北海道での青春

紀行文を載せる予定

暑寒別岳と誰が名付けたのか

 石狩湾の西に、ロッククライミングの練習ができる赤岩という崖があり、T君の熱心な誘いを受けて出かけたことがある。夏の沢旅に備えて、ザイル無しでは降りられない滝にぶつかった時の下降技術を身に付けておこうという目的だった。ザイルの結び方や登攀者の確保の仕方、下降の方法など、基本的な内容を一通り教えてもらった。同学年のT君も、この道では先輩格である。
 崖は、わずかな磯があって、いきなり海からそそり立っていた。途中にテラス(岩棚)があり、素人でも、ここまでは注意深く登れば、登る方だけはできそうである。それより上は、ザイルで確保しながら登らないと危険である。初心者の練習なので、テラスの下からザイルで確保しながら登ることにした。ルートを探しながら登攀していくT君の一挙一動を見つめながら、安全確保の為のザイルを握っていると、たいへんな緊張感に襲われる。実際に登っている人より、それを見守っている人の方が、何倍もハラハラしてくるものらしい。続いて、上から垂らされたザイルに、カラビナという登山用具で自分の腰綱を結びつけ、私は崖を登って行った。ザイルで確保されているとはいえ、緊張する。なんとか無事に、崖の上に立つことができた。
 今度は、崖を降りていく。ザイルを使った岩場の下降は、岩を蹴って空中に飛び出し、自分で握ったザイルを少しずつ緩めながら、落下していく。慣れてくると、振り子のようにリズミカルなステップで下降していくことが、爽快に感じられてしかたがない。下降しながら、次に着地する岩場を見ていくのだが、潮騒の音が近づき、砕ける波の白さが目に入るようになると、大地はもうすぐだ。そして、海岸に降り立って、崖を見上げると、もう一度、挑戦してみたくなった。
 だが、『登攀ルートを探していくことや、一瞬・一瞬の緊張の連続が、好きなんだ』というT君ら、岩登りに魅せられた人々の話だが、とうとう私は、その気持ちを理解できなかった。
 ロッククライミングの練習が済むと、磯に潜って、「エゾバフンウニ」を獲った。
 軍手を付けた手の平の上で、「いが栗」のような黒紫色のウニの管足(かんそく)が、ゆっくりと動くのを見ていると、一向に飽きない。その後で、ウニの体をひっくり返し、口と肛門に当たる部分(※mouthとanusが一緒と発生学でまなんだ)から殻を割り、海水を浸けて食べるのだ。ウニ独特のミルクのような甘さと、海水の塩気が口の中に広がり、ぜいたくな味を楽しんだ。

 岩場に立って、石狩湾の海岸線をたどっていくと、銭函(ぜにばこ)から石狩浜を経て、最後は、雄冬岬(おふゆみさき)につながる。暑寒別岳に代表される増毛山塊(ましけさんかい)が、薄紫色に霞んでいた。湾のかなたに浮かぶ山塊のシルエットが神秘的だった。
 そんな印象が強かったので、「暑寒別岳」への山行募集があった時、私は、一番に名乗りを上げた。

f:id:otontoro:20200330110306j:plain

赤岩の少し先は積丹半島である


                ≪出発の準備≫

 

 暑寒別岳山行(4泊5日・停滞3日)のリーダーは、Tさん。サブリーダーは、Kさん。それに、食事計画係のM君、会計係のH君、気象・装備係の私で、総勢5名のパーティーであった。
 この山行は、Tさんが初めてリーダーをするという点でも注目された。Tさんは、登山技術が低いわけではないが、控えめな性格で、上級生になってからも常にサブリーダーとして補佐役に回っていた。卒業を前に、一念発起しての初のリーダーであった。だが、本人の口から、その事実を聞くまで、誰も知らなかったくらいだから、不安はもちろんない。

 山行の出発を明日に控え、クラーク会館のロビーへ皆が集まった。
 大学生協(CO-OP)で購入した食料品や登山装備品の荷分けをし、簡単な打合せをした。少し離れた席には、同じ部のN男さんたちの姿も見える。やはり明日から出発する日高山行に向けての準備をしていた。
 『N男たちのメンバーを見てみろ』と、Kさんが冗談交じりに言う。知床半島山行で、リーダーとなったN男さんや、私を赤岩に誘ってくれたT君は、日高隊のメンバーである。それに、OさんやMY君などもいるので、Kさんの指摘した意味が良くわかる。ただ一人、札幌出身のS君という例外がいた。

 このメンバーは皆、タフネスぶりは抜群で、岩登り技術も高い。しかし、なぜかスキー技術の方は、もう一歩なのだ。
 これに対して、私たちのパーティーは、山スキー技術が高い。下級生でも、雪国育ちのM君やH君に加え、私も、それなりに技術は向上していた。もちろん、Tさんもベテランの部類だし、Kさんは部内でもトップクラスである。

 こんな話題を挙げるのも、暑寒別岳への山行は、山スキーを使った登攀と雪の雨竜沼湿原へのスキーツアーが主体だからで、ある程度のスキー技術がないと困るからである。その意味で、私たちパーティー山スキー技術の力量は、ある程度そろっていた。
 冬山の高度な技術が要求されるのは、もちろん日高隊の方である。
 リーダーのOさんは、部内でもアルピニズムをめざす推進派で知られ、T君も、それらを引継ぎそうで、積極的に冬の日高にも挑戦していた。
 だが、積雪期の山は、標高によらず、どこにでも危険が潜んでいる。札幌近郊の山でも、気象条件しだいでは、とても危険な場所に変わる。共に、山行の安全と無事帰還を祈りたい。

       ≪ソーラン節の聞こえるバスに乗って≫

 

 暑寒別岳山行の出発は、2月下旬の最後の土曜日であった。
卒業論文を提出した後でも、データーの追試を熱心に続けるTさんの都合と、片や土曜日の講義をサボり過ぎて、単位認定の危ない私たちの事情で、札幌の出発は、午後1時を少し回った頃となった。
 石狩湾沿いに、石狩浜、厚田を経由し、終点の浜益(はまます)村の幌(ほろ)まで行くバスは、割と混んでいた。大きなザックにスキーを持ち込んでも、少しも気兼ねはいらない。他の乗客たちも、某百貨店などの大きな包みを携えているからだ。札幌で下宿をしている学生や、冬季に出稼ぎに来ている年配者など、それぞれ1週間分の大きな荷物を抱えた人たちの帰宅便でもあるらしい。優遇されていない路線とみえて、旧来のボンネットのあるタイプのバスは、市街地を走る箱型のバスと比べると、形からも異彩を放っていた。

f:id:otontoro:20200330110632j:plain

ボンネットバス


 石狩街道を北上し、北区の新興住宅が増えつつある地帯を抜けると、辺りは急に寂しくなった。そして、日本海が見えるようになると、人家はまばらになり、バスは、信号機のない道を、ひた走りとなった。
 札幌を出る時から心配していた空模様であるが、この頃から、みぞれ混じりの雪が吹きつけるようになった。そして、黒々とした日本海に沿う荒涼とした大地に、夜のとばりは静かに降り始めていた。腕時計を見れば、十分に早い時刻だが、辺りは既に薄暗く、そのギャップが異様に感じた。
 厚田に着いた時には、完全に吹雪となっていた。乗客の大半は、ここで降りた。
 『ありがとー』などと、乗務員さんに挨拶をして、バスから降りていくおばさん達の姿を見ていると、ほのぼのとした気持ちになる。吹雪の中に消えていく乗客らを見送った運転手さんは、女性の車掌さんと共に営業所の方へ行ってしまった。ワイパーだけが、せわしく動いて、吹雪と闘っていた。

 

                 *  *  *

 

 やがて、黒いジャンバーを着て、運転手さんが戻ってきた。車掌さんは、厚田で交替したようで、先ほどの女性よりずっと若く、スキーウェアー姿だ。バスの乗客に顔見知りの人がいるようで、挨拶を交わしている。地元の娘さんかもしれない。
 厚田村浜益村の間には、曲がりくねった峠道があるが、少なくとも、このバスの札幌への復路はないので、車掌さんは、浜益の自宅に泊まるのかもしれない。華やいだ若々しい車掌さんの声で、車内は明るくなった。
 だが、車の外は、相変わらず猛吹雪である。本格的になった雪は、日本海側からの激しい風で、窓ガラスにぶつかり、音を立てている。早々と、室内灯が点けられた。
 先ほどから、バスが急に止まるのは、吹雪で前が見えなくなるかららしい。
 車窓からもれる淡い光に、色彩を失った雪が、ふうっと浮かび上がるのは、不気味な光景だった。
 峠道で、吹雪の中から突然に対向車が現れた。急ブレーキをかけてバスは停止したが、次の瞬間、後方へ滑り始めた。鈍い接触音とともに、車体は、やや傾いて止まった。吹雪の中から現れた車を避けそこねて、柔らかい雪の溝に、車輪の一部が落ちたらしい。坂道なので、タイヤがスリップして登らない。
 すぐに若い車掌さんが、外に出た。
 窓から顔を出した運転手さんが、後方の様子や滑っている状況を彼女に尋ねているが、要領を得ないとみえて、自分で降りて行った。それから、タイヤチェーンを取り付けることに決めたらしく、鎖を動かす音がする。
 私たちが、窓ガラス越しに眺めていると、懐中電灯をかざしている車掌さんに、バスへ戻るように言っているのが聞こえた。対向車の普通乗用車が向きを変えて、ヘッドライト照明で、バスを照らしてくれているからだ。北海道の人は、自分の車が動けば、さっさと行ってしまうような薄情者ではない。

 タイヤチェーンの装着には、かなり時間がかかった。
 やがて、運転手さんが、戻ってきた。軍手を脱いで、クラッチレバーに手をやり、それからエンジン音を上げていくと、バスは振動を始めた。チェーンの効果があってか、車体と共に、私たちの身体は大きく前後に揺れ出した。
 それに合わせて、掛け声が始まった。
 『ほらよ、こらさー。』
 『ほらよ、こらさー。』
 私は寒気がした。どういうものか、感動すると、背中の辺りが、急に寒くなるからである。人々の掛け声で、バスが動くわけはないが、バスと運転手さんへの声援なのである。長年の、海での共同作業を通して培った民衆の労働歌なのだろうか・・・そう思うと、感動したのだ。
 『ほらよ、こらさー。』
 『ほらよ、こらさー。』
 最初は恥ずかしい気もしたが、いつか自分でも、大合唱に加わり始めた頃、エンジン音が萎えてしまい、運転手さんは脱出することを放棄してしまったようだ。とりわけ、最後の大きな振動を残して、バスは再び、雪の溝の中に沈んだ。誰の口からともなく、残念そうな会話やため息が漏れた。

 しばらくして、威勢のいいおやじさんが、言い出した。
 『外に出て、皆で押してみるべや』と。それに応えて、私たちも全員が、吹雪の中へ飛び出した。そして、バスの後押しをした。
 例によって、『ほらよ、こらさー』の掛け声が始まった。年配の女性たちも車から降りて、声援を送る。今度は、自分でも、素直にこの大合唱に加わることができた。
 しかし、どうもさっきから、人とぶつかって力が入らない。私の鼻先に、前の人の髪の毛が触り、くしゃみしそうで仕方がない。その内に、エンジンをふかす音が止んだ。あともう少しというところで、バスは雪の深みから抜け出せなかった。
 『もう一度やってみるべや』という申し出に対して、運転手さんは、申し訳なさそうに、『どうか、バスの中に入ってください』と、お願いした。
 そして、わざわざ今まで付き合ってくれた普通乗用車の男性にお礼を言って、たぶん、電話のある所まで行ったら、救援をしてもらうよう頼んだのに違いない。
 (※携帯電話のない時代の話である。)
 乗用車は、ヘッドライトの向きを変え、厚田村の方へ走り去って行った。
 バスへの帰り際に見ると、鼻先の髪の毛の主は、先輩のKさんだった。

                *  *  *    

 バスに一瞬の静寂が戻った。
 全員が、バスの後押しで疲れたから、一休みである。やがて、前の方のおばさんたちのおしゃべりが始まった。私は、鏡になった黒い窓ガラスに自分の顔を写して、それを眺めていた。KさんとH君は、座席に丸くなり、帽子を顔に乗せて、寝ている。
 下級生のM君が、『腹がへりましたね』と言うから、私は『ああ』と答えた。
 『バスの中で、雑炊を作るというのもいいですね』と言うから、『ああ』と答える。
リーダーのTさんは、『よく減る腹だなあ』と言って、銀縁眼鏡の中で、眉を上げてみせた。

 あまりにゆっくりと時は流れた。
 このまま遭難するという心配は、まったく無いが、バスが動かない以上、他にすることは何もない。乗客は、前の席の方に土地の人たちが、私たちが後ろの方にかたまっていて、前では、よもやま話に花が咲き、後ろでは静かに寝ていた。
 その内に、威勢のいいおやじさんが、『みかんでも、食べるかい』と、私に話しかけてきた。起きていたM君とふたりで、前の座席に移動して、おじさんと話し始めた。
 石狩湾の沿岸に、ニシン(鰊・鯡)の群れがやってきた時期も含めて、山向こうの厚田村辺りまでは道路整備がされていたが、浜益村は、「陸の孤島」であったという。つい最近まで、他地域との交通は船便に頼り、バスも通わない所であったという苦労話を伺った。今なお、このような交通事情であるので、決して話が誇張であるはずはない。何よりその証拠に、到着予定時刻を優に3時間も越えた上、バスの中に閉じ込められているというのに、おばさん達は、まったく気にも留めていない風である。
 ・・・・どれくらいか、時が流れた。
 雪は降り続いているが、横殴りの吹雪はおさまりつつあった。そこに、救世主は、浜益側からやってきた。暗闇の中を、黄色の回転灯を点滅させながら近づいて来る。除雪車を兼ねた大型重機の力強い地響きが、たのもしい。ワイヤーロープをバスの車体にかけると、私たちの期待に違わず、あっという間に、雪の中からバスを引きずり出してしまった。Kさんなどは、寝ていて気づかないくらいの、あっけなさであった。

 さて、無事に動き出したバスではあったが、その後もまた大変だった。
 にぎやかな祭り囃子、はたまた、"ソーラン節"のリズムよろしく、祭太鼓が激しく打ち鳴らされた。と言うのも、チェーンの鎖が余っていたとみえて、タイヤの回転に合わせて、車体の金属部分に当たっているからだ。それが、皆の眠気や陰気な雰囲気を吹き飛ばすように、鳴り響いていた。
 『おーい、運転手。今日はおめえ、よっぽどついてねえな』と、おやじさんの言葉に、車中の人々が一斉に笑った。やがて、バスは笑いにつつまれて、終点、幌に着いた。
 乗客に謝罪する乗務員に対して、『食べる物、あるだか』などと、おばさんたちが声をかけているのを見ると、真面目そうな運転手さんが、いっそう気の毒に思えてきた。乗客が去ったバスの明かりを消して、ふたりが事務所の方へ歩いていく後ろ姿が、寂しげに見えた。雪は、小止みになりながら降り続いていた。

 

               *   *   *

 

 そういえば、自分たちのことも心配しなければいけない。
 しかし、既に私とM君が外交官となり、威勢のいいおじさんとは、国交が開かれていた。『遅いから、泊まってけ』と言う。暑寒別という名前の食堂を兼ねたお宅である。生真面目で、良識派のTさん(リーダー)は、必死に遠慮して、申し出を辞退しているが、サブリーダーのKさんは、Tさんの横腹をつついて、プレッシャーをかけた。
 結局、遅い夕飯は、予定した「ペミカン雑炊」を廊下の隅で作らせてもらうことにし、部屋には泊めていただくことになった。しかも、『おめらも、飲め』と、コップ酒を振る舞っていただいた。予定時刻より、4時間近く遅れ、午後9時を既に回っていたとはいえ、親切なもてなしに、まったく頭の下がる思いである。
 翌朝、同じようにして、朝食の雑炊は作らせてもらうことにしたが、奥さんが用意してくれた「お味噌汁」は、いただくことにした。
 おやじさんと奥さんには、重ね重ね礼を述べ、幌の街を後にした。

 

 【編集後記】  今回から、日本海側、増毛山地の最高峰「暑寒別岳」をめざした山行紀行文を載せます。《ソーラン節の聞こえるバスに乗って》に登場する浜益のおやじさんの所へは、もう一度、北海道の地を訪れることがあったら、伺ってお礼をしようと思いつつ、既に半世紀近い年月が流れてしまいました。