北海道での青春

紀行文を載せる予定

雪原を越えて

 山に入って6泊目のテントサイトは、ダケカンバやモミの木がまばらに生え、雨竜沼湿原を見下ろせる尾根の途中に決めた。湿原といっても、今は積雪期なので、いくぶん雪の色が変わっている部分もあるが、一面の雪の原である。

 雨竜沼湿原は、北海道でも交通の不便な所にあるので、天然のまま残されていて、その規模の壮大さと美しさは、他の有名な湿原地帯よりも、すばらしいのではないかと思う。(残念ながら、雪の消えた時期の雨竜沼湿原を訪れたことはないが・・・・)

 ダケカンバの木の間を利用してテントを張ろうとしたら、リーダーのTさんが『止めろ』と言う。この時期になると、木の周囲や根元は解けだしているから、風避け用の雪穴掘りも少なくて便利だろうと考えたが、タンネの枝に積もった雪が落下してテントをつぶすこともあると言う。雪解け時期の樹木の根元が先に解けだしている現象を、雪国では、「根開き」と言うようだ。一部の方言でもあると言う。私は、北西からの強風を想定し、入口を南東側にして、テントを設営した。

 翌朝は、またしても、雪降りだった。
 西風に吹かれて舞ってくる雪の様子から見ると、暑寒別岳から南暑寒岳にかけての稜線では、強風が吹いているだろう。しかし、標高差で350m近く下がると、風の影響はだいぶ違った。リーダーのTさんは、テントから外に出て、かなり長い時間、降る雪の様子を見ながら、迷っているようであったが、停滞日とすることに決めた。
 実は、Tさんが停滞日を決めるまで、迷うのには理由がある。
 この日は、少し無理をすれば、行動することができないことはなかったかもしれない。これから標高は低くなるので、風も強まることはないだろうし、雪は降ってはいるものの、そう多くは積もらないだろう。湿原を横切り、恵袋岳(えたいだけ)への緩やかな登りがある程度で、比較的楽に行動できると思われる。
 ただ、雨竜沼湿原から流れ出ているペンケペタン川沿いの道にでる尾根の一部と、最後の小さな沢を下るルートに不安があった。地形図で見る限り、急な斜面で、雪崩の心配があった。 
 しかし、人里や確実な交通手段がある場所まで、かなりな距離を残している。停滞予定日の3日以内であるとは言え、全行程距離から見ると、半分以上も残している場所に、私たちは、まだいた。(下りに入ることや平坦地のルートなので、天候条件が許せば、一日半ぐらい、少し無理をすれば一日で行けると思われる。)
 だから、札幌に帰った後で、山行記録が提出されれば、『なぜ、停滞日としなければならない理由があったのか?』と、リーダー会で、一部の委員から指摘されるのは明らかであった。『現場の判断が、優先するのではないか!』と、擁護する意見もあるかもしれないが、確実な下山保障もなく、停滞日を完全に使い切るには覚悟がいることであった。

 実際、私たちは、停滞日の翌日、やっとの思いで、新十津川の駅にまで到達することができたが、札幌への最終列車に間に合わず、駅の軒下で予定外の宿泊をすることになった。麓に下りてからの雪道は、斜面をスキーで滑るようなわけにはいかなかったし、距離的にもかなりあったからだ。
 新十津川駅に着いてから、札幌の待機連絡係に『無事、下山』の電話連絡をしたので、駅での宿泊の件は心配をかけずに済んだが、下山予定の最延の日時を越えたという事実は、残った。人伝えに聞いたが、やはり、この点は、リーダー会の反省の中で問題になったらしい。

 今でも、私は二人の判断を支持する。リーダーTさんやサブリーダーKさんを全面的に信頼していたし、天気図から見て、「一日行動・一日停滞」のパターンは、好転することが見えていたからだ。それに、雪崩の心配は、降雪中と積雪後の、どちらが危険かは誰も予測し得ない。 
 下山ルートに要する時間配分については、やや甘かった。
 停滞日がなければ、雨竜沼湿原を越えて、恵袋岳への登り付近で宿泊し、そこからの出発を予定していたので、数時間分は不足していた。それに、あわよくばトラックに乗せてもらえるかもという期待もあったが、ここでは林業のような産業はなく、積雪期の交通量は、ほとんどなかった。
 ただ、事故がなかったとしても、リーダーたちの判断を再検討するという部の雰囲気は、安全性と冒険への自由度を、バランスを保ちながら維持していく為に必要であったと思う。同時に、学生の立場としてできる内部チェック体制の厳しさを、私は望ましいと感じていた。実際のところ、結果から問うのであって、TさんやKさんも、その後にどんな事態になるか知らなかったし、まして私は、問題意識もなかった。

 

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群別岳の下で(シールを張るKさん)


 停滞日の午後は、薄日が差してきた。
 この山行中、新雪シュプールを鑑賞する機会がなかったので、南暑寒岳から下りてきた尾根で、大いに山スキーを楽しんだ。シールを付けて何度も斜面を登り直し、雪煙を上げて、新雪の上に思い思いのシュプールを描いた。
 Tさんのスキーは、転ばないと言うだけで、お世辞にも上手とは言えない。第一、滑る時の格好が悪い。ベテランの立場と、スキー理論を言う割には、自分で実演できないのだ。しかし、深雪での滑り方として、ドルフィンキックなる滑り方が有効だと、ターン技術を口伝してくれた。

 これに対して、Kさんのスキーは、安定感のある大きなシュプールで、書道の習字を見ているようだ。東北出身で幼い頃から雪に馴染んでいる。ギルランデという滑降の選手が、スピードを落とさないでターンする方法を教えてもらった。ちなみに、ヨーデルもである。エッジを使った細かな連続ターンが苦手だと、気にしていた。
 H君のスキーは、膝の上下動を使った、やや競技スキーを真似た雰囲気がある。ターンする度に、『シュワッ!』と発声して曲がるのだが、深雪ではそんなにスピードが出ていないので、下から見上げると、曲がったはずの所が直線だったりしていた。
 道産子のM君のスキーは、特徴は少ないが、安定度も抜群で、下級生ながらうまいものだと思う。
 私のは、シュプールが、やや非対称だ。小さい頃からのスケート滑走の影響があるのか、左曲がりの方はKさんに似てなめらかだが、右曲がりは急ターンになってしまう。
 ちょうど適当な降雪があったので、互いのシュプールを見て、ターン技術を批評し合うには、最適であった。

 スキーを終えてのことだ。雪の上で、連れションをした。白地に黄色い穴が開いていくのを見ると、一箇所に集めようという意識が働く。
 『Tさんのは、色が付いていないですね』と、私は、隣で小用をたしているTさんの尿が、自分のに比べて、あまりに透明なのを不思議に思い、話題にした。Tさんは、煙草も吸わないので、色が付かないのかなと思った。
 『馬鹿だなあ。尿に色が付いているのは栄養が出ている証拠だぞ』と、Tさんが答えた。 『エイヨウ(英雄)色を好む。』Kさんのダジャレが出た。

 

                * * *

 

 最終日は、雨竜沼湿原の雪原を快調にとばした。
 雪のない季節なら、ペンケペタン川沿いの夏道を下れば良いが、沢道なので、積雪期には通るわけにはいかない。少し遠回りだが、恵袋岳の下をトラバースするようにして、そこから南東に延びる尾根を下った。最後に小さな沢を横切り、林道に出た。
 心配していた雪崩も、比較的、安定した雪面で、心配だけで終わった。尾白利加川との合流点付近までくると、車の通った轍もあり安心した。ただ、スキーでの歩行は、普通に歩くよりは速いが、やはり単調な歩行は疲れる。どこかで、道行くトラックが、私たちを拾ってくれないかと期待していたが、とうとう一台も通行しなかった。ただ、したすら歩き、終点の新十津川の駅まで歩くことになった。
 歩きながら、いろいろな思い出が交錯した。
 皆で力を合わせ、『ほらよー。こらさー』の掛け声でバスを押したこと、親切なおじさんのお宅に泊めていただいたこと、暑寒別岳からの素晴らしい眺望・・・。そして、一日置きに吹雪の嵐が襲ってきたこととともに、暑寒別岳という名前のおもしろさに不思議を感じていた。暑さと寒さが、別れると書く。
 「暑寒別岳って、誰が名付けた山なのだろうか?」と、私は考えていた。

 

 【編集後記】 私は、冬の嵐と春の陽光が交互にやってくるので、「暑さ寒さも彼岸まで」ではないが、そんな意味でまとめた。しかし、調べてみると、北海道の多くの山の例のように、アイヌ語に由来しているようだ。「そー・か・あん・べつ」和訳では、「滝の上にある川」と言う。山頂からの水系は、東側が発達しているので、雨竜沼湿原方面から見た時の山を名付けたのだろうと想像する。