北海道での青春

紀行文を載せる予定

日高への逃避行

 教養部2年目の後期になると、学部移行の為の成績発表がある。
 そんなことにお構い無しに山行に行っていたら、既に、人々が成績のことを話題にしていた。学生課に行って、学籍番号を告げて成績表をもらうと、赤紙が付いた「Bランク・607番」であった。噂に聞く、赤紙が「これか」と思ったが、そう動揺もしなかった。

 しかし、下宿に戻り、しみじみと成績表を眺めてみると、止めどもなく涙があふれ出してきた。布団をかぶって、声を殺して泣いた。しばらくして、涙は止まるのだが、夕立雲が移動してきて豪雨となるように、再び思い出しては涙が出た。

 一番は、ふがいない自分に対しての怒りから発せられるものであり、第二波は、父母の苦労を1年先まで延ばしてしまうことへの申し訳なさである。そして、第三波は、希望していた「地球物理学科」に入る夢が失せたことであった。

 2cm×8cmほどの赤い紙が、成績表に貼られている訳は、必修単位が足りないので、教養部から学部へは移行できないということを意味している。英語の2単位と、物理実験Ⅱ、それに将来一番お世話になる地学実験の講座が、「不可」であった。外国語と自然科学の単位が不足していたのだから、致命傷を2箇所に受けたようなものだ。そんな分析は、後からしたことであって、無性に涙が出た。

 数日して(9月17日)、Aランクの人たちの学部移行希望の結果が、発表された。
 当時の理類(教養部)約1200人の内、ちょうど半分の600番の成績までがAランクで、希望する学部・学科が、埋まっていくシステムだった。当時、人気のあった学科は、農業生物学科(農学部)、地球物理学科(理学部)、土木学科(工学部)で、その次が建築学科(工学部)であった。私たちは工学部人気の世代で、土木・建築学科に優秀な理科系の人々 が集まった。

 しかし、昭和49年の「オイル・ショック」以降、その人気にかげりが見えてきていた。例年なら、確実にAランクで埋まるはずの土木学科に数名、建築学科では10名の空きがでた。これに、同じ部のM君は、泣いて喜んだ。現役で大学に入り、ひたすら建築学科を目標にしてきただけに、成績は私と同じBランクで、なかば諦めていた。しかし、Bでも上の方なので、希望が通ることは確実だからだ。(M君、心からおめでとう。)
 人気の学科に、成績の良い人が集まっているのは事実だか、成績の良い人でも、自分で学びたい分野や、個性に応じて志望しているので、単純な輪切りではなかった。

 文類では、競争率が低かったので、移行に関する話題には乏しいが、理類では、こんな泣き笑いがあって、それぞれの学部・学科に分かれて行った。しかし、私は、赤紙付きなのだ。そして、T君も赤紙仲間だった。『◆◆、一緒に仲良くやろうぜ』と、明るく言うT君だが、仲良くはやるけれども、明るく言い返せない私だった。

 成績表に付いた赤紙は、正式には「留置」と書いて、「とめおき」と読む。学生の間では、ドイツ語訛りの「ドッペル」という言い方が普通だった。学部移行や進級に関して、全体で6~7人に1人は、ドッペル人がいたので、珍しいことではなかった。先輩たちの中にも、同じ悲哀を味わった人も何人かいて、様々なエピソードも笑いながら聞いていた。
 しかし、自分が同じ境遇になるとは、思ってもみなかったし、実力もないのに希望がかなうと漠然と考えていた。

 思えば、講義をよくサボった。
 特に、土曜日にドイツ語と英語があって、これはかなり出ていない。土日を利用して山行や山小屋当番に出かけていたからである。しかし、ドイツ語は、辞書が黒くなるほど勉強したので、2講座とも「優」で通過した。ところが英語は、しっかりと出席を取り、時間中に全員が指名されるので、代返も効かない。

 さらに、ひとつの英語は、大学の先生らしくない教授が担当していて、『私は、皆さんの顔と名前を覚えることが趣味です』というくらいの先生で、実際、全員のことを記憶していてくれた。たまに講義に出ていくと、
 『◆◆君、久しぶりですね』と、声をかけられるので、恥ずかしい思いを何度したことだろうか。でも、そんな偉い先生のお陰で、私は運が悪いクラス(理類20組)だったと思う。T君も隣りの組(理類19組)だった。しかし、自然科学の講義のいくつかを「不可」としたのは、弁解の余地がない。

 後期は、時間を持てあましていた訳ではないが、暇だった。皆が、仮学部生として、それぞれの学部や学科で、基礎的な内容の講義を受けている時間がフリーになるので、部室へ顔を出してみると、T君がいた。いつも明るいT君と話していると、いろいろな山行計画が、頭に浮かんだ。そして、それらを実行していった。ある意味で、寂しさを紛らわせる山行であったのかもしれない。このシーズンの積雪期だけで、部に管理を任されていた奥手稲の山小屋の小屋番を含め、延べ日数で、60日以上、雪の上を歩いていたかもしれない。

 

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 ところが、私の悩みはなかなか消えなかった。
 私は、地球物理学科に進み、地震や気象に関する勉強がしたかった。そんな思いをつのらせて、珍しくお正月休みに帰省した折り、父に相談した。
 『北大を休学して、他の大学受験をさせてくれないか』という内容であった。地球物理学科のある名古屋大学か、京都大学のように、直接、学部・学科に入れる道を考えていた。
 当然、父は反対したが、不思議と『合格するはずがないから、止めろ』とは言わなかった。そして、『これも魅力がある。俺だったら、ここがいい』と、北大の理科系学部・学科のプロフィールや研究内容の掲載された冊子を見て、いくつか丸印をつけてくれた。
 しかし、どのページや印の箇所を見ても、少しも心は動かず、寧ろ、なぜこんな魅力のない学部や学科に、父は興味が湧くのだろうと疑問に感じた。私は、癒されないまま家を後にして、札幌への列車に乗った。

 

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 先に挙げた有名大学の学部・学科に、自分が合格するはずがないと、後で客観的に考えて思った。それに、田舎の純情さをばねに、親元を離れて暮らす都会生活の寂しさを受験勉強に転化したエネルギーは、たぶん残っていなかったと思う。

 今は、寧ろ、北海道の大自然の中で学んだことは、自分の人生にとって、大きな意義があったと感じているし、何にも増して、地質学・鉱物学科(理学部)で学んだことや、大地の歴史を究明する為に、岩石ハンマーを振るう地質調査が、ライフワークになったことに感謝している。


 人生についての単純原理は、「人生は、これだけしか無いのではなく、真剣に取り組めば、どこにでもすばらしい事がころがっている」ということである。
 「世の中が、これしかないとか、こうでなければならないと信ずれば信ずるほど、そのものの不完全さの為に、喜びが見いだせないばかりか、周囲にある様々な喜びや価値を見失うことになる」ということを強く感じた。越えられないと感じていた壁も、生きてみると、越えていたとわかったのである。だが、そんな思いに至るには、さらに何ヶ月か先のことであった。

 

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 冬の十勝岳東部森林地帯の山行の後、さらに、私の神経を苦しめる出来事が生じた。
 それは、3月の初め頃までの約一ヶ月半ほどの間、国文学レポートの制作に没頭してしまったからだ。レポートの内容は、「夏目漱石の文学作品におけるキーワードを自分で設定し、作品における効果について分析し述べよ」というものであった。

 世間では朝となるが、私は午前7時頃に寝て、昼過ぎの午後1時頃に起きる。それから、インスタントラーメンを食べて、午後から朝までの一晩中、夏目漱石の文学作品を読み続けた。同じ作品を3~4回は読んだかもしれない。(ちなみに、川端康成の作品も、ずいぶん読んだ。)
 その間、数日に一度、風呂に出かけたのと、150m先の店にインスタントラーメンを買いに行く以外、外に出たことがなかった。今になれば、何を書いたのか良く覚えていないが、評価が「優」であったことだけは覚えている。

 高校生の頃や大学浪人をした予備校生の時、解けない数学の問題があると、学校を休んでしまい、難問を考え続けていたような変なところがあった。ここぞと思った時の集中力や没頭ぶりは、時々、発揮したが、こんな生活が、肉体的にも精神的にも良いはずはない。自分で自分を苦しめていた感もある。
 救いであったのは、酒・友・山行であった。
 そんな折り、T君から「春の日高に行こう」という誘いがあった。

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雪解けの沢に咲くリュウキンカ

【編集後記】 本文の内容は、あまり自慢できるようなものでもないし、公表するような内容でもないかもしれないが、私の大学生活の中での大きな出来事であった。今では、苦悩を乗り越えられた自分への自信の一部になったような気さえしている。