北海道での青春

紀行文を載せる予定

動物の不思議な行動(後半)

 翌、4月6日の夕暮れ、ニホンジカ10~12頭ぐらいの群れと出会った。
 場所は、春日温泉から望月少年自然の家に通ずる林道である。自動車で林道を運転していたら、目の前をシカの群れが横切った。すぐにエンジンを切り、後部座席に常備してあるカメラを持って外に出た。

                 *  *  *

 何度か、ニホンジカには遭遇していたが、この出会いは、驚きの3回目である。

 1回目の驚きは、ちょうど1年ほど前、初めて野生のニホンジカを見た時である。望月町(現在は佐久市望月)の長者原(ちょうじゃはら)から大木(おおぎ)に至る麦畑で見た。時刻は午後6時、日没直後の時間帯で、4頭のニホンジカが麦の若芽を食べていた。シカの大きさと群れの雰囲気から、1頭の母鹿と3頭の子鹿だと想像した。夕陽の残光を背中に受けて、4頭のシルエットは、実に感動的だった。その時は、簡易カメラが置いてあったが、シャッターチャンスを逸してしまったことを後悔している。

 2回目の驚きは、望月少年自然の家から山を回って帰宅中の夜9時頃、自宅から1kmと離れていない自動車道路の脇に、1頭の雌のニホンジカが、立って目を輝かせていた。動物の目は、闇の中でよく光る。我が家は佐久平でも西の端に当たり、すぐ先は山に覆われている。もとより田舎だと思っていたが、野生動物に私たちが気づかないでいるだけで、人里近くまで下りてきていることに驚いた。

 そして、3回目の驚きである。こんなに多くの頭数のニホンジカの群れに出くわしたのは、初めてであった。しかも、角のしっかりとした雄(♂)のシカに率いられた群れだった。

 群れは、道路を横切ると、駆け上がった斜面の途中で、一斉に立ち止まった。そして、先頭に近い雌シカと、最後尾の角の立派な雄シカの2頭だけが、こちらへ軽く振り返っているだけで、他のシカは、前を向いたままである。こちらを振り返ろうともしない。

 草食動物の目は、顔の横に付いていて、一周360°は見えないにしても、前を向いていても後ろの方まで見えるのだということを教科書で学んだ。たぶん、私の姿は視野の中に入っていたはずだ。
 私は、静かにドアを開けて外に出た。
 ドアを閉める時の音がややしてしまい、「しまった」と思ったが、シカの群れはぴくりとも動かなかった。「ラッキー」と思い、ファインダーを構えた。
 ピントを合わせたが、雑木林の背景の中で、シカは保護色となってしまい、姿は良く見えない。「いい写真にはならないかもしれない」と思い直し、シャッターを切るのを止めて、ファインダーを下げて、最後尾の雄シカを見た。

 一瞬、視線が合ったような気がした。
 すると、その瞬間、特別な合図があったわけではないのに、群れは、あっという間に、雑木林の中を駆け上り始めた。しばらくは、林の中で見え隠れしていたが、枯れ葉を踏む音を残して、消えてしまった。「たとえ失敗しても、バシバシ撮っておけばよかった」と思っても、後の祭である。

 私は、急いで、シカの横切った付近の斜面に近づいてみた。切り通しの赤土の上には、群れの足跡が残っていて、慌てているかのように、スリップ跡があった。反対側も急な斜面で、微かに獣道(けものみち)がついていた。春日渓谷から、協和(きょうわ)の沢へ抜ける動物の道なのかと、感慨深げに遠くの沢と雑木林を交互に見比べてみた。


 私には、疑問に思うことがいくつかあった。
 (1)なぜ、そのまま逃げないで、群れの動きを止めて、私の動きを見たのだろうか。
 (2)「角のある雄シカが率いた」と表現したが、確か角のあったのは1頭だけだった。 (子どもの雄シカはいたかもしれないが)なぜ、雄シカが、最後尾だったのか。
 (3)先頭と、最後尾の2頭だけが振り返り、他のシカはお行儀よく前を見ていたのか。

 (4)なぜ、カメラを向けた時に、群れは逃げないで、私と雄シカの目線が合った時に、逃げ出したのか。
 (5)確か、一斉に動き出す時、鳴き声とか足音とか、何も私には聞こえなかったが、何かの合図(サイン)が、あったのだろうか。

 動物の行動を擬人化するも、勝手な想像をするのも、きっと真実から遠ざかるような気はするが、敢えて推理・解釈をしてみたい。

 ニホンジカにとって、立ち止まらずにそのまま逃走した方が、群れの安全は、はるかに確保できたはずだ。しかし、立ち止まったのは、シカの好奇心からかもしれないと思う。私が得体の知れない存在ではあるが、それ故に、何ものかを確かめたかったかもしれない。そして、約10mという水平距離と、約4mという高さの山の斜面は、相手(ヒト)には、到底、駆け上がれまいと判断した野生動物の「間合い」だったのだろう。

 実際、ヒトの運動能力など、ニホンジカと比べてみるまでもなく、まったく取るに足らないものであり、寧ろ、十分過ぎる距離だった。
 だが、私の向けた筒先が、カメラだからいいようなもので、もし、銃口だったのなら、この「間合い」では完全に不十分だった。雄のシカに、そんな判断力があったとはとても考えられないが、私は、シカに警戒されまいと懸命に努力した。しかし、無為に終わった。

 次に思うのは、雄シカの位置である。
 シカの群れは、家族のような単位を中心としたものだが、成人した雄同士が、雌(♀)をめぐって争い、雄シカを追い出す。勝利した雄シカは、複数の雌、つまりは二号さん、場合によっては三号さんも手にいれるらしい。だから、群れのリーダーである。

 群れが移動する時、普段、どこの位置(先頭・中間・最後尾など)にいるか知らないが、少なくとも私が目撃した群れでは、最後尾にいた。ただ、群れが静止した時に最後尾にいたのであって、その前の移動中は見ていない。私の想像では、移動中は前の方にいたが、群れに止まれと命じた後、後ろに来ていた可能性もあると思う。

 教育テレビで、アフリカのサバンナ草原をヌーの群れ(大群)が、列になって移動している映像を見たことがある。群れのリーダーは、先頭になって進んでいるが、時々、止まり、群れの後方が遅れていないか確かめる。しばらく待って、群れが追いついて、まとまると歩き始めていた。「実に賢いリーダーだ」と思って見た記憶がある。

 同じ草食動物のニホンジカでも、危機管理の任に当たる雄シカは、得体の知れない不審者に一番近い位置に着いたと想像するのだ。群れに対して、「止まれ。俺の合図があるまで前を向いて動くな。」、そして、先頭の第一婦人(雌シカ)に、「後ろを向いて見ていろ」と命じたのではないか。ここまで、擬人化すると、自分でも滑稽だが・・・・。
 だが、小学生児童の隊列でも、教諭が「皆さん、しばらく待ちなさい」と指示しても、大概一人ぐらいは、後方で何があったかと、きょろきょろして振り返る者がいる。

 草食動物の目の付き方で、理由の一旦は先に説明をしたが、私には、2頭以外のシカが、前を向いたままでいたことが、とても不思議だった。
 だから、群れが一斉に逃げ出したのは、シカにしかわからない合図が、絶対にあったと思っている。

 ところで、カメラの覗きではなく、生身の眼光を雄のシカに向けた時、群れが突然、逃げ出したことについては、少し思い当たる節がある。

 私の目には、好奇心以外の何の悪意もなかったが、雄シカは、次の動作に移る前触れだと見て取ったのだと思う。ヒト否、動物としての目が持つ力、眼光は、それほど大きな武器なのだろうか。そんな風に考えた時、昔の思い出が強烈に蘇ってきた。

 

               *   *  *

 

 それまで、ユートコントロールのエンジン飛行機を趣味にしていたが、同級生のY君の自宅へ遊びに行った時、彼の飼っていた「伝書鳩」が欲しくなり、鳩と飛行機を物々交換した。飛行機に未練はあったが、Y君の20羽近く飼育している中から子鳩をもらうのだし、何よりも、けたたましいエンジンの音もなく、雄大に大空を飛行する鳩の方が、はるかに素晴らしい存在に思えて、そんな決断をした。

 さっそく、ウサギ小屋であった箱を改良し、水飲み場や餌箱を準備した。そして、成長してからは、「トラップ」と呼ぶ伝書鳩用の入口の入り方の学習もさせた。トラップは、外から巣に舞い戻った鳩は、中に入れるが、中から外へは出られない仕組みになっていた。

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伝書鳩の小屋と入り口(トラップ)

 

 可愛がって育てた鳩の成果が出るか否かは、屋外で放した鳩が、確実に鳩舎へ戻るかどうかに関わっている。最初は、雌雄の「つがい」の内、片方だけを近くから放ち、帰巣するのを確認しながら、交互に距離を延ばしていった。

 トラップの内側に、餌が見えるようにしておいてから、しだいに餌なしにしていった。それに、鳩にとっては必要なかったかもしれないが、長い竹竿を使って紅白旗を目印に掲げ、我が家と巣の所在を知らせる努力もした。

 やがて、片方ずつだと確実に巣に帰って来るのを経験した後、2羽を同時に放つ決心をした。これには勇気が必要で、2羽ともどこかへ飛んでいってしまう恐れがあるからだ。

 妹と一緒に、家から1kmほどの水田地帯へ、籠に入れた鳩を連れて行き、大空に放った。しばらく旋回していたが、我が家の方向を見つけたらしく、2羽が飛んでいくのを見て、懸命に走った。息せき切って鳩舎に戻ると、雌鳩(♀)は、既にトウモロコシをつついていて、安心した。物陰に隠れて様子を見ていると、しばらくしてから雄鳩(♂)も戻ってきた。伝書鳩として優秀なのは、どうも雌鳩の方らしいということが、わかってきた。
 それ以来、少しずつ距離を延ばし、自転車で連れていかなければならないほど遠くから、鳩を放ったり、自宅の上空を、鳩が悠々と旋回飛行するのを楽しんだりしていた。 

 だが、放った鳩が、鳩舎に戻るのが当たり前になると、物陰に隠れて帰りを待つ不安感や緊張感もなくなり、さっさと他のことをするようになっていた。
 中学1年生の春休みのことである。
 二階の自室で、休みの宿題をやっていると、雄鳩(♂)が電線に留まっているのが見えた。放たれた後で、地上に下りたり、木や電線に留まったりしてしまう伝書鳩は、優秀でない証拠である。雌鳩(♀)は既に巣に戻っているはずだと思いながら、雄鳩の戻るのを待っていた。鳩のことを忘れかけていた頃、鳩舎の方で激しい羽ばたきと、物がぶつかる音がした。何ごとが起きているかと、私は小屋に駆けつけた。

 金網の中を覗くと、雌鳩(♀)の白い胸毛から血が流れていた。そして、傍らに猫がいた。

 猫は、私に気づいて顔を向けた。非常に顔の大きな猫だった。

 この瞬間、私はどんな事件が起きていたのか、一応の理解ができた。そして、猫の顔の中の目と、私の視線が合った。

 猫の目は、恐怖と驚きの目のようにも見えた。完全なる沈黙と、全ての物が静止したような一瞬の刻(とき)が流れ、次の瞬間、猫は巣箱の中を恐ろしい勢いで回り始めた。巣の板塀に、何度も激しく体当たりをした。そして、最後はトラップに頭からぶつかるようにして突っ込んで、アルミニウム製のフレームをねじり曲げて逃走した。

 その後で、私の目からは涙があふれ出て、それから大きく息を吸い込んだ後で、ようやく泣き声が出てきた。
 野良猫の目と遭遇した時、その時点での私の目は、憎悪や敵意に満ちたものでは、決してなかったと思う。何が起きたかは理解したが、ただ驚いて、もっと様々な情報を得ようとして観察している目だった。だが、その目に対して、猫は異常過ぎるほどの反応を示した。
 人の目、「目」というものは、諺(ことわざ)通り、多くのことを物語るものなのだろうか。人間は、目の中に、慈愛や好奇心、好意なども感じ取ることができるが、野生動物には、敵意や恐怖心しか、本能的に嗅ぎ取れないものなのかなあと思った。
 それで、私が生身の目、視線を雄のニホンジカに向けた時、それがシカの目と一致して、俗な言い方をすれば「ガンをとばされた」と映ったのかもしれない。次の怪しげな行動を起こす前触れと理解して、群れを安全な所へと避難させたのではないかと解釈した。

 後日、ものの本で、他の動物と比べると、動物として見たヒトの目の特徴は、白目を挟んだ中に瞳(この色は、人種によって黒、青、茶とかあるが・・)があることだと知った。この白目であることが、目の動きをわかりやすく、何を考えているのかを、互いにわかるように機能させているという。

 さらに、十分に発達した顔の筋肉を操り、笑いや怒り、嬉しさや悲しさ、軽蔑や尊敬、憎悪や好意など、様々な表情をつくれる機能と合さり、人間としての知性が、互いの心情を慮れるのだと言う。
 そんな我々人類も、将来、もし、未知の宇宙生物と遭遇した時、彼らの目らしきものを見て、どんな反応をするだろうか。案外、野生生物と同じような気持ちになって、出会うことはないだろうか。

 

【編集後記】 東京五輪パラリンピック)大会があるからと言う訳ではないが、趣味で世界の国名と首都を英語で覚えたり、人口・公用語・地理・簡単な歴史などをインターネットを使って少しずつ調べている。当たり前とも思えるが、世界には日本の県や市ぐらいの人口規模の国家があったり、歴史的紛争の原因が民族対立(場合によっては宗教・文化の違い)であったりすることを知る。本文で、人(正確には私の感性)と動物たちとの違いを述べたのだが、人種や民族などの違いは、ヒトの知性や欲望・打算などが加わる要素があるので、複雑化・深刻化するのだろう。文末の宇宙人の話題を出す前に、世界の人々との出会いですら、そんなものかもしれないと案じてしまう最近の国際社会である。