北海道での青春

紀行文を載せる予定

エスケープ・ルートの採用

 若い頃の私が、積雪期の雪山と言っても、主にスキーで登頂できる程度の山行に興味を覚えたのは、そのルートの自由度に魅力を感じたからである。
 夏の山は、沢を詰めていくか、登山道を歩かなくてはならない。その点、積雪期の山は、就寝中の寒さという最大の苦痛を我慢しさえすれば、雪崩という生死を分ける危険は必ず付いて回るものの、山行ルートが自由に決められるという魅力がある。

 もっとも、安全で雪崩の少ないだろう尾根筋を選ぶことや、登り降りしやすいコースというのは決まっているが、地形図上で立てた日程と目標を実地に踏破していくという、ちょっと一端の冒険家や探検家にでもなった雰囲気が味わえる。だから、日帰りや一泊のスキーツアー、それに2~3泊程度の山スキーによる山行には、ずいぶん出かけた。
 とりわけ、2年生の時の積雪期には、奥手稲の山小屋管理(1泊2日)が半分ほどを占めるが、トータルで60日ぐらい雪の上をスキーで歩き回った勘定になる。それら雪の上を歩いたスキー装備は、白塗装の長さ190cmのスキー板と竹製ストック、それにスキー板に脱着できるシールであった。

 

     【 シール(Seal) の説明】  私たちのスキーには、登山靴のまま履ける「カンダハーセット」という一昔前のスキー金具が装着されていた。スキーを履いて歩行する時は、靴の「かかと」が上下に動き、歩きやすいようになり、普通に斜面を滑る時には、ワイヤーを金具にかけて固定できるように工夫されていた。
 このようなスキー板の下に、「シール」と呼ばれる帯状の装置を取り付けると、坂道や斜面を登ることができた。シール自身の使い方や、ストックの位置と体重の移動のさせ方にも工夫が必要ではあるが、慣れてくれば、斜度25度くらいの斜面でも、直登できるようになる。更に斜度がきつい斜面になれば、ジグザクに登ることになるし、雪が深いと、ラッセルなどの方法で対処する必要がある。
 シール(Seal)は、元来、アザラシやアシカなどの毛皮が使われていたと言う。動物の体毛は、一定の方向に生え揃っているので、この性質を利用すると、前に進む時は毛が倒されて、なめらかに進み、後ろ向きには、毛が雪面に引っ掛かり、滑らない。前には進むが、後ろには滑らないという、理想的な装置である。北極圏や雪国に住む人々は、これを使って雪原で狩りをしたり、交通手段としていたようである。
 ただし、毛は柔らかいので、堅い雪やアイスバーンでは不向きである。また、前に滑る場合でも、抵抗が生ずるので、滑りを主目的とする平地や斜面滑走では、外せた方が良い。
 そこで、毛先の短い合成樹脂製の製品があり、安価でもあるので、私たちは、こちらを利用した。本物の毛でできた製品と比べると、抵抗が大きく前には滑らないが、堅い雪にも使えて、丈夫であった。帯状シールを固定する部分が切れることがあったので、山行では、常に修理道具と予備用のものを持っていった。

 

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 日帰りツアーや山小屋当番(1泊2日)の時には、発砲スチロール製のシートや、大きなものを切って小さくしたビニル製シートを携帯していた。もし、ビバークでもしなければならなくなった時の備えである。リュックの背中側に入れておくと、クッションを兼ねて、温かいという利便性もあった。
 もう少し長い山行となると、テントが必要となる。しかも冬山であれば、吹雪にも耐えられる丈夫で、暖かなテントが理想的である。
 そんな願いから、ウインパー・テント(Whymper Tent)というものが考案されている。
ウインパーは、ウインター(winter・冬)のなまりかと思っていたら、考案者の名前である。だが、私は、「ウインパー」と呼ばれるアルミ製フレームの入った冬用テントを使ったことは一度もない。部の装備品の虫干しで、ウインパーの中に入る機会があった。骨組みの丈夫さと、天幕とグランドシートとが一体化した二重構造から、冬山での性能は、さぞや優れているだろなと思っていた。部では4人用が一張り装備されていたが、人数の条件と重いのが玉に傷で、日高隊(今回は5名)が利用するぐらいであったが、強風や雪が利用できない場所でのテント設営では、必需品で、重さは我慢しなければならない。

 もうひとつ、冬山での快適な過ごし方がある。それは、雪洞(せつどう)の利用である。
 毎年、ニセコ五色温泉で行なわれた部の冬合宿では、雪洞作りが、各パーティーごとに課せられていて、私たちは、制作した雪洞で一晩を過ごした。他にも方法はあるだろうが、私たちの部に伝えられている雪洞作りの説明をしたい。

 

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 稜線に限らず、少し高まりのある所の風下側にできる雪庇を利用して、雪洞を作る方法がある。

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雪洞り作り方(例)


 まず、雪の柔らかい部分は、スコップで削り取り、大きな雪の壁を作る。
 中央部分は、雪洞を支える柱として残し、両側から雪の壁に向かって掘り進めていく。
 のこぎりで、雪に切れ目を入れて、雪を塊(ブロック)として切り出すと効率が良い。
どうしても、掘り進むにつれて、掘り出す穴が小さくなってしまいがちなので、注意が必要である。
 パーティーの人数によって大きさも異なるが、適当な距離(奥行き)まで到達したら、
掘る向きを90°転向して、双方から中央に向けて掘り進める。最後は、トンネル工事の開通式よろしく、雪庇内部に「凹」の字のような立体空間が完成し、開通を祝う握手がなされる。仕上げは、ふたつの掘り口の内、片方を雪のブロックで埋め戻す。もう片方を出入口として、必要な分だけを残して塞げば、雪洞が完成した。
 最後に内部装飾として、ロウソクの燭台の場所を作るなどして、インテリアを楽しんだ。・・・これが、私たちが、先輩から引き継いだ雪洞作りの方法である。

 外が猛烈な吹雪でも、雪洞の中は、風の音さえ聞こえない快適な空間で、携帯用の調理兼、暖房器具のスベア(商品名)を使うと、かなり温かくなる。ただし、機密性が高いので、「ロウソク」の火をともしておく必要がある。炎の明るさが暗くなると、酸素が欠乏した証拠なので、出入口のビニル製シートを開けて、空気の入れ換えをしなければならない。ロウソクの火が消えたという経験はないが、人の酸素欠乏より先に、炎の色が雪洞の中の大気の様子を知らせてくれるので、常に注意しておく必要があった。

 雪洞で寝た、ある晩のことである。
 中は温かいと説明したが、それは雪洞内の大気のことで、暖房を止めれば冷えてきて、しかもシュラフと接する雪面は冷たくて、なかなか寝付けない。その後、私は寝入ったようであるが、雪洞の天井が突然崩れてきて、埋まりそうになった。
 私は大声で皆を呼び起こして、外に出ようとしたが、寝袋のファスナーが引っ掛かって開かない。両手で強引に引き裂き、ようやく脱出することができた。
 『起きろ!』という私の大きな叫び声に、他のパーティーの仲間は起きた。気づけば、私が、雪洞が崩れた夢を見ていて、寝言で皆を起こしてしまったらしい。ところが、強引に開けて、ファスナーを壊したのは現実のことで、雪洞が崩れたのは夢だったのである。その晩は、両手で寝袋の端をつかんで寝ることになった。
 少なからず、雪洞が崩れてくるという不安があったのだと思う。そんな心理的な不安要因を別にすれば、快適な雪洞であった。

 しかし、雪洞の最大の欠点は、制作に時間がかかることである。
 6人パーティーくらいの雪洞スペースを作るのに、2時間はたっぷりかかった。時間だけでなく、作る為に体力もかなり消耗した。一泊するだけで、翌日は五色温泉の露天風呂に入れるというような優雅な条件では我慢もするが、次の日も活動となると、とても辛い。だから、ベースキャンプとして使用し、少なくとも2~3泊ぐらいはするような状況でないと、割が合わないと感じていた。

 そこで、私たちの採用したテント設営方法は、積雪期でも夏用テント(6人用)を使い、テントの周囲に雪のブロックを積んで、防風壁を作ることだった。
 この作り方の説明は、他の章でもしたので、簡潔にする。
 まず、テントサイトの場所を決め、つぼ足で踏み固める。次に、のこぎりとスコップで、雪のブロックを掘り出しては周りに積んで防風壁を作る。できた穴の中にテントを張る。針葉樹の枝をグランドシートの下に敷くと、保温効果がある。(自然保護を考え、ほどほどに・・。)防風ブロックの上をビニル製シートなどで覆うと、さらに温かく過ごせる。

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 こんな感じで、停滞日がなければ、毎日のように、新たなテントサイトを決めて、その晩限りの、できるだけ快適な野営場所作りに励むのである。
ところが、天候が悪く、同じ場所に停滞することがあった。今回の暑寒別岳山行のような場合である。しかし、多くは一日中吹雪いているということはなく、途中からは薄日がさして天気が回復するようなこともあったので、状況が許せば、焚き火をして、濡れたものを乾かしたりすることができた。

 その意味でも、暑寒別岳山行は、徹底的に冬の嵐に痛めつけられた山行であった。
 ところで、サブリーダーのKさんとは、積雪期の比較的長期に渡る山行で、いっしょに三度、山に入ったことがあった。   
 一度目は、別章「十勝岳東部針葉樹林帯(9泊10日)」の山行(チーフリーダー)であり、三度目は今回の山行である。その間の二度目は、「岩内岳(3泊4日・停滞2日)」の山行であった。
 毎年、冬合宿で訪れるニセコ五色温泉の周囲の山々は、温泉をベースキャンプにして、日帰りか、先の雪洞での宿泊訓練を含む一泊二日の行程であった。

 山行先の主な山々は、地域の主峰ニセコアンヌプリ(1385m)や、イワオヌプリ(別名硫黄山・1118m)やワイスホルン(1045m)、それに、ニトヌプリやチセヌプリなどで、積雪期は、その先の山々に行ったことがなかった。

 そこで、リーダーNさん、サブリーダーKさんで企画した「岩内岳」山行に、私たち同期の4名が参加した。当時の山行記録を逸散してしまったので、詳細は再生できないが、今回の暑寒別岳山行と違って、停滞日を1日残して、しかも、エスケープルートで下山したということで、印象深い。

 倶知安町の比羅夫から、山田温泉スキー場のスキーリフトを使って、ニセコアンヌプリの山頂近くまで、一気に到達した。それから、天気も良かったので、ニセコアンヌプリ山頂を経て、五色温泉へと下った。ここで、1泊目である。
 2日目は、合宿で懐かしいイワオヌプリの横を通り、ニトヌプリを抜けた。その先は、私としては初体験の場所で、チセヌプリ(1134m)を越えて、シャクナゲ岳(1048m)と高度を下げた。白樺山(923m)とのコルで、テントを張った。

 しかし、翌日は吹雪で、停滞日とした。(2泊目・3泊目)
 そして、翌日、天気の回復を待って、白樺岳を越えて、蘭越町岩内町を結ぶ道に出た。前目国内岳(980m)から延びる尾根を登り、翌日のことも考え、直下でテントを張った。4泊目である。
 翌日は、目国内岳(1202m)を越えて、大きな鞍部を経た後で少しだけ登り、目的の岩内岳(1085m)に登頂する。正確に言うと、尾根の続きの少しの高まりなので、経由するような形で、その後は、岩内の街に向けて尾根を下れば良かった。ノンストップで下るのは少し無理があったから、天気の様子を見て、尾根のどこかで泊れば良かった。
 しかし、前目国内岳を越えて、目国内岳に至る稜線で吹雪かれたので、先には進まず、元に戻って、しかも、「道道」の脇まで戻り、テントを張ると言う。そして、翌日には、本来のルートではなく、「エスケープ・ルート(非常時の退却路)」として報告してあった「道道」を下り、ニセコ新見温泉への道を下ることになった。

 物理学科のNさんなので、こういう固い山行計画を決断・実行するのかと思った。

 事実、翌日から天候は悪化してきたが、行動ができないほどではなかった。また、下山した後でも、曇り空だったが、その翌日から2日続きの嵐に襲われた。そんな天候変化とともに、Nさんの1日以上も早い下山と、慎重し過ぎるほどの判断も、悪いものではないなという気がした。
 予想した停滞日は、それぞれ的確に使った山行ではあるが、停滞日を使い切ってしまい、最後の駅までのラストスパートで邁進した場合と、かたや、もう一日余裕を残しながら、超安全策を取り、たぶんできたであろう目的を達成しないで、エスケープルートで下山してしまうという、ふたつの異なった山行経験をした。
 実は、私だけでなく、偶然にも、Kさんがサブリーダーとして参加していた。
 Kさんは、下級生の頃、遭難しかけた山行のメンバーとしての経験があったので、積雪期の山行に無頓着であるはずはないが、主張を貫くタイプではない。きっと、NさんにはNさんの、TさんにはTさんの、個性に任せたリーダーシップに従ったのかもしれない。ちなみに、3人は同期である。ただ、後輩からは、Kさんの包容力だと写ったが、案外、Kさんのずぼらさとも解釈できる。

 

 【編集後記】 一緒に天塩川の川下りをした同期のN君と私で、下級生を連れて大雪山系に入ったことがある。吹雪で道に迷った。明らかに地図上のある場所だと私は理解したが、N君は、『明らかに迷う前の、絶対に確かな所まで戻ろう』と言う。結局、その通りにしたが、困った時、人は無意識に良い方に、可能性を信じる方向へ解釈してしまうものらしい。正常性バイアス(nomalcy bias)と言うようだ。