北海道での青春

紀行文を載せる予定

北海道と本州

 7月22日の朝は、快晴だった。白い下弦の月が青空の中に残っているが、それ以外は青そのものである。K氏の「かぜ」も良くなったようで、天気のような一日でありたいものだと思った。
 テン場(テント設営場所)をきれいに片付けて、水の無くなりつつある沢を登る。最後は、朝露のチシマザサをかき分け、約250mの標高差を一気に登り詰めた。稜線に出た所で、荷物を置き(デポ)、硫黄山にアタックをかける。ピークは見えないものの、ここから標高差で100mもない。
 硫黄山(1562mASL)は、知床火山群の中で、最近まで噴火活動していた火山である。全国各地にある硫黄岳と名付けられた山と同様に、山肌の一部に硫黄が見られ、風向きによっては硫化水素(H2S)の臭いがする。山体の北側が大きくえぐられ、馬蹄形に開いた地形は、水蒸気爆発をして山体が崩壊した跡である。岩屑(がんさい)雪崩が西側の山麓で起こり、知床五湖の台地の起源になっている。現在のピークは、馬蹄の西端に当たり、断崖がみごとである。眼下に、溶岩流や火砕流堆積物を浸食したウブシノッタ川が谷を深く刻み、その先は、湧き上がる雲の中へと続いていた。地形図によれば、オホーツク海まで、まっすぐに延びているはずである。 

 この沢の水は、硫黄成分が含まれていて飲めない。水道施設のない番屋で、沢水を長年に渡って飲料水や炊事用に使い、何人か病気になったという話を、医学部生のK氏から聞いた。K氏もまた、人から聞いた話なので、この沢のことなのか、その真偽の程は確かではない。
 そう言えば、「知床の沢水は、あまり飲まない方がいい」と聞いた。利尻島と知床では、「エキノコックス(echinocokus)」というキタキツネなどを中間宿主とする寄生虫がいるという。その卵がヒトの体内に入ると、内臓、主に肝臓へ寄生して病気を引き起こすらしい。赤ちゃんが発病したという症例もあるようだが、多くは7~8年の潜伏期間があるらしい。『もし、生水を飲むなら、煮沸した後で飲むように・・』とK氏は言う。そんな話を真に受けて、網走駅から、トイレの水道水をポリタンクに入れて持ってきたが、飲み終えてしまった。既に、イダシュベツ川の生水を飲んでいる。K氏自身も同様なので安心である。それに、飲みたい水の為に、煮沸した沢水が冷えるまで待ってから飲むほど、誰しも我慢強くない。知床での良い思い出ができたのだから、将来、もし、エキノコックス感染症が発症しても、それは運命と思って諦めようと、私は思った。吸い続けている煙草が止められない理由と、あまり大きく変わらない。

 デポ地点に戻り、稜線を羅臼岳に向かって進んだ。
 知円別岳・南岳・オッカバケ・サシルイ・三ツ峰と、なだらかな起伏の峰々を越えて行く。稜線は、ハイマツ帯の中に登山道が付いていたので、いたって気楽だ。鞍部の湿地には、高山植物も見られる。見晴らしの利く場所で、風に吹かれて休むのは気分爽快である。

 これまでの道程を振り返ってみたり、尾根や沢筋の延びている様子を地形図と照らし合わせて眺望したりするのも一興である。所々に雪渓が残り、白さがまぶしい。暑さを忘れさせてくれる光景だった

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 「オッカバケ」という山の名前は、アイヌ語に由来すると思うが、どういう意味なのだろうか。比較的、左右対称なピークがあり、少し痩せた女性の、やや尖った乳房を連想してしまう。品のあるアイヌの人々は、トットヌプリ(お乳山)などとは考えなかったのだろうか。気になって調べてみると、「オ・チカブ・バケ」(烏のいる岩)の意味が語源で、それが変化したという解釈があるようだ。
 こちらも火山活動によって形成されたふたつの山が、浸食作用で、やや右のピークの方が削剥されているが、みごとな造形美を成している。そして、ふたつの胸のふくらみの間から、めざす羅臼岳が見えていた。

 稜線では、3パーティーと出会った。山で出会うと、大概は山行ルートや目的地までの所要時間などを聞き合うのが、相場である。それで、ひとつのパーティーは、本州から来た大学生であることや、知床岳方面へ縦走する予定だということがわかった。
 しかし、「あの大きなリュックの中に、何が入っているんだろう?」と、いつも疑問に思うが、まだ聞いてみたことはない。私たちのリュックは、夏山だと15kg重程度であり、冬山でもスキーやピッケルを除けば、せいぜい25kg重ぐらいであるのに、彼らの荷物は、夏なのに、それ以上に見える。
 実際、彼らの装備はすばらしい。夏用テントなのにフレーム入りで、屋根付きである。雨天時のテントサイトで排水溝を掘るスコップも持参している。私たちは、粗末なテントの支柱を支えるメインロープ用ペグ4本と予備1本だけを持ち、他はわざと置いてきている。木の枝や石で代用できるからだ。雨が降っても雨水が浸入しない場所を選ぶ方が先決だし、濡れたらそれも仕方ない。スコップ持参は、じゃまな上に、高山植物でも盗掘したかと思われるのが落ちである。
 沢の最終水場から、炊事用水と飲料水を合わせ、一人が2リットルもあれば十分だろう。それなのに、彼らは汗をかきながら、多量の水を運んできている。2リットル容器が両側のポケットに入っているらしかった。早朝に出会った、お揃いのユニフォームを着たパーティーでは、歯磨きをしていた。(私たちには驚きだった。)とにかく様々な持ち物が大量に詰め込まれているらしい。

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 ところで、私は、山行の装備や軽量化の程度について、彼らとの比較を述べたに過ぎないが、ふと、「俺も、北海道人になったかな?」と思った。それは、東京や本州から来たと聞いて、何か心に引っ掛かるものがあるからである。
 マスコミが広めた言葉に、『カニ族』という表現があった。横幅が広い大きなリュックサックを背負い、北海道の各地を旅して歩く若者などのことを指す。横ばいをするわけではないが、リュックが甲羅で、そこから手足が出ているカニ(蟹)のように見えるので、そんな表現が生まれた。
 ついでに、横長なリュック(キスリング)を『カニザック』と呼ぶ部員もいた。私たちは、ブッシュ漕ぎに好都合な、ポケットなどの突起物がいっさい無くて、肩幅で収まるような通称「日高ザック」を愛用していた。
 「カニ族」・「カニザック」・・・・私は、この言葉が嫌いだった。
 この言葉には、北海道の人々の複雑な心が見え隠れしていると、私は感じていたからだ。この言葉の背景の一面には、本州の人々が憧れる北の大地・北海道に住んでいることへの自負心がある。しかし、芸術や文化、流行から遅れた僻地に住んでいるという負い目があることも、見逃せない。さらに、北海道という地理的位置や歴史的背景も加わり、問題を複雑化させている。北海道の人々の相反する気持ちに言及すると、私は長野県(東京という都会から見た信州)で生まれ育ったので、その共通する心理がわかるような気がする。
 四季を通じ長野県内には、東京方面から観光客や都会の雰囲気を漂わせた人々がやって来て、『いい所にお住まいですね』と言う。そんな言葉を聞いて嬉しいが、相手の垢抜けた身なりや、もの珍しい話などと接すると、やや肩身の狭い思いをしたものだ。
 例えば、「ジャンケン」ひとつにしても、引け目を感じた。私たちは、「チョキ」を親指と人指し指で鉄砲のようにして作ったのに対して、東京から来た子は、人指し指と中指を使い、Vの字(ピースサイン)のようにして出す。私は、「チョキ」を出すのが恥ずかしと感じた。特に、「パー(紙)」を出して、鉄砲型ではないV字型の「チョキ(はさみ)」で負けた時は、紙が本当に、はさみで切られるようで、完敗した思いだった。
 これは、私の子どもの頃の昔話に過ぎないが、類似した感覚は、もう少し後の時代まで続いていた。都会と田舎が反対語のようにして使われ、そこに住む人々の価値観までもが違うような雰囲気が、まだ残っていた時代だ。
 しかし、北海道では道都・札幌市でも、「都会を強く意識する感覚」が、形や度合いを変えて、私たちの学生時代(少なくとも昭和50年代前半)には、まだ残っていた。
 私は、仲間と連れだって薄野にあるディスコ・クラブに出かけた。そこで知り合って、話をした女子大生(高校生もいた)が、『どこ、東京の人?』と聞くので、私が『どうして、そう思うのですか?』と聞き返した。
 『だってサ、しゃべり方が違ウッショ』と彼女が言う。私は長野県出身だと説明するが、彼女は長野県がどこにあるのか知らなかった。地理の教科が苦手だったかもしれないが、道産子の彼女には、北海道と本州(四国・九州も含め)という大分類はあっても、細かな県の位置関係までの関心がなかった。ある意味、本州の代名詞が東京であったかもしれない。そう言えば、新入生の頃、私が北12条の民家に下宿した家主のおばあさんは、「内地(ないち)」という言葉をよく口にしていた。戦前の満州や朝鮮・台湾に対する日本本土のことではなく、北海道に対する本州の意味が、内地なのであった。
 もうひとつ札幌駅での強烈な思い出がある。帰省した後、私は特急列車で札幌に帰って来た。片手に旅行鞄を、もう一方に、洒落たデザインの紙袋を下げていた。地下鉄の乗車券を買おうと、紙袋を足下に置いた時、男子高校生らしい二人が通りがかり、私の紙袋の中身を覗いて言った。『なあんだ、ゴミを持って旅行しているのかよ』と。持ってきた野沢菜漬けと山行用衣料を包んだ新聞紙の上に、途中で食べた駅弁とお茶の空容器が、車内のゴミ箱には捨てなかったので入っていた。彼らの言うゴミには違いないが、私流の良識あるゴミ処理美学である。
 私は、失礼な若者の言動に一旦は憤慨したが、ある意味、男子高校生の言動は、当時の北海道の世情を物語っていたのかも知れないと思った。

 浪人生活をした東京では、奇抜な格好の人か、素敵な異性でもない限り、道行く人にほとんど関心を払わないのが普通だ。増して、意識的に人の持ち物を覗き込むようなことは滅多にしない。しかし、当時の札幌は、見かけは100万都市の姿をしていたが、そこに住む人々は、都会感覚ではなかった。田舎ではありがちな、おせっかいにも不審車を興味深く覗き込む感覚と似かよっている。それは安全感覚と言うより、人への興味があって、反面で、自分がどう見られているかを気にする自信のなさの裏返しでもあった。
 「カニ族カニザック」という少し侮蔑の意味を込めた言葉には、少なくとも北海道が本州とは違うという宣言があった。自分たちのしていることは、本州(東京)からやって来た都会的な雰囲気の人々とは違うという、北海道としての誇りと、同時に田舎人として自信のない実体をカムフラージュする自己主張であったような気もする。私たち自身も皆、数年前までは北海道とは別な都府県の住民であったことを忘れている。

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 さて、本州からのもうひとつのパーティーは、途中で追い抜いた。彼らとは、歩行速度が違った。私たちの倍近い荷物を背負っているのだから、仕方がない。しかも、普通の山行荷物に加え、高級カメラや写真機材を入れた丈夫なアルミ製容器を携えていた。
 このパーティーは、知床半島での写真撮影を目的に、動植物の姿や、海から昇り海に沈む太陽の織りなす風景を写したり、星空の天体撮影をしたりしているらしい。私たちが地元の大学生だと知って、『ヒグマの写真が撮れればいいなあと思っているんですが、いますかねえ』と聞いてきた。そんな馬鹿なことを考えている人たちとは、お友達にならない方が良さそうである。挨拶をして別れた。

 稜線の夏道歩きでは、下級生でも差がない。「ラウス平」からの約360mの登りも快調にとばし、知床最高峰・羅臼岳(1660.7mASL)の頂上に立った。しかし、登りの途中から雲行きがあやしくなり、オホーツク海と太平洋の両方を眺められるかもしれないという期待は、みごとに裏切られてしまった。
 第1日目の遅れを取り戻そうと、かなりとばしたことや、視界が悪くなってきたことも原因してか、羅臼岳からの単調な下り道では、どっと疲れが出た。

 しかし、雨の降り出す前に、テント設営場所を決めなければならない。南西の鞍部に向かって落ちるように延びている約900mの標高差を、一気に惰性でかけ降り、測量工事中の知床横断道路に出た。
 この頃から、小雨が降り出した。午後4時のラジオ気象通報の時刻は既に回っているが、どんよりと垂れ込んだ雨雲は、時間感覚を狂わせる。知床には珍しい道案内表示板のあるハイキング道路が付いていて快適なはずなのだが、雨の降る森の中の道は夜道のようで、重苦しい雰囲気が漂っていた。羅臼湖へ向かい道路から少し離れた所で、雨脚が突然激しくなって、急いでテントを張った。めざしていた羅臼湖畔を目前に、ここが3泊目のテン場となった。(C-3)

 

 【編集後記】今回の「オッカバケから羅臼岳」の写真も、海水の入ったカメラで撮影したものなのでお粗末ですみません。今や北海道は、海外の方にも人気スポットで、ニセコスキー場界隈の様子をはじめ、道内各地での土地取得や開発など、住む人々の気質も変わってきていると思います。でも、当時の札幌の人は、道産子でない人を「内地」の人と見ていました。