北海道での青春

紀行文を載せる予定

天塩川・エピローグ

 学生時代には、山行の後、コースタイムの記録とは別に、よく文章を書いた。ずいぶんあったが、逸散していて、残念に思う。この「天塩川」は、北大ワンダーフォーゲル部の道標(どうひょう・Vol 20)に寄稿したものが残っていて、比較的、原文通りに復元できた。
 ところで、なぜ川下りかと言うと、「憧れの蛇行」で述べたように、山国育ちの私には、大陸的・大河的なものに対する憧れがあった。大学を選んだ理由のひとつも、農業や酪農に抱いた若者らしい夢があったからだ。だが、最大な理由は、私の反逆性だろうと思っている。この辺の背景は、少し説明しないとわからないだろう。

 私たちのワンダーフォーゲル部は、当時あった山岳部、山スキー部、探検部、自然環境問題研究部などと共に、山行を主体としながらも、そのめざす山のレベルにおいて、広範囲の内容を含んでいた。夏山にしか行かない人もいたし、ニセコへの冬合宿などを除いて、1~2泊程度の山行に満足していた人もいた。しかし、推進派と呼ばれる人たちは、ほとんど山岳部と同じようなアルピニズムをめざし、外国の山を夢見て、厳しい冬山に果敢に挑戦していた。最大多数の主流派は、学生として安全性が確保できないという理由から、穏健な考えをもち、部が極端なアルピニズムに流れることに難色を示していた。
 この川下りを実践した時の私は2年生で、実績のある上級生からなる「リーダー会議」のメンバーではないので、内部事情は詳しくはわからない。しかし、少なくとも、私は、ヒマラヤをめざすことはなかった。また、積丹半島「赤岩」のロッククライミングの練習にも、誘われて数回参加したことがあるが、どうも肌に合わなかった。一瞬、一瞬の緊張の連続よりも、私は、のんびりと放浪したり、何日もかけて山を縦走したりしたかった。特に、長期間に渡る山行に興味があった。

 そして、浮上してきたのが、川下りと湿原を探索してみたいという計画だった。天塩川に決まるまでの経過は、「天塩川に決まるまで」に詳しい。
 リーダー会議では、一悶着があった。あまり実績のない2年生がリーダーとなることに議論が集中した。それにも増して、審議するリーダーたちが経験したことのない「川下り」計画の安全性を、どう検討すれば良いかという議論である。ただ、幸運なことに、『極端なアルピニズムが、危険だからと敬遠されるのなら、未知数の川下りも同様にするのか。部として多方面の同居性を保っていくという路線の中で、新たな道を開こうとする後輩たちを育ててもいいのではないか』という、M先輩ら穏健派が、K部長の決断を促したことだった。ただし、付帯条件が付いた。予備山行の実施と、十分な資料収集、危険箇所の現地視察だ。

 そして、いよいよ本番を迎えた。
 全12泊13日の計画であったが、9泊10日(8/19~8/27)となってしまった。
 ボートを流失した雄信内からは、あと1日の行程でサロベツ湿原に行けた。そのまま日本海へ向かった場合でも、あと1日半くらいで河口だったから、ほぼ終えたと言えなくもない。しかし、天塩川河口の砂浜で、1泊してから札幌に帰ったのだが、やはり心残りは、今でもある。

 その後、先輩や同僚たちから「川下りや平地ワンデリングは、どうする?」と聞かれることがあった。

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別海町の牧草地(330°の地平線)


 実際、3年生となった時、後輩のT君が、『地平線が見てみたい』と計画した、道東、別海町(べっかいちょう)など3泊4日の山行(平地ワンデリング)を、私は支援した。糠路湖で、「ベカンベ」と呼ばれるアイヌの人々が食べたという菱の実を採取して、一食分の主食にしたり、教員住宅におじゃまして、「ルイベ(鮭や鱒を凍結させた刺身)」をいただいたりした。
 その後の私の興味は、四季折々の山々や冬の山スキーに向かって行った。
 夏の知床半島(17泊18日)、厳冬期の十勝連峰東部樹林帯(9泊10日)、雪解けの日高山脈(5泊6日)、積雪期の暑寒別岳(8泊9日)など、定期的に行われた5月連休頃と、冬休みの合宿(3泊4日程度)以外では、長期間に渡る山行を好んだ。
 どうも、一週間以上でないと山行という気がしない。(宿泊数には、テント泊に加え、車中泊をカウントしてある。)
 部の既存の体制には、基本的に素直に従いながらも、どこか大した理由もなく、「新しいことに挑戦してみたい、人の大勢には逆らいたい」という気持ちが、私にはあるようで、多少なりとも、今でもくすぶっている。

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天塩川河口から利尻岳を望む

 【編集後記】 川下りから何十年後かに、文化祭の出品作を求められ、当時の印象を思い出しながら水彩画にしたものです。もしゴムボートの流失がなければ、無事にサロベツ湿原を探索し、再び合流点に戻って天塩川河口に着いた。最後は、日本海潮騒を聞きながら浜辺に上陸したら、「こんなだったろうな?」という想像の世界です。

 日本海の浜辺にテントを張って、夕焼けの利尻島利尻岳)を眺めたのは事実ですが、傍らにゴムボートはありませんでした。(これで、天塩川の川下りシリーズは、終わります。)