日高山脈は、北見山地から石狩山地(大雪山・十勝山系)と続く北海道の脊梁山脈のひとつで、地質的にも北海道を大きく二分、もしくは三分する時の境界である。鉄道は、石北本線が北見峠を越え、根室本線が狩勝峠を越えて、それぞれ道都・札幌と北海道東部との連絡を取っているが、物資や人の交流を遮る自然の障壁となっている。
日高山脈を挟んだ西側の「日高支庁」と東側の「十勝支庁」は、気候や産業を見ても大きな違いがある。北海道にあって両支庁とも、平野部では積雪量が少ない地域になるが、冬の寒さが厳しい十勝地方に対して、日高地方は、いくぶん暖かい部類に入る。この為、牧畜や牛馬の飼育が盛んに行なわれている。一方、内陸性気候の十勝地方では、広大な土地と夏の日照条件を生かした畑作農業が中心である。ふたつの地域の間には、日高山脈が立ちはだかり、山を越える道路もないため、人々の交流は少ない。
私の学生時代、昭和50年頃、ファックス通信や情報通信網、物流などは、十分に発達していなかった。札幌で読んだ新聞や少年漫画雑誌が、翌日の帯広で、最新号や新刊として売られていたのを見て、驚いたこともあったぐらいだから、日高地方と十勝地方の間の行き来は、特別な目的をもった人でない限り、なかったのではないかと思う。また、仮にあったとしても、行動に移す方法がなかった。唯一の方法は、日高山脈を山越えすることであった。
【忙中閑話】 野塚トンネル
何んと、私たちが登頂した野塚岳(1353.2m)の下に日高山脈を抜ける「野塚トンネル」が平成2年(1990年)、難工事の末に、開通したということを知った。トンネルの全長は、4232mだと言う。
日高側の浦河町から、十勝側の広尾町(豊似)へとつながる国道236号線は、その7年後、平成9年(1997年)に全線が開通となった。
それまでは、襟裳岬方面を迂回して行く国道336号線を利用するしか方法はなかった。それも黄金道路(おうごんどうろ)と命名されたように、道路からの太平洋や日高山脈の景色が、黄金のようにすばらしい意味もあるが、道路建設に多大な経費がかかったという別の意味もありそうである。
ちなみに、野塚トンネル付近の国道には、空を飛ぶ天馬のニックネームがあり、「天馬街道」と言うのだそうである。
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日高山脈の山々へ登るには、帯広から南に延びる広尾線(当時の国鉄、現在は廃止)に乗って、目的とする山のそれぞれの最寄り駅で降りてから山に入るルートと、日高本線の新冠(にいかっぷ)や静内などで降りてから行くルートがあった。
だが、駅で降りても、公共のバス路線が、深い沢の奥まで延びていることはないので、地元の農家や酪農家の方にお願いして、農作物よろしく、トラックの荷台に乗せてもらい、送っていただくことになる。山からの帰りも、お願いした時刻に迎えにきていただく方法もあったが、多くは予定通りに山行日程が進まないので、運良くヒッチハイクで親切な方の自動車に乗せていただくか、一泊ぐらいは覚悟して、ひたすら麓まで歩いて帰ってくることになった。その意味で、時間的にかなり余裕のある計画にしておかないと、帰りの食料がなくなってしまうこともある。
山に入ったら自分たちだけで、他のパーティーと会うことのない北海道の山の中でも、とりわけ人に会うことなど稀れな場所だと、覚悟しておかなくてはいけない地域だ。
そんな日高山脈に、二度挑戦したことがある。
一度目は、晩秋の「コイカクシュサツナイ岳からペテガリ岳」山行で、二度目は、雪の残る春の「トヨニ岳~野塚岳~楽古岳」山行である。
この内、ペテガリ岳への山行は、詳細なコースタイム記録が残っていた。
【編集後記】 今日から、「日高山脈」を載せます。プロローグで、いきなり野塚トンネルの話題を挙げましたが、自分たちの踏破した野塚岳の直下を車が走っているのは、感慨深いです。実は、上信越自動車道の八風山トンネル(上下線とも)の地上には、香坂(こうさか)川が流れていて、上流部の沢の地質調査や化石観察で何回も入りました。東京や関東と佐久の往還で、トンネルを利用する時、あの調査した所の下を自動車で走っているんだと、沢の様子を思い出します。
同じように、ぜひ北海道を訪れる機会があれば、野塚トンネルを通り抜けてみたいものです。(そして、知床横断道路も運転してみたいです。既公開・知床半島山行)