【下図】

内山層の2列堆積盆(想像図)

 次のように推理しました。

(ア)内山下部層の下位層の堆積した時代
  北部域~南部域に連なる、ひとつの大きな堆積盆があった。内山層プロパーは、白亜系や先白亜系の基盤岩地域から供給されたと考えられる。現在の方向で、南と北から堆積物が供給されている。
 一方、中部域・谷川付近は、極めて分級の悪い基底礫岩層の特徴から、西側から堆積物が供
給されている。

 

(イ)内山下部層コングロ・ダイクの堆積した時代
  拡大した堆積盆に西側から、コングロ・ダイクが供給された。中部域・谷川付近に、わずかしかコングロ・ダイクがないことを考えると、供給ルートは北と南に偏っていたことが予想される。

 

(ウ)内山層上部層の堆積した時代
  内山層の堆積盆全体は縮小し、一部は極端な浅海となった。北部域の東側(例えば神封沢)では陸化(不整合)の証拠もある。この後、堆積盆全体は、元の海水域と同じ程度まで戻るが、海は深まらず、浅海性の環境を保ったまま、凝灰質の要素を強めていく。
 駒込層の分布が、内山層の北側に偏ることから、その影響はわからない。

 

内山層の堆積の様子(想像図)

 

【編集後記】

 令和4年3月6日(日)・佐久穂町の茂来館(公民館)に、松川正樹先生(東京学芸大学名誉教授)が来られ、『アンモナイトによる山中白亜系の最新研究』と題する講演をお聞きしました。

 佐久穂町地学同好会(佐々木泰久会長)の皆さんが、佐久穂町公民館の後援を得て、松川先生をお呼びしたものです。私たちも、山中地域白亜系の調査では、長年にわたりご指導いただいた先生にお会いしたくて会場に駆けつけました。

 先生は、東京学芸大学を退官された後、以前にも増して精力的に「日本各地の白亜系アンモナイトを研究され、アンモナイトによる国際的な時代区分への対比」に取り組まれているとのことでした。研究では、数ヶ月単位で海外研究もされ、多忙ですが、退官後の自由になる時間が充実できて嬉しいとのことでする。

 さて、専門的な内容については、私には概要はかろうじて理解できましたが、細かいことは難し過ぎました。佐久地域に関しては、『石堂層からは、当時のテーチス海・北極海・太平洋の3区域の化石が産出するという珍しい場所(これから古地理の推定も可)で、しかも、バレミアンとアプチアンの境(113.0Ma)を確認できる露頭が見つかった』という話は、特に印象的でした。 

 ところで、先生の佐久訪問を受けて、平田圭佑さんを思い出しました。

平田さんが大学院生の頃、松川正樹先生の門下生として、北相木層を中心に新第三紀の化石研究をされました。彼が歩いた北相木の尾根で発見した化石を案内してくれるというので、渡辺正喜氏と共に踏査しました。(目的は果たせなかったが、ウニ化石発見のエピソードは、既に他のシリーズに掲載)

 その平田さんの論文から、内山層の堆積盆に関連した話題を紹介します。

内山層の堆積した時代と、ほぼ同じ頃、形成されたと考えられている地層に、北相木層と下仁田層があります。これらの共通化石種情報や岩相の変化などから、それぞれの堆積物の供給方向がわかりました。【下図参照】

 

古地理や古水流の推定

 また、日本海の拡大メカニズムなどの研究から、内山層が堆積した時代と現代の日本列島の位地関係を比べると、約90°反時計回りに回転していると言われています。それで、堆積当時の位地との関係を下のように示しています。帯状配列の「四万十帯・秩父帯・三波川帯」の関係も、同様に回転しています。

 

 本文でも述べましたが、今日、露頭として見られる近隣の地層分布域は、もしかすると海水域が繋がっていた可能性もあります。どんな風であったのかは、想像するしかないですが、とても夢の多い話です。

 今日は、1日曇りの日でしたが、我が家に造園業者さん(庭師)が来て、松木などの植木の剪定をしてくれていますので、自宅でデスク・ワークでした。今晩から明日の午前中は雨の予報ですが、その後は晴れるので、それらを山の畑の山林に片付けることに忙しくなりそうです。(おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語-160

第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 7 混濁流説を裏付ける露頭証拠

 

7-(2) 軟着陸しているコングロ・ダイクがあった。

 

 武道沢の最初の調査(16Nov 2002)は、カラマツの枯葉を軍手で払いながら露頭を観察するような晩秋でした。詳細に捜せば、垂直貫入だけでなく、侵入角度の異なるコングロ・ダイクが見つかるはずだと思いついたら机上推理は無駄と考え、時期はずれでしたが、ひとりで沢に入ってみました。

 

武道沢890~910mASL付近のルート・マップ

 【武道沢890~910mASL付近】図は、観察した時のメモと、その後の2回の詳細な調査(1July ・28Aug 2006)の結果を加筆したものです。

 

【旧20番露頭の一部の様子】


 写真はかつて「20番露頭」と呼んでいた小滝の上、左岸側(図のC)のコングロ・ダイク露頭の一部です。覆われていたカラマツの落ち葉を払って写したものです。典型的なコングロ・ダイクと大きく違うので、不思議に思いましたが、次のように考えると、一気に解決できました。
 典型的なタイプは、層理面を横から見ているので、泥岩との境界はシャープに見えます。しかし、「20番露頭」は、層理面を上から見ているので、層理面の端となる泥岩との境目は小さな波を打ったように不規則な形になっています。

 身近なものに例えると、一枚のお煎餅(せんべい)を割った時、横から見た断面は平坦ですが、上から見ると割れ方が直線的ではなく、波を打ったように見えるのと似ているのかもしれません。

 

 詳細に調べると、その他にもコングロ・ダイクの層理面を上から見ていると思われるものが見つかりました。 図の〔I〕と〔J〕も、このタイプです。
 コングロ・ダイクの産状に注目すると、周囲の黒色頁岩など正常に堆積した地層に対して、非調和的なもの〔A・B〕タイプと、比較的調和的なもの〔C〕タイプの2類型があります。

 もうひとつ注目すべきことがあります。全体は緩やかな南傾斜なので、上流側ほど新しい時代の堆積物であることを示しています。混濁流で、コングロ・ダイクの礫層、砂岩、泥岩が運ばれ、海中で分級し、礫→砂→泥の順に堆積する過程は、この武道沢露頭では砂相が無いので、全体が泥相となります。
 しかし、未凝固堆積物→〔A・B〕タイプのコングロ・ダイク→〔C〕タイプのコングロ・ダイク→泥岩の順番になっています。もし、砂相があれば、〔C〕タイプは、砂と一緒に静かに泥相の上に軟着陸するはずです。            
 
 つまり、この武道沢露頭では、(1)〔A・B〕→〔CとC'〕、(2)〔D・E・F・G・H〕→〔IとJ〕   (cf) 〔D〕は、(1)に含めてもよいかもしれない。)  の2つの混濁流サイクルがあったと見ることもできます。

 つまり、小滝の下流側と、それより上流側が、次の堆積サイクルだったと考えられます。

 

 

7-(3) 軟着陸タイプは、分級では砂相と同レベル

 

(再掲)雨川水系・小屋たけ沢のルート・マップ

 (原文では、いきなり説明図版にしましたが、途中からの読者にはわからないと思いますので、「小屋たけ沢」の位地を示します。)

小屋たけ沢1000~1010mASLの露頭

 雨川水系の小屋たけ沢の標高1000m~1010m付近のコングロ・ダイク露頭を見ると、ふたつの堆積サイクルがあるように見えます。

 

 周囲の基盤岩は、黒色泥岩層や暗灰色細粒砂岩層で、ほぼEW・緩い北落ち(推定、5°N)です。
 ほとんど水平に近いものの、上流側ほど新しい時代の地層が堆積しています。
 コングロ・ダイク(ア・イ)→(ウ)が最初のサイクルで、コングロ・ダイク(エ・オ)→上位の砂相が、次の混濁流のサイクルになります。

 第1サイクルの砂相の位置に、軟着陸タイプのコングロ・ダイクの礫層が堆積したので、浸食に強く、小さな滝となって残っていたと思われます。

小滝となったコングロ・ダイク(ウ)【露頭C】

 

【編集後記】

 今日の午後は、激しい雷雨となって、農作業ができないので、『いつか続きの第160号を載せなくては・・・』と思っていましたが、実現できました。第159号との間には、令和4年の4月(卯月・奉燈句)と5月(皐月)の俳句が入りました。

 

 ところで、「コングロメレイト」すなわち「礫岩」にまつわり、私は、国歌「君が代」のなかの歌詞が、これまで気になっていました。

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の  いわおとなりて こけのむすまで

 それは、細石・・つまり礫や砂の粒子が、固まって・・巌・・つまり礫岩となり、そこに苔むすなどと言うのは、自然科学的に、特に地質学の観点から見た時には、まったくあり得ないからです。細石は、時間が経てば、風化・浸食して粘土鉱物にまで分解されてしまう。もし、礫が礫岩となるのなら、湖底や地下に埋没して、固結から石化し、規模には差があっても地殻変動で陸上に露頭として現れる過程がなくてはならないからでしょう。

 しかし、国歌「君が代」の歌詞の意味について、別な解釈もあることを知り、考えが大きく変わりました。

               

  【 閑 話 】   国歌「君が代」と礫岩

 国家・君が代を、文字通り現代語訳すると、「君が代は、千年も八千年も、小さな石が大きな岩になって、それに苔が生えるほどまで、長く続きますように」となる。
 これに対して、「君」が天皇だと主張して、独裁者国家の国歌だとする主張をする輩もいるが、歌詞の内容を見ても、諸外国のかなり攻撃的で、異民族(敵)排他的な国歌よりは、遙かに高級な日本国国歌だと、私は思う。最近、国歌に対する別な解釈を見つけ、さらに感動している。

 「き・み」を完璧に成長した男女と訳した。日本神話は、「いざなき」・「いざなみ」の命の「成り余る所」と「成り足らざる所」の補完によって完璧となった日本人の子孫であると、説く。時代を超えて、永遠に、《さざれ石が巌となるように》皆で協力・団結して、苔のむすまで、絆と信頼で結びついていこう・・と解釈している。実にいいと思う。
 私は、細石(さざれいし)は時間が立てば、砂や泥・粘土鉱物になるのに、なぜ巌になるのかと批判してきましたが、『礫の堆積物が、固結・石化して、礫岩へとなる』過程を、国民の協力の象徴として、国歌に読み込んだと解釈するのは、すばらしいと思います。

       最後になりますが、今日の雷雨の雨雲の動きを見ていて、『あたかも空にも川のように流れがあるのでは・・』と思いました。

 佐久市では、(6月10日)13:50俄雨に始まり、14:20雷鳴を伴う雷雨、そして、15:00には、雨雲は群馬県側に移ったようでした。

 この様子を「雨雲ズームレーダー」で見ていると、全体の雨雲は、SW―NE方向に移動していました。日本海福井県岐阜県・・・ここから長野県北部と中部に分かれます。北部は、福島県と北関東の北部へ、中部は群馬県から、栃木県・茨城県(北関東南部)への2つの流れがありました。

 なぜ? 私の推理は、北アルプスが、やや壁となって大気の流れを分けたのではないか・・・などと思っていました。(おとんとろ)

令和4年5月の俳句

    【皐月の句】

 

①  八重むぐら シャツに張り付け パリコレか
②  植え終えて 妻に感謝の 初鰹 

③  緑雨かな 雨の匂いの アスファルト 

              《5月連休とその後》

 

 長野県下では新規コロナ・ウイルス感染者が、県全体で1日・745人(4月19日)と、ピークを迎え、その後も600~500人以上の日が続いた。佐久市内でも連日感染者が出ていたが、社会経済活動を継続させながら「With Corona」という日本全体の動きの中で、5月の定例俳句会は予定通り開いた。

 今月は、孫たちが大きくなってしまえば学校も休めないだろうからと、長女が5月連休に帰省したので、そのエピソードを題材にした。また、新緑から次第に緑深まる初夏の風情を生活の中から選んで、俳句の季語を捜してみた。

 

 【俳句-①】は、草木の名前を覚えながら山道を散歩中に、「ヤエムグラ」を見つけた。群生したものを良く観察すると、茎の節ごとに細長い卵形の葉が8枚輪生している。そして、茎には下向きに細い棘(とげ)があって、洋服に着く。
孫のひとりが、それを発見して、Tシャツや体中に張り付けて遊びだした。見ると、前衛的な有名デザイナーによるファッションのように思えて、思わず仏蘭西「パリ・コレクション」かと感動してしまったことを詠んだ。同時に、子どもは自然を楽しむ方法を良く知っているなあと感心した。自分では、子どもの頃に知らなかった遊びであった。

ヤエムグラの花

 「ヤエムグラ」と言えば、百人一種の恵慶法師の和歌に、「八重むぐら 茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり」というのがある。それで、「やえむぐら」という響きは知っていたが、どんな植物かは知らなかった。
 茅葺き屋根に似合う「ノキシノブ」のようなシダ類かと連想していたが、便利なもので、散歩中に携帯電話で検索したら、八重むぐらだとわかった。完全に普段、見落としていた雑草であり、寧ろ、農作業をする時、邪魔者扱いをしていた草花である。
 その時は、花は咲いていなかったが、その後に見ると可愛い小さな花を付けることがわかった。
 それで、人々から見向きもされないような雑草が、静かに繁茂し、そこに佇む法師の秋の風情を体感した心情が少しわかってきたような気がした。
 ところで、キク科の「オナモミ」の実が服に着くので、互いに投げつけ合って遊んだことがあるが、友達の誰かか、大人の誰かが教えないと、子どもが偶然に発見することは難しい時代になるのかもしれません。

ヤエムグラの群生


 【俳句-②】は、野菜の苗を植え終えて、安堵すると共に、妻に感謝しながら初鰹(はつがつお)の夕餉をいただいたことを詠んだ。

ただ、この時期なので、多くの人は「田植え」が終わったものと解釈するかもしれないので、少し解説が必要だと思う。
 「米」という字は「八十八」と書くくらい、人が多くの手間暇をかけて稲を育ていると言われるが、中でも田植えは大仕事である。私が子どもの頃は、一家総出と「結い」と呼ばれる近所の互助で、皆で田植えをした。次第に機械植えが、主流となっていったが、今では、大型機械を使った専業農家等による委託栽培が増えて、家族による田植えは、少なくなった。我が家では何年も前から、水田は委託栽培してもらっている。だから、定年退職後に張り切って農業を始めたとは言え、自家用の野菜を栽培・収穫するに過ぎない。
 初期の頃は、急いで苗の植え付けをしては、遅霜にやられたり、防風対策が不十分で枯らしたりした経験から、
最近は連休が明けて5月も中半になってから植え付けることにした。今年は、7日から苗床作りを始め、14~15日に、妻との二人掛かりで植え付けた。
・・・と大袈裟に言うのも、春先から神経痛に悩まされていたが、2日に悪化して、左肩甲骨付近から左腕・左手が痛くて耐えられない。その中、往復3時間、120kmの整骨院で治療を受けながら農作業をしていたからだ。
折しも、9・10・11日に佐久地方で米軍戦闘機や輸送機の低空飛行訓練があり、畑にいた私は、目撃しようにも首や視線が上がらずに、音だけ聞いていた。それでも、八ヶ岳上空を3周回する大型輸送飛行機4機編隊を確認した。(10日)
 神経痛が治らない中、棚を組んだり、杭を打ったり、苗を支柱に縛ったりと、特に首を持ち上げると負担の大きい仕事を妻に手伝ってもらった。それ故の特別感謝である。
 そして、安堵と感謝の夕餉だったが、正確には、私の好きな「締め鯖」だった。
しかし、季語には無いので、「初鰹」としてみた。そう言えば、亡父は初鰹と年越しの鰤(ブリ)が好きで、この時期、何時も母にねだって買わせていたなあ。

 

植え終えてから3週間後(森上の畑)



 【俳句-③】は、今の暦の5月、良く晴れて乾燥した大地に恵みの雨が降った時、何とも表現できないが、独特な「雨の匂い」に感動して詠んだ。舗装道路のアスファルトとでは少し情緒が無いかなとも思ったが、雨粒が当たった所が黒い染みとなり、そこから匂いが湧いてくる。五感が刺激されていた。
 新緑の頃に降る雨を「緑雨(りょくう)」と言うが、この季語が好きで使いたいと思っていた。そんな折り奇しくも、昼に視聴している「ひるおび」で森 朗 気象予報士の「雨のにおい」の話を聞いた。
 雨の降り始めや、降った雨上がりの時、アンケート調査によれば、97%の人が、雨にはにおいがあると感じていて、好き(36%)・どちらでもない(44%)・嫌い(17%)と回答している。3%は、においに気づいていないと言う。
 実は、物理化学的に、雨の降り始めと雨上がりの匂いには違いがあって、学術用語がある。ぺトリコール(Petrichor)は降り始めの匂いで、石やアスファルトに付着したカビ、排気ガスを含む埃が水と混ざり、気化したもの、ギリシャ語の「石の匂い」の意味がある。
 一方、ゲオスミン(Geosmin)は雨上がりの匂いで、土中のバクテリアが作り出す有機化合物の匂いが雨水の蒸発によって強化される。語源は「大地の匂い」である。

関連した匂いとして「オゾンO3」もあると言うが、こちらは雷雨の時に経験したことがある。・・・そんな話を聞いて、俳句を作ってみた。

剪定を待つ庭木

 

 【編集後記】

 関東甲信越地方では、西日本を追い抜いて、「梅雨入り」となった。少しずつ、梅雨前線が太平洋高気圧に押されて北上してくる過程が普通のパターンだから、言わば飛び級みたいなものである。もし、このまま更に北上すれば、西日本は空梅雨で旱(ひでり)となってしまうが、気象変化は、そんな単純なものでもないようだ。

 自称「ウルトラマン」の私は、太陽光を浴びていないと調子が出てこない。まして、曇り空では気持ちが沈みのに、雨降りでは具合が悪くなる。特に、農作業や外での活動が無いと、治りかけていた神経痛が、再び出始めてきた。

 そんな健康上の理由も加わり、自分としては、『やや目標が見えなくなって、鬱っぽいなあ』と最近、感じている。

 それで、1年前の今頃は、何をしていたのかと、日記帳を出して振り返ってみることにした。

 社会面では、ミヤンマー・クーデターの4ヶ月後の様子、韓国大田の徴用工像の裁判所判決、中国公船の尖閣侵入、ウイグルや香港問題などと、コロナ禍に苦しんでいた。しかし、私は、地区のごみ拾いボランティアに参加したり、協同草刈り活動があったりと、活躍していた。そして、青梅の実を6月12日には収穫していた。

・・・今日が、6月8日だから、あと4日後かと思う。

 

青梅の実

 さらに、6月21日には、ニンニクを収穫していた。あと13日後のことである。

今年のニンニクに「さび病」が発生し、全滅してしまうかと心配しながら毎日、暗い気持ちで眺めているが、あと約2週間、ニンニクが頑張ってくれれば、いいかもしれないと希望も見えてきた。

 もっと嬉しいことに、数年前の百合の2株の、ちょうど今頃の写真を見つけた。2株が、次々と花を咲かせて行くのを、あたかも、小学生の運動会で紅白の得点争いを見ているように楽しみにしていた。(写真では、つぼみの数まで入れると、同点である。)

急に、嬉しくなってきた。 

百合の二株

 『うかうかしていられない。』この終末頃には、青梅を収穫しなければ・・・・

『ニンニクも、がんばれ』もう少しで、収穫するからな・・・

  今日の午前中も、ダンシャクイモ(ジャガイモ)の花が咲き出してこないのを心配して気落ちしていたが、元気が出てきた。・・・ただ、昨年は、この時期、まだずっと晴れの日が続いていたが。

 希望が薄れ、先が不安になった時、過去を振り返って見ることも大切なことだと感じた。そして、やはり、人は適度な運動を毎日続けていないと健康状態は保てないようだと実感する。傘を持って散歩に出かけてこよう。(おとんとろ)

令和4年4月の俳句と奉燈句

【卯月の句】

① 一枝の 山吹手折り 野良土産

②  簪(かんざし)か 豆腐に差した 山椒の芽

③  敷島の 昔の香り 山桜  《身近な山の植物・三題》

 

 令和4年になって1月・2月・3月と、月の俳句会は中止となってしまった。
 全国の新規コロナ感染者数は、554人/日(新年2日)でスタートしたが、日を追う毎に急増し、北京冬季五輪開会式の行なわれた2月4日(立春)には、10万4470人/日と、ピークを迎えた。原因は重症化は少ないものの、感染力の極めて強いオミクロン株の流行であった。
 4月の句会のあった20日でも、全国で4万人/日台と一向に減少せず、地元佐久市でも20人/日台と流行していた。しかし、倉沢薬師堂花祭りに向けて、奉燈俳句・俳額の制作という大切な恒例行事があるので、開催された。
 私の4月の俳句は、たまたま目にした「身近な山の植物」を題材にしてみようと思い、創作した。

 

 【俳句-①】は、文字通り、畑での農作業を終えて帰宅する時、美しさに感動したので、花を付けた山吹の一枝を折って、「野良土産」にしたことを詠んだ。
 昔ならのんびりとした風情だが、現代版では、山道の土手一面の山吹の群生に気づき、ブレーキをかけて、軽トラックを止める。そして、草刈り鎌で切った。帰宅後、一輪挿しに生ける時、水揚げが良いようにである。ただ、やがて枯れてしまうので、欲張らずに遠慮して一枝にした。

 ところで、山吹と言えば、戦国武将・太田道灌(どうかん)に関した有名なエピソードがある。
 狩りに出かけた道灌らは、俄雨に見舞われ、農家で蓑(みの)の借用を申し出た。対応した娘は、山吹の一枝を差し出した。(ここで、短歌を詠んだり、家臣が訳に気づいたりするパターンの話もある。)
 ずぶ濡れになって帰城し、古老から『古歌に“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき”という歌があり「実の」に「蓑」を懸けています。貧しく蓑ひとつさえ無いことを山吹の古歌に例えたのです。』と聞く。太田道潅は自らを恥じて、その後、歌道に精進したという話である。
 これは戦前の教科書に載っていたようで、年配者には良く知られた話である。実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた「常山紀談」に載っていて、庶民は好んでこの話を講談や落語で取り上げた。
 私は、古典落語の「長屋の熊さん・八さん」バージョンでの「落語の落ち」が印象深い。長屋の大家さんから山吹の古歌を聞いて「雨具を断る時の歌」と理解した熊さんの所に、雨降りの午後、友人の八さんが提灯を借りに来た。正確に再現できない古歌を披露するが、内容が理解できない八さんに対して、『お前は歌道(かどう)に暗いな』と言う。すると『そうさ、街角(かど)が暗いからさ』という落ちである。
 佐久市立中央図書館玄関脇に、賤女(しずのおんな)が道潅に山吹を掲げる像がある。周囲はヤマブキが植えられている。古典や先端の知識・学識に暗くならないように学びましょうと言う意味も込められていると聞く。

山吹(ヤマブキ)の花

 

 【俳句-②】 は、豆腐に山椒の芽(柔らかい葉)を添えて食卓に出された時、緑色をした可愛い「簪(かんざし)のように見えたので、詠んでみた。
 もっとも、私は簪の実物を見たことがない。TVドラマに登場する和服姿の町人の若い娘が結った髪に差すものとイメージしていたが、本来は簪の櫛(くし)で髪の毛を束ねて固定するものらしい。だから、私が、山椒の葉の形からイメージしたのは、簪の飾りと言うべきであったようだ。

山椒(サンショウ)の芽

 ところで、山椒(サンショウ)はミカン科・サンショウ属の落葉低木で、その葉や実は独特の香りが強く、香辛料として使われている。
 我が家でも、この俳句の食卓では山椒の葉をそのまま添えたが、多くは「山椒味噌」にしていただく。すり鉢・すりこぎで、主に葉をすりつぶして、味噌や砂糖などと混ぜる。何にも合わせられるが、やはり豆腐と良く合う。
 一方、『山椒の実は小粒でも辛い』の諺のように、優れた香辛料なので、山椒の球果を一粒ずつ集めて乾燥・保管しておいて、煮物料理などに入れると好評である。
 脱線するが、「サンショウバラ」なる日本固有種を前橋市の敷島薔薇園で見たことを思い出した。葉が山椒に良く似ていて驚いた。ちなみに、山椒の葉のような匂いは、しなくて安心した。

サンショウバラ


【俳句-③】は、芳しい匂いのする山桜を山路の帰りに採ってきて玄関に生けたが、途中からは香りが癖のある匂いで、寧ろ、気障りとなってきた。ふと、本居宣長の短歌を思い出すのと共に、昔の人々は桜と言えば、こんなにも強い匂いを嗅いでいたのかという思いがしてきて、俳句にしてみた。
 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
 本居宣長の61歳自画自賛像に賛として書かれていますが、「日本人(私)の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知って、その麗しさに感動する心です」というような意味です。私の母校の校章の謂われなので印象深い短歌でした。
 ただ、「にほふ(匂う)」が山桜の物理的臭いだと誤解していたようです。最初は芳香でしたが、癖のあるきつい香りが次第に気障りになりました。どんな美人でもどぎつい香水だと、少し気が引けてくる対応に通ずる感想です。
 同時に、今日、桜と言えば江戸時代に改良された「ソメイヨシノ」が代表株ですが、もし、山桜が日本国中に植えられていたら、その強烈な臭いで、春のお花見も盛んにならなかったろうなと思いました。美しい花弁を付ける改良種の桜が、あまり人が感じとれる程の強烈な匂いを放たないことが普及した理由ではないかとさえ思いました。
臭いは慣れると言いますが、玄関を通る度に、独特な山桜の匂いを嗅いで抜けました。

自作の俳画と「山桜(ヤマザクラ)」

 

  【倉沢薬師・奉燈俳句】  

 

 戦なき 御代を祈願す 甘茶仏   (仁科秀明)

 

令和4年度 薬師堂花祭り・奉燈俳句の額 (鐘楼の下)

 

 【奉燈俳句】は、ロシア軍のウクライナ侵攻を憂い、1日も早く戦闘が終結して、破壊されたインフラ整備や国土の復興が始まるようにと、祈願して詠んだものです。
 ちなみに、昨年度(令和3年)は 、『夏空へ 届け薬師の 鐘聖し』でした。
夏に「東京オリンピック大会・パラリンピック大会」が無事に開催できますようにと、毎日の散歩の後で薬師堂の鐘楼に登って鐘を突いては祈ったことを詠んでみました。新型コロナ・ウイルス感染防止の為に、無観客での競技開催を始め、
様々な制約はあったものの、何とか無事に大会を終了することができました。
 その前年度(令和2年)は、『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』でした。
 1964年(昭和39年)以来、56年振りとなる「東京2020」なる東京五輪大会が、丸1年延期となることが決定とながました。それで、1年経って燕が飛び交う頃には、夏に開催される五輪への期待感が高まっているだろうなという思いと願いを込めて詠んだものです。
 ですから、今年度(令和4年)の奉燈句の俳額には、今一番強く願っている、少し公的(私的なものもありますが)な内容を題材にしようと決めていました。
もちろん、漠然とした自然災害や紛争、人権侵害、飢餓の無い地球環境ですが、特にウクライナ問題が気になっていました。
 そんな視点でいたせいか、同じような思いで憂いている方は多いようで、新聞の俳壇でもいくつか拝見しました。信濃毎日新聞の「俳壇」と、家内が日曜日に購入してくる朝日新聞の「俳壇」からの掲載です。

①『葉牡丹の 崩れ戦禍の 傍観者』

 西田和彦(佐久市)《信濃毎日3/31》

②『四月馬鹿 みんなイワンの ばかとなれ』

 額田浩文(八王子市)

③『しゃぼん玉 吹く児のゑない 戦の地』

 青柳 悠(川口市)《朝日4/17》

④『戦なき 国に住む幸 花仰ぐ』

 大串若竹(八王子市)《朝日4/24》

 

 ところで、俳額の絵は、紫木蓮と観世音像です。毎年、新しい画題にしているので、悩みました。ただ、墨書は清書をしてないので、自分でも少し手を抜いてしまったと思っています。今年度は、やはり私生活でも少し大変で時間が取れませんでした。

 

【編集後記】

 今日は、5月31日(火)で皐月の晦日です。前回の「はてなブログ・佐久の地質調査物語―159」の【編集後記】でお話したような事情で、なかなかパソコンを使った作業ができませんでした。それでも、5月中に1回でも多く「はてなブログ」に載せようとがんばりました。地質の159号に続いて、160号の予定でしたが、俳句の題材には、季節感も必要かと思い、今回は『4月の俳句と倉澤薬師奉燈句』を載せました。

 ちなみに、苦しんだ左肩胛骨から左腕・指先に至る神経痛は、現在、改善されてきています。往復120km、車で3~4時間かけて通った塩尻市の吉田原整骨院さんでの治療のお陰です。先生の『必ず治りますから』は本当でした。ただし、まだ完治ではなく、姿勢が悪かったり、疲労が重なったりして、身体(骨格)のバランスが崩れると、再発の可能性がありそうです。

 これで、今季も農作業に励めるかと少しだけ安心しました。と言うのも、私は動いていると体調が良くなっていく方ですが、今年は春先からだんだん身体に無理が利かなくなってくるのを自覚するようになりました。やはり、老化ですかね。それでも、作物栽培は楽しいので、がんばろうと思います。

 そんな折り、自家用に栽培しているニンニク300株の一部に「さび病」が発生したようです。インターネット情報で、原因や対策は調べましたが、どうしても農薬は使いたくない気持ちもあり、悩んでいます。家内は、農薬をお店へ捜しに行ったようです。

なにしろ、クロニンニクに加工して食べている健康食品の原材料ですから、必死です。 

ニンニクの「さび病

 さらに、アスパラガスの害虫「ジュウシホシ・クビナガ・ハムシ」の被害もあります。5年間ほどしっかり収穫でき、年々作付けを増やしてきましたが、害虫が発生した翌年からは収穫できなくなりました。昨年は10本ほど、今年は0本です。今も、害虫を見つけますが、減っています。彼らが餌が無くなり死に絶えるのを待っています。

 それで、今、温室で育てている苗を、秋に違う畑へ定植しようと計画しています。

 害虫対策は、ジャガイモなら、葉に付いたテントウムシを、毎日、点検しては手でつぶしてきました。今日は、2匹だけになりました。ところが、ハムシの方は、飛んで行ったり、土の中で越冬したりするようなので、やっかいです。それでも、無農薬へのこだわりがあって、なかなか害虫駆除に踏み出せません。

 明日から6月。毎年、6月を迎えてから「オクラ」の種蒔きをします。今季の夏野菜は、どんなふうになるか、心配しつ、楽しい収穫に期待しています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-159

  第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 

7.混濁流説を裏付ける露頭証拠

 

7-(1) 混濁流で運ばれた礫、砂、泥が海水中で、分級される。

 下の【写真】は、ホド窪沢の標高915m付近の滝を、下流側から写したものです。
コングロ・ダイクが滝のこぼれ口になって、流路の左岸側が、コングロ・ダイクと泥岩との境で、きれいな直線になっていることを示しています。写真を撮った動機は、コングロ・ダイクと滝の様子を紹介するぐらいの目的でした。しかし、この露頭が、重大な意味をもっていることに、資料を整理している時に気づきました。

ホド窪沢の滝露頭:直線に見える部分は、コングロダイクと泥岩層の境目

滝露頭付近の説明図

 

 滝を構成するのは暗灰色中粒砂岩層で、火山灰を含んでいます。滝の下は、粗粒砂岩です。滝の下流側は、全体が均質な黒色泥岩層のため、正確な走向・傾斜はわかりません。そこで、少し下流の凝灰岩層を挟む黒色泥岩層との境での値、N30°E・6°SEを採用してみます。

 コングロ・ダイクの走向・傾斜は、N5°W・ほぼ垂直で、層厚20cm×長さ17mほどの礫岩層は、滝のすぐ上で途切れてしまいます。

 しかし、露頭の無い部分があって、少し上流で、再び現れます。

川が曲がるのに呼応するように多少向きを変え、N10°Eの走向と垂直状態が続き、同じ層厚20cm×長さ15mほどの分布しています。やはり、下流側は黒色泥岩層で、上流側の一部は暗灰色中粒砂岩層です。砂岩層が小規模なので、落差の小さな滝となりますが、【写真】の露頭と同じパターンの産状が繰り返されます。そして、標高は920m地点となります。 

                *  *  *

 

 今まで見てきたコングロ・ダイクの多くは、周囲を黒色泥岩層か黒色頁岩層で覆われていました。しかし、この露頭では、滝を作っている砂岩層にも覆われています。こうなると、礫岩層の貫入のドラマは、もう少し複雑になりそうです。

 この付近では、全体の地層は緩やかな南傾斜なので、沢の上流側、すなわち南側が新しい時代の地層です。この時、コングロ・ダイクの礫岩と砂岩、泥岩は、別々に堆積したものではなく、一回の混濁流で同時に運ばれた後、海水中で分級されたと考えると、うまく説明できるのではないかというアイディアを思いつきました。

 次の二つの可能性があります。

(ⅰ)コングロ・ダイクの二回の貫入があった。

  《①/②③④+⑤/(⑤)→⑥⑦》

 混濁流で運ばれてきたコングロ・ダイク②と砂岩③と泥岩⑤は、海水中で分級され、
未凝固泥堆積物①に、まずコングロ・ダイク②が重力貫入します。続いて砂岩③、泥岩⑤(露頭のない④も泥岩と考え)の順番で堆積しました。これが一回目のサイクルです。

 2回目は、泥岩⑤がまだ未凝固状態の時に、次の混濁流による礫岩⑥・砂岩⑦・泥岩(露頭は見られないが、砂岩⑦の上位)が、同様にして分級し堆積しました。

 

(ⅱ)コングロ・ダイクは、折れてしまった。

 《①/(②+⑥)③⑤/⑦・・④の事件》

 混濁流で運ばれてきた礫・砂・泥は、海水中で分級されます。そして、未凝固堆積
物・泥岩①に、まずコングロ・ダイク(②+⑥)が貫入します。

続いて、砂岩③、泥岩⑤の順番で堆積しました。この時、コングロ・ダイクの一部は、海底の泥⑤から突き出ていました。
 一連の混濁流による堆積の後、別に砂岩⑦が堆積しました。露頭のない部分④は、
小さな断層のような事件です。本来、連続していたコングロ・ダイクは、④の事件により、折れてしまいました。

 

 可能性としては、どちらも考えられますが、(ⅱ)の場合は、コングロ・ダイクの礫層の長さは、32m以上(17m+15m) の長大なものになります。また、礫岩層は、分級されて後から堆積してきた砂や泥で覆い尽くされることなく、次の砂岩層で覆われるまで、海底から尖塔のように顔を覗かせていたことになります。(後述しますが、こういう場合を示す露頭の可能性もありそうです。)
  ホド窪沢の露頭の場合、どちらかと言うと、(ⅰ)のアイディアの方が自然な感じです。

 また、(ⅰ)のアイディアによれば、釜の沢左股沢林道の大型コングロ・ダイク露頭の産状をうまく説明してくれると思います。
 まず、林道の最下部には、2度の混濁流による黒色泥岩層と灰色砂岩層のコンビがあります。これらが未凝固の時に、混濁流でコングロ・ダイクの礫岩と砂岩と黒色泥岩が運ばれてきました。海中で分級し、コングロ・ダイクの礫岩層は、未凝固堆積物の中に貫入します。同時に、周囲に砂岩層が堆積します。しばらくあって、黒色泥岩層が、「ふた」のように堆積して、全体を覆いました。コングロ・ダイクの礫層は、外に露出しなかったと思われます。

 

 ただ、説明した産状のいずれの場合も、コングロ・ダイクの礫岩層だけが異常に固結が進んでいて、破壊された形跡はありません。そして、周囲を覆っている砂や泥は、内山層プロパーとして正常に堆積しています。砂と泥は、混濁流の流れくだる斜面に堆積していた未凝固堆積物であったのだろうという考えを採用してのことですが、特異な現象です。
 自分でも、都合のいい所だけ選んでいるのではないかという気持ちになります。

 

【編集後記】

  前回の「佐久の地質調査物語-158号」から、実に33日目になります。一ヶ月以上、「はてなブログ」に話題を載せることができないまま、時が過ぎていました。

 これには多少、弁解する余地があります。

 ひとつは、昨年の大晦日に救急搬送された母が、「介護度4」の認定を受けて、4月12日に「老人健康施設」に入所しました。介護老人福祉施設特別養護老人ホーム)への待機状態です。数日おきに見舞い(コロナ禍の為、面会はできません)に行くことになりました。

 ふたつ目は、5月連休に開催される倉澤薬師堂の花祭りに奉納する俳句の額(俳画と墨書した俳句)の準備に追われました。慣れてきて墨書も失敗することなく書けたので、清書はしませんでした。明らかに昨年より下手でしたが、『素人らしくていい』と割り切りました。加えて、俳画もスケッチ風で一日で完成しました。結果的には、やや手抜きになったかもしれません。それでも、楽しみですが、ストレスの多い日々を過ごすことになりました。

 そして、みっつ目は、孫らが帰省してきたことです。4月29日(祝日・昭和の日)からの 連休に(Golden Week)、連日、自然体験活動をさせました。その為、農作業を先行させて大変でした。ポットに野菜の種蒔きをして、温室保管する作業もあります。代表的な「キュウリ・トマト・ナスなど」は、種苗の専門店から購入しますが、その他のものは、種から育てています。

 加えて、一番の原因になったのは、「神経痛」です。

 昨年の秋以来、断続的に痛さを堪えてきて、痛くても我慢して散歩すれば回復するので放置しておいた「肩胛骨から腕・指先への痛み・しびれ」が、5月2日に、突然悪化しました。『頸椎の五番目が変形して、神経を圧迫している為』との診断で、治療を受けていますが、連日、激しい苦痛に耐えながら、それでも畑の準備や草刈りをしています。骨の位地が多少ずれているだけで、損傷している訳ではないので、痛いのを我慢して動かしていると、痛さが和らいでくる場合もあります。

 『直りますよ』という医師の話ですが、『もし、このままの痛さが続くのなら、長生きはしたくない』と真面目に思うほどの痛さが続いています。 

  

虚空蔵山のろし台から、人文字を写す

ウワミズザクラ

多福寺の石仏

 

 

 孫たちとの「虚空蔵山から多福寺」のハイキングで、軽いけれどもリュックサックを背負ってあるいたことが、神経痛の悪化のきっかけになったかもしれない。一日も早い回復を願っています。 (おとんとろ)

 

 

 

佐久の地質調査物語-158

  第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 

6.混濁流( turbidity current )による運搬と重力落下説

 

 大きな重量のある物体が運搬されるには、物体自身の重力が、運搬の営力になれば良い。すなわち、重力落下である。
 また、板状の物体が途中で破壊されずに、しかも、貫入時の衝撃が和らげられるためには、水(海水)のような存在があればいい。浮力や水の抵抗で、物体はゆっくりと落下していくだろう。そして、境界面がシャープのまま、無理なく貫入できるためには、海底は未凝固の堆積物であった方がいいだろう。

 一方、礫種にチャート礫を含まない礫岩層が堆積する為には、堆積物を供給した後背地にチャートが無いことであるが、それば、堆積盆に近く、狭い範囲からの特別な供給を想定しなければならないだろう。

 つまり、内山層の堆積盆とあまり離れていない所で、チャート礫を含まない堆積物による一次または二次堆積があって、ある程度、固結していたコングロ・ダイクの礫岩層は、大規模な海底地滑りを起こすような混濁流によって、海水中に投げ出され、浮力や水の抵抗を受けながら、静かに海中を落下し、最後は未凝固の泥質堆積物の中に、重力貫入したのではないかというアイディアが浮かんできました。

 このアイディアは、内山層の堆積輪廻からも都合がいいです。内山層は、大まかに2つのステージがあります。基底礫岩層群に始まり、次第に深まる海に堆積物をためた内山層下部(中部を含む)の時代、そして、急速に海退が進む短い時期をはさみ、再び海が深まり、堆積物をためた内山層上部の時代です。(ちなみに、内山層の上部では、岩相の違いから堆積環境の分化が進んだことが予想されます。)

 コングロ・ダイクを含む内山層の堆積した時期は、安定した泥相が発達しているので、当時の海は最も深まり、堆積盆が最も拡大したと考えられます。そうなると、あまり離れていなかった場所に、一次または二次堆積していたコングロ・ダイクの礫岩層は、内山層プロパーの堆積盆とつながり、共通の堆積盆に組み込まれました。そして、海進と海の深化に連動して、堆積盆の端(大陸棚)で発生した混濁流によって、コングロ・ダイクの礫岩層は、海底に運ばれたのではないかと、説明できるからです。

 

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コングロ・ダイク「混濁流説」

 このアイディアを思いついた時、私は身震いするほど感激しましたが、落ち着いて考えてみると、次のような疑問が出てきました。

 

①なぜ、コングロ・ダイクの礫岩層だけ、異常に固結が進んでいるのか?
 

②混濁流によって一緒に運ばれた砂や泥は、どこに行ってしまったのか?

 ③コングロ・ダイクの礫岩層の中で、破壊されたものは無いのか?

 ④未凝固の泥堆積物に貫入したとしても、すべて垂直に突き刺さるものなのか?

 ⑤コングロ・ダイクの貫入は、何回ぐらいあったのか?

 

 第①の疑問:一次または二次堆積場所に堆積したのはコングロ・ダイクの礫岩層だけなのかという意味と、どうして礫岩の固結が進んでいるのかという、二つの意味があります。
 礫岩層の固結が進むには、上位に載った堆積物の荷重圧が必要です。しかし、礫岩層が固結するぐらいなら、上位の堆積物(仮に砂や泥)もある程度は固まっていたはずです。ところが、非調和的構造はコングロ・ダイクの礫岩だけなので、一次堆積場所で堆積していたのは礫岩層だけだった可能性があります。もうひとつの可能性は、礫岩層だけが少し前の時代の地層であり、他の砂や泥の層より固結が進んでいたという状況です。さらに、やや不自然ではありますが、礫岩は短期間で固結が進みやすい性質があるという、3つの可能性です。
 かつて私は、蛇紋岩地帯の川底に、現世の蛇紋岩の礫岩ができているのを見つけて驚いたことがあります。本来、風化・浸食に弱いはずの蛇紋岩ですが、崩れて落ちた蛇紋岩片が、何らかの膠着物質によって短時間で固まったのでしょう。蛇紋岩の礫岩だと勘違いしました。コングロ・ダイクの礫岩についての情報を、もっと集める必要があります。

 第②の疑問:仮に①の状況で、コングロ・ダイクの礫岩層だけが陸域に近い所にあったとしても、混濁流によって礫岩層が運ばれたのであれば、流れ下る大陸棚斜面に堆積していた砂や泥も、一緒に巻き込まれ、海底に到達していたはずです。だから、アイディアが正しいとすれば、それらの堆積物がコングロ・ダイクの周辺に見られるはずです。

 

 第③の疑問:「第Ⅱ章コングロ・ダイクとは」の項で述べたように、小規模なコングロ・ダイクは、大規模なものが破壊されたり、一部が剥がれたりしたものだと推理します。もし、アイディアが正しいとすれば、露頭の周囲に破壊された証拠があるはずです。 
(後述しますが、小規模コングロ・ダイクの中には、大規模なものが割れて小さくなったという理由では、とうてい説明しにくく、成因すら理解できない事例もあります。)

 

 第④の疑問:日常生活の中でも経験することですが、プラスチック製の直定規を水に落とした時、水中をゆらゆら揺れながら落下していき、様々な侵入角度で底に達します。力学的に必然であっても、最初の落とし方や定規の侵入角度などの偶然があります。かなり長い距離を落下(沈下)させれば、水の抵抗を一番受けにくい向きとなり、最後は垂直に近い角度で水底に到達することは、容易に理解できます。
 だから、コングロ・ダイクの産状でも、急角度で泥岩に貫入しているのだと思います。しかし、自然現象として、多様な沈下条件があるはずです。アイディアが正しいとすれば、コングロ・ダイクの中には、垂直に貫入しないで、あたかも不時着したように層理面と調和的に軟着陸したものも発見できるはずです。  

 

 第⑤の疑問:コングロ・ダイクが「鍵層」として利用できるかどうかの、最も基本的な問題です。混濁流の発生が、比較的、限られた期間とすれば、火山灰や凝灰岩層が鍵層となるように、ある程度は同時性を示す可能性はあります。これには、層序とともに分布範囲も関係付けて考えないといけない、難しい問題かもしれません。

 

 ☆疑問に対して、「太い文字とした部分」の内容は、営力を混濁流に求めたアイディアの正しさを証明するには、必要不可欠なことです。はたして、そんな証拠はあるのだでしょうか。
(「コングロ・ダイクが、内山層だけでなく、他の時代でも見られる現象である」という点は、大きな話題ですが、取り敢えず話を先に進めることにします。)

 

 編集後記

 コングロ・ダイクの成因として、いくつかの可能性を考えてきましたが、一応、「混濁流説」で進めてみようと考えました。本文では、これから証拠集めをするような表現となっていますが、そこは少し違い、『実際のフィールドでの証拠(説明し難い現象)』のことが頭に引っかかっていました。

 特に、春先の2階自室から、隣家の屋根瓦の上を残雪のザラメ雪の塊が滑り落ちる様を見た時、『コングロ・ダイクの礫層も、全体が一気に全層雪崩のように落ちて行ったのではなく、全体の中から隔離された部分が、落下して行ったのではないか? はたまた、落下の途中で、適度な大きさの塊に割れたのではないか?』と、想像していました。正確には、いつの年の春(春休みか、春の週休日か)のことかは、覚えていませんが、降ったばかりの淡雪が、その日の日中には解けて、瓦の上を滑り落ちていました。

 

 

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千曲川の河床(佐久市・御影橋付近の巨大岩塊)

 ところで、上の写真は、佐久地方の水鳥飛来地として知られる東京電力杉の木貯水池(佐久市のさくら咲く小径の北側)近くの御影橋での河床の様子です。千曲川の河床に巨大な岩塊が転がっています。上流の小海町付近なら、良く見られる光景ですが、佐久平に入って少しだけなだらか(?)になった所では、従来あまり見られませんでした。

 原因は、2019年(令和元年)秋の台風19号による大洪水で、多量の土砂と共に上流部から流されて来て、堆積したものです。翌、2020年から、更なる護岸工事と、土砂を片付けて、河川敷は大部すっきりとしました。
 

 方丈記(鴨 長明)の一節 「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

ではありませんが、佐久の地を流れる水は、絶えず流れ下り、さの先は新潟の日本海へと達します。同時に、泥や砂礫も少しずつは流水によって運搬されていくはずですが、私たちの目にしてわかるような大移動は、やはり台風によるような大水の時に、一気に進むのでしょう。

 混濁流も、連続した現象ではなく、ある程度まとまった時期に、一気に雪崩落ちるのかもしれません。

 話は脱線しますが、長野県では、台風19号で中小河川で氾濫が相次いだことから、「水防法」では作成が義務付けられていない県内321の河川でも、浸水想定区域図を作成しました。大雨の想定は、台風19号の規模(500mm~/24時間)を遙かに超える「24時間で821mm」の降雨量のようです。

 また、千曲川本流に対する「遊水池」の設置や、私たちの住む近くの洞源湖でも土砂の取り除き工事が、現在、行われています。

 実際、「千年に一度」という自然災害が、私の一生どころか、ごくごく最近の数年間の中で起きています。もちろん、進行中の「ロシア軍によるウクライナ侵攻(侵略)」もです。毎日が歴史的な瞬間を生きていると思うことしきりです。(おとんとろ)