北海道での青春

紀行文を載せる予定

天塩川・ゴムボート流失

 ここは、幌延町・雄信内(おのっぷない)、8月24日の夕方のことである。
 山行(川下り)計画は一応あるものの、なにぶん天塩川の流れに任せていることでもあり、幌延町・問寒別(といかんべつ)で野営するつもりでいたが、少し早すぎるので先に進んでいたら、逆に遅い時間(16:50)となってしまった。この山行では、天塩川沿いに市街地を通るので、途中で買い出しをすることにしていた。
 二人でテント設営の大まかな作業をした後、Kが買い出しに行き、私がこまごまとした準備をすることにした。

 大きな紙袋を手にしたKは、帰ってきて、私の顔を見るなり、驚きの様子を伝えた。
 『びっくりしたことがあるんだ。ものすごい草むらをかき分けて、農家の横に出たら、突然、犬が吠えついてきたんだぞ。それから、道路に出ると、空き家だと思っていた所の右からも左からも、吠えるんだから・・・・・。』と、興奮して話す。
 『さらに、驚くことがあるんだ。雑貨屋の渋いガラス戸を、やっと開けて中に入ると、赤外線装置があって、人が横切ると鳴る仕掛けになっているんだなあ、これがー』と、言う。私には、その時のKの驚く様子が想像できて、真剣に話を聞いた。
 
 何しろ北海道と言っても、札幌や旭川・函館のような所とは、一味どころか二味ぐらいも違い、道北の酪農地帯は人家もまばらで、犬も久しぶりの訪問客にびっくりしたと思う。そして、渋いガラス戸を開けた時に鳴った非常ベルは、防犯装置のつもりかもしれないが、明らかに最新型の、お客さんが来たことを知らせる訪問者告知装置なのだと思う。

 予定通り、問寒別の市街地で買い出しした方が、雄信内よりも良かったかもしれないが、それでも久しぶりの豪華な「すき焼き」献立で、アルコールも飲めたせいか、遅い夕食は、寧ろ大いに満足した。
 その晩は、星空も見える好天であったが、気象通報(22:00)を聞いて天気図をつけると、台風は、いったん日本海に出た後、北海道に再上陸してくるらしい。明日は、台風の北上に伴う雨雲が広がり、道北地方も雨降りの一日になるという予報だった。

 山行中、NHKラジオでの気象通報を聞いて、翌日の天気情報を収集するのは、午後4時が基本であった。午後10時は予備的である。しかし、今晩は、テント設営が遅くなった上に、酒も飲んだので例外である。Kと二人で、遅くまで歓談した。
 山の中と違い、心のどこかで、市街地に近い平地にいるという安心感がある。

 

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雄信内(5泊目~6泊目)


 翌8月25日は、天気予報通りに、小雨が朝から降り出した。
 私たちは、予期していたこととは言え、停滞日とすることに決めた。一日中、テントの中で話をしたり、読書をしたりして過ごした。5~6人のパーティーであれば、トランプゲームを楽しみながら過ごすことも多いが、何しろ二人だけである。

 毎晩のように、けっこう真面目な話題で議論をしたり、互いが読んだ本の感想などを語り合ったりする充実した時間を過ごしていたが、この頃になると、話のネタも切れていた。それで、ラジオを聞く機会も増え、報道の中で、午後6時(18:00)頃、「台風の中心が、大雪山系にある」ことを知った。しかし、時々は、川の水位も確認していたので、眠りにつくことにした。

 

             *   *   *

 

 8月26日、私は5時頃、目を覚ますと、ひたひた波打つ音が聞こえてきた。
「いやに近くに・・・」と思いつつ、テントを出てみた驚いた。さざ波が、20mほどにまで接近していたのだ。すぐに、Kを起こそうと思ったが、それよりも先に、ボートのことが気になって、まず、水辺まで行ってみた。

・・・「確か、ボートは?」と見ると、オールを杭にして、土手に繋いであった場所は、天塩川の濁流が洗っていた。

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天塩川の断面図


 テントに慌てて戻り、Kを起こした。
 『K! 起きろ。ボートが流されて、ないぞ。』Kは、すぐに起きたが、『ええ?』と、言ったまま、言葉より先に行動を起こした。そして、周囲の変わり果てた様子を察知して、『ああ、増水していたんだ』と、ため息混じりに言った。

 私たちも野外活動においては、ずぶの素人ではない。例え晴れて増水の心配がなくても、中州にテントを張るような馬鹿なことはしない。日本の河川の増水の激しさは、それなりに理解している。
 今回の場合、地形から見て三段(上図の①②③)の河岸段丘があったので、2段目までは増水の危険があると判断し、2段目の上の方に、オールを杭にしてボートを繋いだ。そして、3段目の草地にテントを張った。水面から7~8mの高さで、水域から30mも離れた土手にボートを引き揚げて、しかも杭を打ってある。それから、更に20mほど離れた草地にテントを張ったのだ。

 しかし、全てが想定外であった。最大なミスは、夜中に水位を確かめなかったことだ。昼間、Kと私の二人で2回、それぞれの偵察で2回、計4回、川の水位とボートの確認に出かけている。増水予想の水位より下であったことと、杭が緩んでいなかったことを確認して、安心していた。しかし、事態の変化は、私たちが寝ていた間に進行したようだ。

 台風の雨は、私たちのテントサイト付近では弱かったものの、天塩川の上流部では一晩中、激しく降っていたのに違いない。大雪山系からは、優に100km以上離れた下流であったが、私たちが寝ていた時間は優に8時間にも及ぶ。その間に、上流で降った雨は、次々に合流し、下流に向かい怒濤のように押し寄せてきた。そういう日本の河川の特徴について、私たちは、もっと慎重に対処すべきであった。

 

            *   *   *

 事故処理対応として、まず、部の待機責任者であるOさんに電話連絡した。
 山岳遭難と違って、当事者である私たちが元気であるので、『安全に帰札せよ』としか言えない。次に配慮するのは、ゴムボートが流されたことにより捜査が入ってはいけないので、地元の警察署に、事件の概要を電話で届けた。
 (cf 今なら大変な事になり、事情聴取されそうだが、当時は、「ああ、そうですか」で諒承してくれた。)

 

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 そこで、私たちの出した結論は、「流れて行ったゴムボートを見つけにいきます」という口実で、とりあえず、最終目的地であった天塩町天塩川の河口まで行くことにした。
しかし、あと20分のことで、一番列車に乗り遅れた為、駅で2時間待つことになった。
 駅の近くは、人家も少なく、空き家も目立ったので、鉄道の利用客はいるのかと案じていると、午前7時頃から少しずつ人々が集まって来た。高校生が、互いに挨拶を交わしながら現れた。この鉄道(当時の国鉄)の利用は、国道側の雄信内からも利用しているらしい。
 ちなみに、天塩川を境に行政区が違っていて、同じ「雄信内」という地名でも、鉄道のある方は幌延町で、国道40号線側の雄信内は、天塩町に属していた。
 『天塩川の増水、すごかったわね。』
 『また畑に、水が懸かるんじゃない』と話している女子高校生の声が聞こえてきた。

 事実、この後で乗ったディーゼル列車の車窓から見ると、川岸の低木が水の下になっていたり、広い牧草地や農地に水がかかったりしていた。下車して確かめたわけではないが、天塩川本流が決壊したり、氾濫したりしたわけではない。小さな川や支流からの水が、本流に流れ込めなくて、あふれ出しているようだった。強いては、天塩川の水はけの悪さということになる。

 天塩川は、北海道開発局の手で、その姿を変えられようとしていた。
 上・中流部の護岸工事や中州の除去、調節式の堰堤も目についた。下流部では、蛇行や三日月湖の埋め立てや、川筋の一本化などの工事も盛んだった。大砲のような管から、勢いよく泥水が排水され、大地を震え上がらせる発動機の音が響き渡っていた。そう遠くない日に、天塩川の川筋の姿も、大きく変えられてしまうかもしれない。
 内陸水路としての価値も失われ、寧ろ、その水はけの悪さの方が目立つ。発動機の響きに代わって、トラクターの快音がこだまし、牧舎が並んだ方がいいのかもしれない。
 しかし、天塩川の蛇行や三日月湖は、大自然の大芸術だと思う。同時に、動植物を守り育む貴重な自然環境でもある。できる限り、そのままの姿であって欲しいと願っています。


 【編集後記】  2019年(令和元年)10月11日(金)の午後から翌12日(土)の丸一日、台風19号による雨が続いた。佐久市でも24時間雨量303.5mmを記録した。 佐久市内の水害も多かったが、千曲川下流地帯の被害は更にひどかった。

  一方、2014年(平成26年)2月14日(金)夕方~16日(日)に降り続いた雪は、自宅庭での計測で、積雪95cmを記録した。

 大雨・大雪、いずれも、100年に一度と言われるような規模の自然災害だが、私たちは、一生の中と言わず、ここ5年ほどの中で、これらを経験した。天塩川のボート流失も、あの程度の雨で、寧ろ、生命が救われて良かったと感謝すべきかもしれない。