北海道での青春

紀行文を載せる予定

誰がために馬は走る(後半)

 もうひとつ印象深いのは、競走馬が、本部席に飛び込む直前で、慌てて騎手が止めたという出来事があった。

 先頭で駆けていた競走馬が突然スピードを落とし、コースの外側に寄った。馬上の騎手は上半身を反らし、力いっぱい手綱を引いているが、馬はすぐには止まれずに、本部席に飛び込みそうな勢いだ。騎手は必死に手綱を引き、最後は、前脚を上げた状態で止まった。
 近くにいた馬の関係者は、『よく止めたなあ』と、つぶやいた。疑問に思って聞いてみると、前脚が折れたかもしれないと言う。私は写真撮影に夢中になっていたが、近くの人の話では、木の枝が折れたような音が聞こえたと言う。

 馬から降りた騎手に引かれて行く馬を見ると、何ごともなかったような足取りである。事実は、どうなったか知る由もないが、あるいは骨折していたのかもしれない。陸上選手が疲労骨折やアキレス腱を切ったという話を聞くが、馬もあらん限りの力を出し切って疾走している。怪我がなければ良いが・・。

 

 ところで、私たちが、馬の脚(あし)と呼んでいる比較的多くの部分が、解剖学的に見ると、実はヒトの指(ゆび)に当たるということを思い出した。しかも、前脚だと、ヒトの中指の部分に相当し、親指や人差し指、薬指、小指に当たる4本は退化して、無くなっている。だから、一本の指だけで全体重を支え、立ったり駆けたりしていることになる。極めて長い年月をかけた進化の過程の結果とはいえ、一本指で走るという芸当は驚異的なことだ。

 一方、ヒトの指のでき方も変わっている。
 指を広げた手を見ると、5本の指が掌(てのひら)から生えてきたように思われるが、真実は、指と指の間にあった細胞や組織が、発生の段階で次々と失われていき、指は切り裂かれたかのようにしてできると言う。
 ヒトの指が完成する為に、手の一部が削げるようにしてできるという事実を知って、馬も速く走る為に、中指を一本だけ残して、他の4本の指が削げてきたのかと思った。そして、屁理屈に聞こえるかもしれないが、ひとつの素晴らしい才能が伸びて開花する為には、思い切って削ぎ落とすというような犠牲が払われているんだなあと、ひとり納得した。

 

                 *  *  *

 

 このようにして、初冬の小春日和の一日は過ぎ行き、山の端にかかる層雲のやや上に陽は移っていた。気がつけば、馬の影も長くなり、霜を経て彩度(トーン)を落とした紅葉は、一段と趣を増した。

 最後は、いよいよ、「甲馬(こうば;予選各レースで一位だった馬)五頭立て」だ。
 一周が約400mの馬場を8周し、3000m余りを駆けて、本大会の最速馬を決めるレースとなった。ファンファーレが鳴り響き、緊張感が漲る。
 例によって、なかなかスタートにはならないが、最後の一頭が、やや後方から加速し始めたところで、白旗が振られた。加速した馬は、他の馬を抜き去って先頭に立ったが、さすがに、甲馬はすぐに追いついた。各馬は、一直線になって周回を重ねていく。後続の馬は、先頭馬に直線部分で追いつき、外側から抜こうとするが、目的は果たせなかった。
 ちょうど、スピードスケートの「ショートトラック競技」と同じようなもので、瞬時に隙を衝いて加速力に圧倒的差がないと、なかなか抜けない。先頭騎手は、案外、その作戦を採ったのかもしれない。
 結局、先行逃げ切りで、レース終了を告げる和太鼓が打ち鳴らされた。

 録音されたテープから、スピーカーを通じて流れたファンファーレは、大音響で華やかな感じだったが、ゴールを告げる和太鼓は、大きく一度だけ打ち鳴らされただけで、余韻が残らない。しかし、残らない音に、寧ろ、名残惜しさを感じさせるから不思議だった。

 レースが終わると、早くも観客の移動が始まった。
 優勝馬のウイニング・ランを前に、人々は帰宅を始めていた。だから、甲馬最速の馬が、優勝旗を手にした騎手を乗せて馬場を周回する時には、人影はやや疎らになりかけていた。私たちは、馬と騎手に向け、大きな拍手を送った。会釈して通り過ぎる青年騎手の日焼けした顔から、白い歯が爽やかにこぼれた。

 青竹にかかった「しめなわ」が見守る中、草競馬は、なんとか無事に終わった。
 いよいよ辺りは、私たちと大会関係者だけになり、人々が去った馬場の周りでは、馬をトラックに載せる作業が始まっていた。私たちも帰路につき、馬場を去ろうと出入口まで来た時、フェンスの所に、ビニル袋に詰まったお弁当の空箱の山があった。大会役員の人達のものに混じって、一般の人々のゴミ袋も積まれていた。「この後、誰が片付けるんだろう」と思いながら、とても空しい気持ちになった。

 草競馬や競べ馬は、農作物の豊作を祈願したり、自然の恩恵に感謝したりする、いわば、神事のひとつとして、人々が厳かな気持ちと畏敬の念をもちながら楽しむ民衆の祭典というイメージが、急に遠のいていく気がしたからだ。
「誰がために馬は走ったのか?」 そんな疑問をもちながら、馬場を後にした。

                          (平成9年 11月)

 

【忙中閑話】     馬の脚(あし)について

 子どもにする話のようで申し訳ないが、基本として2つのことを確認しておきたい。
(1)私たちヒトが両手・両足の四つんばいで歩く時、手の平や足の裏を使うが、牛や 馬、犬や猫などの動物は、ヒトの指や指の付け根に相当する部分で歩いている。

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メリキップス脚(あし)と歯など

  写真の化石馬で、ヒトの足の「すね」と錯覚する部分は、長い指の一部分である。
ヒトは、他の動物と比べと、特に足の指が短過ぎる。

(2)古くから家畜として共に暮らしてきた「牛馬」であるが、同じ指で歩いていて、少し格好の似た四つ足動物でも、馬は、中指(奇蹄類)で、牛は、中指と薬指(偶蹄類)で歩いている。これは、分類上の大きな違いである。

 さて、ウマ科を含む奇蹄目(もく)は、新第三紀暁新世後期(6000万年前)に誕生した。熱帯雨林で生活していたが、ウマは草原などステップ地帯で生活するように適応した。次第に背が高く、足指では中指が発達して、他の指が退化してきたことが知られている。メリキップス(Merychippus)は、中新世中期(140~160万年前)の化石馬で、後脚の第2指(人差し指相当)と第4指(薬指相当)が短くなり、走る時だけ地面に触れていたと考えられている。

 

【編集後記】 「牛と馬」と言えば、地質調査に入った抜井川水系の最上流部のひとつ、「牛馬沢」という内山層基底礫岩層の見られる沢を思い出す。礫岩層の上位は砂泥互層で、これがケスタ状となり泥の部分が削られて、小さな浅瀬(淵)となっている。そこに、なぜか、ヒキガエルが一匹ずついたことに興味を覚えた。

 もうひとつは、昨年(令和元年)の夏、【茄子の牛 孫と作りて 先祖(みな)迎ふ】という俳句を作った。

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茄子の牛と胡瓜の馬(お盆の飾り)

 お盆に帰省した長女の子(孫たち)に、伝統文化を伝えようと思い、茄子の牛と胡瓜の馬を、孫と一緒に作り、先祖供養をしたことを詠んだ。
 私の亡父と長女は、生まれ年が五回り(60年)離れた牛年である。特に、父の好物が茄子だったので、茄子の牛から最初『父迎ふ』とした。しかし、私の父方・母方の数代前までの人々の位牌を、特設の仏壇に並べて供養していることに気づき、多くの先祖を『みな』と読ませて、皆さんを迎える意味を込めてみた。
 自身が茄子の牛などを作った記憶は、祖父とだった。父の代になった頃は、帰省はしたが、お盆の準備を整える花市(8月12日)に家を空けていることが多かったからだ。

 昔は、トウモロコシのひげ(めしべ)を短くして尻尾を付け、より「リアリティー」を高めた。『ご先祖様は、馬や牛の背に乗って来る』との説明は、『先祖の霊は、迎え火の煙に乗って天から飛んで来る』との説明に矛盾すると思っていた。私は、地上では牛馬に乗るのだと考え、玩具の自動車を飾ったこともあった。(ミニカーの時代では無かったが・・・)
 大人になって思うに、野菜で作った牛馬は、農作業を共にしてきた家畜の位牌に相当するのではないかと推理する。筆供養や針供養をして、無生物に対しても慈しむ心がある日本人なら、まして農作業などで苦楽を共にした家畜を、人間と一緒に供養する気持ちにもなるのではないか?