北海道での青春

紀行文を載せる予定

大好きな國・台湾とともに

1.はじめに

 学生の頃、WV(ワンダーフォーゲル)部員だった私は、積雪期の山や夏の沢旅、平地ワンデリング、ゴムボートでの川下りなどの活動を通して、未知の土地や自然を訪ね歩くことは、「エクスペディション(expedition)・冒険や調査の為の遠征」だと思うようになった。雪山で気象や雪崩、動植物調査をするような山行を「エクスペデションごっこ」と名付けて、計画したこともある。極地研究や未開な土地の自然調査をすることへの、学生らしい憧れでもあった。

 だから、K団長から『台湾自然観察の旅』のお誘いを受けた時、忘れかけていた雰囲気を思い出して、参加を即断した。たまたま、喪中の正月である条件も重なった。

 だが、同行する3顧問先生方を始め、若手も各専門分野の力に長け、私が地学分野で何ができるだろうかと思うと、「ごっこ」では済まないなあと感じた。この思いは、ずっと付いて回った。

 帰国後、まとめをしたが、台湾で観察してきたことが、地質学的にどんな意味をもっているのか、もう少し専門的に理解する手段がない。正確な地形図が手に入らず、車中からの推定調査も、これに輪をかけた。しかし、私にとって未知の台湾の自然、そして人々との出会いは、楽しい思い出になった。
 
2.外国人としての台北市内観光

 第Ⅳ次台湾自然観察の旅に参加した皆さんは、海外旅行経験も豊富で、台湾には何度も来ておられる。台北市内での一日自由行動も、調査活動やマニアックな過ごし方をする人が多かったが、私は、市内観光をすることにした。

 まずは、故旧(クウコォン)博物院である。一階歴史コーナーに、先史時代から古代、中世、近代の王朝史を経て、中華民国の誕生(1912年)に至る過程が展示されていたが、この国のもつ歴史的背景と政治的位置の複雑さを感じざるを得ない。

 cf:*先史時代・夏/殷/西周/春秋戦国/秦/西漢東漢/三国/晋/南北朝
     随/唐/五代/宋/元/明/清・*中華民国

 それは、台湾に住む漢民族のルーツ探しではあっても、台湾自身の歴史ではないからである。

 同類の疑問は、中正(チョンチャン)記念堂でも感じた。大仏のような「蒋介石」像の両脇に、不動の姿勢で立つ衛士の姿を見た時、生理的な違和感を覚えた。やはり、ここは、外国なんだなあという意味において、である。

 戦前の日本統治時代に建てられたレンガや石造の総督府(現・総統府)、現代の超高層ビル・新光(シンクァン)摩天楼、西門站周辺の市街地などを歩いた。

 孔子廟(クゥンツミャオ)の上空は、松山機場(ツォンサァン・チーチャン)へ着陸態勢に入る航空機の航路に当たり、爆音と共に大小様々な機影が見えた。お線香の香りが漂う中、現代の台湾を象徴しているような気がして、廟の廂(ひさし)にかかる航空機を狙ったが、シャッターチャンスを逃してしまった。

 ところで、市内観光は、簡単な地図と方位磁石を使い、オリエンテーリングの要領で見学できたが、やはり言葉の障壁は大きい。筆談も可能だと言うが、食堂での注文ひとつでも大変だった。自分が外国人であることを、極めて強く意識する瞬間だった。

 

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中正記念堂と背後の高層ビル群


3.台湾の子どもたち

 1月3日(水)の昼頃、東門国小学校の下校風景に出会った。特別な日なのかと思ったが、郭先生の話で、漢民族のお正月は旧暦で祝い、水曜日は土曜日課(半日)の学校が多いと聞いて、納得した。

 しかし、下校風景は、日本のそれと少し違っている。街頭指導に、学校の先生や警察官、児童会の上級生が当たるのは不自然ではないが、保護者の迎えが異常に多い。スクーター、自家用車、それに学習塾のマイクロバスが、校門付近の道路に横付けとなって、子どもたちの帰りを待ち受けていた。

 ひとりの男の子は、祖父らしい人から耳を引っ張られ、頭をこずかれ連れられていく。言葉はわからないが、推理するに、予定時刻を過ぎて下校したので、叱られているらしい。学校が半日で終わった後、学習塾などで勉強する半日が待っているのであろうか。

 第Ⅲ次隊報告(M先生の頁)から、国防・防災上の理由で、女子児童のスカート姿がない事情はわかったが、保護者や先生方も含めて、全員がズボン姿の女性たちである。

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小学生の下校風景と迎えの車など



 次にわかったのは、授業時間数の多さである。張先生の息子さんからの情報によると、小学校で一日7時間、中学・高校では8時間授業だと言う。6時間目で悲鳴を上げている日本の実情からは、想像もつかない。

 カリキュラムの中で、「三民主義」と「自習」の時間がユニークである。それぞれ詳しくは聞かなかったが、自習は、不得意教科の特訓やノートの整理、質問に使う時間だと言うが、学校生活に多少の「ゆとり」を生み、個のペースに対応した時間だと感じた。

 ふたり(中学生と高校生)の清々しさと、逆に甘えない一個の人間としてのバランスの良さを見ていると、台湾の学校や社会教育の水準の高さを感じる。

 街の食堂で隣り合わせた男子高校生らしい3人も、同様であった。台湾には珍しい、食券を購入する食堂で、(私がどうすれば良いかわからなかったので)カタコトの英語で話しかけたら、私が日本人であることに驚きながらも、親切に教えてくれた。

 

               *  *  *

 

 台湾の家電・コンピューター関連の一流企業である大同(TATUNG)公司が経営する理工系の高校と大学の一部を見学する機会を得た。ギリシャ風な神殿を模した白亜の大講堂内部は、天井が高く、広大な宇宙が詰まっているような感じがした。ここに集う学生たちも、厳かな雰囲気と理想や希望を抱いて、日々学んでいるように見受けられた。

 【cf:「仁愛郷」で、小中学校合同の運動会の様子をしばらく見学した。その場で、豚を生け贄にしたセレモニーを見て、驚いた。2000年・12月30日(土)】

 

 私の見た台湾の子どもたちの姿は、一部の表面だけだったような気はするが、意欲的で健全だと感じた。受験競争が激しそうだという印象と、全体主義的な色彩が感じられなくもないが、はつらつとしていた。日本で増えつつある不登校や反社会的な問題行動は、どうなっているのだろうかと思った。衛星放送から入る日本の娯楽テレビ番組は、台湾の中で異質文化に感じられ、退廃的な文化イメージがついてまわった。(私感ですが・・・)
 彼・彼女らも見るであろうが、どんな風に感じているのだろうか?

 

4.おわりに

 台湾でお世話になったK先生、Ch先生、Ko先生、T先生、ご家族の皆様(以上、台湾の方々)に感謝申し上げます。また、同隊にあって、私を暖かく迎え入れ、数々の便宜を図ってくださった皆様に感謝致します。ありがとうございました。

 

  【編集後記】  2000年(平成12年)から2001年(平成13年)に移りかわる(日本の)暮れから正月にかけて、台湾を訪問した。目的は、台湾の自然観察の旅であったが、当時、『軍事機密に当たるから?』という理由らしいが、日本の国土地理院で発行しているような5万分の1地形図のようなものが、書店で売られていなかった。それで、観光案内用の極めて「ラフな地図」を使って、それをトレーシング・ペーパーに写したり、フィールド・マップを作成したりして、地質のまとめをした。

 この文章は、帰国後に発行した冊子の個人ページに載せたものです。

 尚、「小学生の下校風景と迎えの車など」の写真の元が見あたらず、冊子から採用したので、白黒写真となってしまった。雰囲気は理解できると思う。