北海道での青春

紀行文を載せる予定

羅臼湖と知床横断道路

 朝、起きると、霧雨が降っていた。昨晩、眠い目をこすりながらラジオの気象通報を聞いて天気図を作成したところ、午後から天気が回復するのは明らかであるが、私たちは、雨具を着て歩くという習慣は、ほとんどない。すぐに、「停滞」を決め込んでしまった。
 雨降りや吹雪の日には、テントの中で停滞する。何度も経験したが、それなりに有意義で、思い出深いものがあった。疲れがとれるまで寝ていたり、それに飽きるとトランプに興じたり、パーティーの構成メンバーによっては難しい議論をしたりして、時間をつぶす。ただ、山行を通じて胃袋の拡大した若者にとって辛いのは、停滞の日は1日2食しかないことである。しかし、「働かざる者、食うべからず!」ではないが、所持する食料を節約する意味に加え、胃腸を休ませる効果もあった。
 

f:id:otontoro:20200325103811j:plain

 小鳥のさえずりが聞こえ、雨が上がったのは、シュラフ(寝袋)の中にいてもわかる。
もう十分眠ったし、寧ろ空腹に耐えられずに、起きることにした。天幕の半分をまくり上げ、湿っているものを干しながら、ブランチを楽しんだ。
 晴れ上がった午後には、テントサイトを500mほど移動させ、羅臼湖の湖畔にテントを張り替えた。ここで、4泊目を過ごすことになるが、夕食までは特にすることがない。様々な方法で、羅臼湖の自然を楽しんだ。
 まず、羅臼湖の水源を探してみようと思う。地形図によると、ふたつの沢が合流し、北西から流れ込んでいるはずだ。湖畔に沿って上流側に歩き、湖の上流部を横切って、湖に流れ込んでいる川に到達した。予想していたよりも水量があり、中州ができるほど川幅も広い。中州の砂の上で、高校時代にラグビーをしていたというY君が、トライの真似をしたことから、K氏の提案で、スクラムの真似事を始めた。相手が少ないので、いつの間にか相撲になっていた。
 ここで、大相撲「羅臼湖場所」が開催されることになる。
 トーナメント戦の始まりは、言い出しっぺのK氏とY君の取組みからである。見合った後、ふたりがぶつかると、そのまま土俵線まで一気に押し込まれ、『やめ。勝負にならんわ』と、あっさりとY君に降参してしまうK氏であった。
 第2戦と第3戦は、それぞれ体格的には五分五分の取組みである。NさんとK君の勝負では、上手投げの連続であったが、Nさんに軍配が上がった。1年生同士のH君とT君の相撲では、最初から闘志むき出しの激しい攻防で、観戦者の方が興奮してしまう。あっさりと敗退したK氏が、行司役となって差配をしていたが、水入りを宣言する。ふたりの息が整ったところで再開された名勝負は、T君の土俵際でのうっちゃりで、ようやく勝負がついた。
 続いて、2回戦の取組みである。まず、NさんがY君と対戦するが、K氏と同様にはかなく押し切られる。Y君が勝ち名乗りを上げた。
 次は、名勝負を経て勝ち上がってきたT君に対して私の対戦になるが、体格的に差があり過ぎ、30kg重近い体重差では、ファイトマンのT君でも、どうしようもなかった。

 そして、いよいよ決勝戦は、Y君と私の 取組みである。中州の砂で、塩撒きをしたり、四股を踏んだり、仕切りをしたりして、大相撲の雰囲気を出す。ギャラリーも、すっかり乗ってきた。
 『まったなし。はっけ、よい、のこった!』
 行司K氏の仕切り直後、Y君の激しいぶつかりを受けた私は、K氏やNさんの悲鳴を上げた意味がわかった。体重は私と同じくらいでも、長身で瞬発力のあるY君の突進は、受け止めるだけで精一杯である。「ラガー」としての実力は本物で、Y君はさぞやチームで活躍したひとりだと思う。相撲を取りながら、私は、そんな趣旨のことを語りかけた。Y君は、すっかり有頂天になり、押し切ろうと更に力を入れてきた。そこを透かさず回り込みながら引き落とし、羅臼湖場所の優勝が決まった。先輩ならではの余裕戦だったが、まともに取れば、明らかにY君の勝ちだったろう。

 相撲の後は、湖底を探検した。湖の上流側は、足元まで透けて見えるほど澄んでいて、泥の堆積層はなかった。つまり、この湖は古い時代からのものでないことと、流れ込む辺りの土壌も泥質でないことを意味している。地形図からの情報も合わせて推理してみると、知西別川の標高720m付近の両岸に小高い丘があり、その間が堰き止められたようになっている。翌日に確認したところ、安山岩質の溶岩ブロックが重なっていた。比較的新しい時代に、ふたつの丘の間で堰き止められた沢水が、平坦な溶岩台地の上に広がり、湖を形成したようである。
 深みを警戒しながら奥へと進んだが、対岸まで渡れることがわかった。しかも、湖のほぼ中央部でも、水深は膝上15cmほど(60~70cm)で、面積の割には浅い湖のようだ。もっとも、下流の堰き止め口では、もう少し水深がありそうだが、湖底の平坦な様子から、せいぜい人の背丈ほどだろうと推定した。だから、雪解け水や地下水を集めた湖水は、澄んで水質も良さそうだが、真夏の炎天にあぶられて生温かい。魚釣りに興味のある人なら、まっさきに魚群に関心が向いただろうが、もしいるとしたら、「熱帯魚」ではないかというような水温だった。

             *    *    *

 羅臼湖の夕暮れは、神秘的だった。
 自然科学風に情景を説明すると、趣深くないかもしれないが、次のようなメカニズムで、「移流霧」が発生する。

 夏の太陽が沈むと辺りの気温が下がり、湖上の大気も冷えていく。比熱の大きな水は冷めにくいので、盛んに蒸発を続ける。すると、湖上の冷気に触れて、露点に達し、霧となって空中に漂う。
 一方、快晴の日の日没後には、標高の高い尾根の方から早めに放射冷却が始まり、相対的に山の上が高気圧になる。それで、湖に向かって流れ下る山風が、静かに吹き始める。このふたつの要素が組み合わさって、湖の上に移流霧が生まれるのだ。
 ゆったりとした気流に乗り、夕霧は、湖面の漣の上を音も立てずに移動していく。あたかも、巨大な未知の生物が、私たちの様子を伺いながら、息を潜めて這っていくかのようだ。そして、瞬く間に成長し、対岸の木々をすっかりと飲み込んでしまった。気がつくと、辺りの景色は色彩を失い、白っぽい霧と黒い水、そして、針葉樹の影絵が、私たちを包んでいた。

 こんな幻想的な光景の中で、突然、静寂と沈黙が破られる。
 ブヨ(ブユ・蚋のことだが、東日本地域では、こう呼ぶので「ブヨ」)を打ちつぶす音や、悲鳴がこだまする。生温かい湖水はブヨ類の繁殖地となっているのか、夕暮れと共に、どこからともなく湧いてきた。しかも、ここに棲むブヨ類は、衣服の上からでも平気で刺してくる。

 ヒグマやキタキツネなどの厚い毛皮の上からでも、長い吸血針を数cmは伸ばして吸血できる仕組みになっているのだろうか。背中がわずかに刺激されたかと感ずると、みごとに刺されていた。慌ててブヨ類をつぶすと、手の平に血液が付いていた。
 幻想的で美しい景色とは、まったく別な苛酷な世界のようで、テントの中では、蚊取り線香を一晩中でも焚いて、戦わなくてはならない相手のようである。

 

 翌朝のH君の顔を見た瞬間、誰もが大笑いをしてしまった。
 『先輩、前が良く見えません』と、本人は悲しそうに言うのだが、それを聞いて、もう一度、笑ってしまう薄情な仲間たちだ。
 ブヨ類に刺されて、H君の顔が、ものすごい状態になっていた。目の上と両ほほが、恐ろしく腫れ上がり、完全に目が無い。顔には、線のような割れ目がふたつ付いていて、両眼の痕跡器官だと、かろうじてわかる。私たちも、ブヨ類にはずいぶんと苦しめられたが、これほど腫れ上がった症状は見たことがない。明らかに、ブヨ類に対してのアレルギー性の過剰反応である。H君は、テントの入口にいたから、特別にやられたのに違いない。
 ただ、困ったことに、今日は知西別川を下る。果たして、H君は大丈夫だろうかという不安がある。H君は、沢旅に慣れていない上に、背がかなり低い。身長の低い人は歩幅も狭く、岩づたいに歩く沢では、必要以上に水に入ったり、岩の上り下りが大変だったりする。加えて、大きなハンディキャップを背負ってしまった。
 しかし、山の掟は厳しい。
 山では、「自分のことは自分で責任をとれ!」なので、H君には、自分の足でしっかりと歩いてもらわなくてはならない。私たちも、精一杯フォローし、K氏にマンツーマンで付いていただくことにした。
 ところが、H君には、もうひとつ試練が加わった。前が良く見えないので、視界が狭く距離感がつかみずらいH君は、沢で転んで膝とすねを激しく岩にぶつけた。可能な限り、ゆっくりとしたペースで進んではいても、H君と介助のK氏は、どうしても遅れてしまう。
 予定した時刻から大きく遅れて、羅臼の街(富士見町)に着いた。しかし、誰ひとりとして文句を言わないのは、メンバーが決して薄情ではない証拠である。神社の境内に、許可をいただいて、テントを張ることにした。(C-5)
 今晩は、K氏との「お別れパーティ」である。
 新鮮な食料品が購入できる羅臼の街に到達できたので、魚介類の豊富な水炊きで、豪華な料理が楽しめた。
                   *
 ところで、K氏は、最初の5~6日間ほど参加して、羅臼で私たちと別れることになっていた。
 Nさんと私がリーダーとサブリーダーとなった知床半島の沢旅計画を、山行の安全を審議する機関であるリーダー会に提出した時、会の出した結論は、『沢旅の実績のない1年生部員が多すぎて不安だ。誰か1名を切れ』だった。実際、その指摘は十分に正しかったと思うが、それを『K氏が、途中まで様子を見ますから・・・』という条件付き妥協案で、審査を通過した経緯があった。K氏は、医師の国家試験受験を夏休み明けに控えていて、当然、長くは参加できないが、後輩の為に一肌脱いでくれたわけだった。

 
 翌朝、K氏と別れることになった。少しは顔の腫れが退けてきたH君に、『これから、どうする。K氏と一緒に帰るか?』と、リーダーのNさんが問いかけた。
 『一度決めた山行ですから、これからも行かせてください』と、H君は例の割れ目から涙をこぼしながら言う。それに応えて、まずK氏が『ようし、頑張れ』と励ましてくれた。H君は、さらに涙をつのらせる。そして、皆の『一緒に、岬をめざそうぜ』という言葉に、H君はうなずいた。 

             ≪知床横断道路の建設≫

 「開発か、自然保護か」という問題は、様々な立場から突き詰めると、簡単に二者択一ができない状況にぶつかる。そして、結論は出しにくい。
 羅臼湖の北3kmほどの所では、知床横断道路敷設のための測量工事が行なわれていた。この道路は、宇登呂(オホーツク海)と羅臼(太平洋)を結ぼうと計画された道路で、私たちが訪れた昭和50年の夏には、道幅を決めるための杭打工事の最中であった。既に、宇登呂側からは、岩尾別を経て赤川(フレペツ)の上流部まで林道が延びていて、羅臼側からも、羅臼温泉の少し上まで舗装道路が延びてきていた。だから、この間の約6kmほどをつなぐ道路延長工事であった。
 ところが、知床半島の中央部(峠)付近まで道が延びてきているのと、道が完全につながるという状況は、まったく意味するところが違う。たとえわずかな区間でも、自動車での通り抜けができないと、峠まで行こうとする人は、ハイキングや登山装備をしてでないと入れない。しかし、道路がつながると、マイカーの群れが侵入して、カーステレオの音やエンジン音が、あふれる状況が予想される。
 もっとも、短い夏の間の一時期だけの話であって、すばらしい大自然に多くの人々が、触れられる。それに、知床半島に住む人々にだけ、安全に越えられる陸上道路を放棄して、岬を回る船便を利用すればいいと強いるのは、自然保護に名を借りた、あまりに身勝手な言い分であるとも反論できる。

 だが、「知床横断道路は、本当に必要なのだろうか?」と考えると、私は、そうでもないような気がしてくる。
 その理由のひとつは、両地域の人々の産業や生活の様子から見て、オホーツク海側と太平洋側が、短時間で行き来しなければならない必要性は、かなり小さいと思うからである。
オホーツク海側のサケ・マス漁に対して、太平洋側の昆布漁、関連性も薄く、出荷ルートも別である。どう考えても、もし、羅臼郵便局から宇登呂郵便局へ配達員さんが郵便小包を届けることがあったら、便利になるだろうなぐらいしか思いつかない。
 第二の理由は、医療や教育・日常の買い物といった内容についても、それぞれの地域には中心的な役割を果たす街がある。ここで手に負えないことがあれば、宇登呂側なら斜里町、そして網走市北見市へ、また、羅臼側なら中標津町、そして釧路市帯広市へと行き、最後は道都・札幌市へのルートがある。北海道は、広大な上に交通が不便であるので、地方中核都市が発達している。だから、わざわざ峠道を使い山越えをしてまで、違う産業・文化圏へ移動する合理性は、ほとんど無いと思う。

 第三の理由は、もし、観光を目的とした道路としたら、長期的に見て貴重な自然環境レベルを低俗化させるだけで、実利も上がらないと思うからである。知床横断道路を利用する場合、もし、網走側から知床五湖を訪れた人々が、斜里町まで同じ道を戻らないで、峠を越えて次の観光地、例えば尾袋沼(おだいとう)辺りへ自動車で移動するのに便利になるか、羅臼岳へ日帰り登山ができるようになることぐらいだろう。だから、地域の人々の生活を豊かにできる保障もないし、ただ騒然として、都会の喧噪だけが雪崩込むような結果になるのではないかと心配する。
 例えば、羅臼湖である。
 暇と体力のある私たちだけの「宝物」にしておこうなどという尊大な気持ちはないが、半ズボンやスカートをはいた人々がいたら、幻想的な趣は無くなる。ブヨ類が、徹底的に攻撃してくれないと、たちまち知床五湖と同じような場所になってしまうだろう。
 狭く人口密度の高い日本にあって、ヒグマの恐怖を感じつつ、入山したら自分たちだけというルートは、北海道でも限られた場所になりつつある。貸し切りを望んでいるわけではないが、苦労した人だけが、入ることを許される場所は残しておいて欲しい。さらに、本来の自然や、そこに生息する動植物の立場からも、強く要望したいことである。
 しかし、計画は既に実行中で、1980年(昭和55年)、横断道路の全線開通の新聞記事を読むことになった。
 そして、今やインターネットで検索すると、素晴らしい道路が整備されている。機会があれば、もう一度、今度は知床横断道路を利用して行くことになるかもしれない。

 

【編集後記】「知床横断道路から根室水道・国後島を望む」(北海道の観光スポット根室振興局ホームページ)を見て、懐かしさがこみ上げてきたが、同時に羅臼湖の周辺がどうなったか心配になった。