北海道での青春

紀行文を載せる予定

誰がために馬は走る(前半)

 北佐久郡望月町(現・佐久市)では、平成元年から「草競馬」を復活させ、毎年、11月初旬に開催している。望月駒の里「愛馬会」を中心に始まった草競馬も、今年(平成9年11月3日・文化の日)は、出走馬も100頭を超え、町を上げての一大行事となった。

 幸いにも快晴で、馬場を整地するのに散水するほどであった。日差しに頭は暑いものの、辺りの空気が澄み切って清々しいのは、さすが初冬だと感じた。44歳を迎えての第2日目、私は、草競馬を観戦しながら、様々なことを見聞きし、考えた。

 まず、草競馬というもの自体が、実にのどかで、馬の魅力を十分堪能させてくれる。
 驚いたことは、馬のスタート風景である。藁縄で代用した「しめなわ」が、長い二本の青竹の先端に渡してあり、その真下が、スタートラインとなっている。しかし、そこから馬が並んでスタートするわけではない。一頭ぐらいはラインの付近にいるが、他の馬は、10~20mも後方にいて、しかも、横向きだったり、後ろ向きだったりしているのに、スターターは、大きな白旗を振り下ろして、『ようし、さあ走れ。いいとこ見せろ』と、スタートさせてしまう。

 後ろ向きの馬の騎手は、慌てて馬の向きを変え、馬の腹を蹴って合図を送る。馬は、それから走り出すことになるので、先頭の馬は、既に40~50mも先を走っている。
 かと思えば、スタートラインで、じっと待っている馬に対して、後方から勢いよく走り込んできた馬が並ぶと、スタートというケースもある。時間的、空間的には同時スタートでも、既に十分な加速度をもっている馬は、あっという間に他の馬を抜き去って、それを真面目な馬が追いかけることになる。『汚ねえぞー』などと、周囲から野次が飛ぶ。

 一方、スターターが白旗を振り下ろそうとしているに、『まだだー。ちょっと待て!』と、後方の騎手から声がかかる。馬がスタート体制になっていないからだ。役員は思わず手を止めて旗を戻すが、前の方の馬は飛び出してしまい、スタートはやり直しになったりする。

 その逆もあり、『おーい、後ろの馬、もっと前に出てこい』と、スターターは催促するが、『ここで、いい』と、馬に代わって、騎手が代弁する場合もある。

 スターターの役員や騎手にとっては、とても神経を使う場面だろうが、観戦する側からすると、まことに滑稽で、面白い光景である。もし、まだ見たことのない人や、競馬といえば、ゲートから一斉にスタートするものと思っている人がいたら、ぜひ見てもらいたい草競馬の醍醐味のひとつでもある。

 だが、どうしてこんなスタート風景になるのか、考えてみよう。
 ひとつは、物理的な問題で、スタートゲートがないからだ。騎手は、スタートラインに馬を並ばせようとするが、馬は理解できないらしく、まさに馬耳東風なのである。中には、馬の機嫌が悪いからか、他の馬を待たせておいて、ウォーミングアップで周回させている騎手もいて、場内アナウンスで催促されている。

 要するに、馬はスタートラインになど、並ぶ気は毛頭ないのだ。本物の競馬(JRA)のスタートでも、なかなかスタートゲートに入らなくて、最後の馬が入るや否やゲートが開く光景は良く見る。だから、どうしても並ばせようとするには、スタートゲートが必要になる。草競馬では、そんな施設が整っていないから、仕方がない。

 もうひとつは、スタートの多少の遅れや先行は、馬にとって、あまり意味のないことのように感じたからだ。それは、短距離選手が、耳に全神経を集中させ、スタートの合図を待つのに対して、マラソン選手は、腕時計のストップウォッチを押しながらスタートする感覚に、多少は似ている。さらに、馬が、スタート意識をもつのは、ヒトと本質的に違うのではないかと思い始めていた。

 当初、私は、スタートラインに着いた馬を待たせておいて、軽く馬場を回ってきてから、突如、相手の虚を衝くかのように、勢いを付けてスタートした馬を見ていて、「なんて、卑怯な馬だろう。馬だから許されるけれど、人なら非難囂々だ」と思っていた。そして、そんな馬が他の馬に抜かれると、「ざまー、みろ」などと、快くも感じたのだが、それが間違いだと気づくようになった。

 後ろを向いていて、遅れてスタートした馬が、ビリなのかと言うと、必ずしもそうではない。では、他の馬を出し抜いて、走り出した馬がトップなのかと言うと、そうでもない。出足が優れた馬が有利なのは違いないが、スタートの仕方と順位は、あまり関係ないことを発見したからだ。

 馬が走り出した後、「あんなに離れていたのに・・・」と見ていると、まるで自動車のアクセルを全力で踏み込んだ時のように急発進して、前を行く馬にみる間に追いついてしまう。全力で急加速したのだから、今度は、前の馬がスパートすれば、追いついた方の馬は息切れして離されてしまうのかと思えば、双方一歩も譲らない。ここから、馬同士の勝負が始まるのだ。

 もともと、スタート合図は、人(騎手)へのものであって、馬にとってのスタートではないらしい。それが、後続馬と先行馬が並んで、「相手が走っていること」を意識した瞬間に、走ることへの本能の火が点火され、馬にとっての、本当のスタートになるのではないかと感じた。その結果、走力のある馬は、先行馬をみごとに抜き去るが、力不足の馬は、どうあがいても抜けないのである。

 スタートラインに真面目に早く着ける馬も、いつまでも落ち着かないで待たせる馬も、これもまた、馬の個性なのだと思うようになった。騎手らは、そのことを十分に理解しているのだろう。だから先行して走りたがる馬をじっと抑えたり、ここぞという場面では、激しく鞭を打って馬を奮い立たせたりする。まさに人馬一体となって疾走する姿は、本当に素晴らしい。

 そして、何よりも、生き物とは思えないような、疲れ知らずの機械のような正確な走りと、天女が自在に舞うかのような華麗さが、見ている人々を魅了するのである。だから、草競馬のスタートは、いつしか不公平感も薄れ、ドラマとして見てしまっていた。

 

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 ところで、農耕馬や道産子、ポニーなどの走りと比較すると、競走馬(サラブレッド)の特徴は、ますます際だって見えてきた。

 『だめだ、馬を止めろ。農耕馬は、きれいなスタートを見せてやれ!』と、スターター役員が大声で叫んでいる。それぞれの騎手が、手綱を引き締めると、馬は一斉に前を向き、静止した。そして、合図の白旗が振り下ろされると、各馬は、同時に駆けだした。その整然としたスタートのみごとさに、感動してしまった。

 ところが、走る姿は、まったく別物である。
 コーナーを曲がってから、直線に入る馬を前から見ると、筋肉が盛り上がり、幅広い身体は、まるで相撲の力士たちが突進してくるようで、威圧感がある。蹄の作り出す地響きは、実際に大地も震らす。そして、遠ざかっていく後ろ姿を見ると、なぜか太めの女性のお尻を見ているようで、この後、何と表現を付け加えればよいかわかりませんが、独特な雰囲気があった。

 走っていても激しい息づかいが聞こえ、中には息切れがしたのか、駆けるのを止めてしまう馬もいた。同じ馬と言っても、素晴らしい走りを見せるための馬ではないことはよく理解できた。農耕馬は、主人(騎手)の言うことを忠実に聞いて、ゆっくりと着実に、農具を引いたり、重い荷物を運搬したりすることが仕事である。見栄えでは勝負をしない馬のようだ。

 一方、ポニー馬も、実にユニークである。
 小型の馬で、性質が穏やかなせいか、将来の名ジョッキー(子ども)や、馬術や馬の扱いに未熟な人が、騎手として乗っていたのだろうか。きっと本来は扱い易い馬なのだと思うが、いくつかのハプニングがあった。

 騎手を振り落として、馬だけが他の馬といっしょに駆けて行ったり、レース中にコースを外れて外に出てしまったり、はたまた、騎手の静止を無視して、いつまでも止まらないまま走り続けていたりと、草競馬ならではの光景が、あちこちで見られた。

 

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 そんな馬たちの姿を見ていると、私は、「ひとつの才能を伸ばす為には、大切な犠牲を払う必要があるのではないか」などと、妙なことを突然考え出していた。
 競走馬(サラブレッド種)は、どの馬も神経質で、なかなか思うようにスタートラインに集められない。ようやくライン付近に来ても、絶えず周囲の気配を気にしたり、前を向けずに騎手を苦しめたりしている。
 そんな中の一頭が、騎手の意図とは反対に、後退りしてきて、観戦場所と馬場を区画していた柵の横板を割ってしまった。さらに、騎手の制止を効かず、前脚で土を掻いて興奮し、杭にぶつかってきた。『早く、子どもをどけろ!』という役員の声が聞こえてきた。比較的近くにいた私は、その場を逃げ出していたので、その声を聞いて、ちょっと恥ずかしくなった。

 ・・・以前、望月の「馬事公苑」で、母子が馬の鼻面をなでているところへ、私も加わろうとして近づいた時、『あっ、馬が恐がっている』と、小さな子どもの声がして、見ると、馬は耳を後ろに伏せ、前脚で土を掻いていた。私は、馬からも警戒され、母子からも、「恐いおじさん」と思われたらしい。自分だけが逃げて、子どものことをすっかりと忘れていた。・・・いかんなあ。

 その後も、馬は、なかなか制止を効かず、特に、馬が後ろ向きになった時、後ろ脚で柵を蹴飛ばされるのではないかと、恐怖心すら覚えた。やがて、役員の方が来て、手綱を下から引くと、馬はようやく落ち着いて、馬場に戻った。

 神経質というと、知的なイメージにも聞こえるが、裏返せば、競走馬は、わがままで、「じゃじゃ馬」だということだ。他の馬と協調して、スタートラインに仲良く並ぶ農耕馬と比べると、速く走るという才能を伸ばす為に、協調性やおおらかさといった性格特性を犠牲にしているのかなと、感じた。逆に、協調性がないから、相手の馬に走り勝とうとして、真剣に駆けるのかもしれない。

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草競馬のイメージ


【編集後記】 本文では触れなかったが、子どもの頃(昭和30年代前半)、母の実家のある南佐久郡高野町(現・佐久穂町)の羽黒山の神社境内で、草競馬を見たことがある。こちらは、神事の一環だったようだが、大人も子どもも楽しんでいた。従姉妹たちと出かけた。

 また、子どもの頃、私の住む地域では、農耕馬が、同じく農耕用の牛とともに、わずかに飼育されていた。印象深いのは、火事を知らせる半鐘が鳴ると、地域の消防分団長のTさんが、農作業を中断して、農耕馬にまたがり田圃道を疾走していったのを見たことだ。長閑なものであった。