北海道での青春

紀行文を載せる予定

冷や酒のように

 ひとり墓地で、父の最期に着ていた浴衣を燃やしていた時のことです。
 秋の日は暮れ始め、一緒に燃やした「おき」が、赤々と辺りを照らし出していました。一瞬、炎が上がった方を見ると、1匹の蛾(が)の羽に火が燃え移っていました。蛾は羽ばたいて、いったん火を消すと、再び炎の中に飛び込みました。そして、不死鳥のように、舞い上がりましたが、今度は、そう長くは飛べず、「おき」の上に落ちてしまいました。

 炎の中で何度ももがき、激しく羽ばたくのですが、どうすることもできません。

 「飛んで火に入る夏の虫」・・・思わず、そんな言葉が、私の口をついて出てきました。私は今まで、この諺の意味を、「馬鹿な奴。こちらの思う壺だ」と解釈していたのですが、そこには別の意味があることに気づきました。

 蛾は、自分の身を焦がしつつ、熱さから必死になって逃れようとしても、必ず赤々と燃える炎に戻ってきてしまうのです。
 「ああ、父の死も、やはりの逃れられないものだったんだなあ」と、納得するような気持ちになりました。けれども、親孝行もできずに、甘えていたのも私の宿命かと思うと、止めどもなく涙が出てきて、しかたがありませんでした。

 

               *   *   *

 

 平成2年10月11日(木)の午後4時頃、事務室から「家から電話です」と受けた時、私の頭の中では、「父が今晩、亡くなる。1日か2日おいた14日(日)に、お葬式をして、計画休業の15日(月)に後の処理ができれば、16日(火)のS支部(S研究会)との打ち合せ会には、間に合うな」という計算がありました。
 それから、渋滞の長野市の国道を抜け、いったん自宅に寄ってから喪服を持つと、地蔵峠を越えて、佐久へ向かいました。
 ほぼ1年前、この峠道を越える時、父から、『大事な話があるから、帰ってこい』と言われ、それは父の死の宣告の予告だろうと察すると、堪えようとしても涙が溢れ、何度も急ブレーキをかけて車を止めたことを思い出していました。

 途中、家内の実家に寄り、これからのことを30分ほど話し、それから佐久病院へ駆けつけました。ノックして病室のドアを開けると、母と妹がいて、父はまだ生きていました。

 『遠いところ、ご苦労さん。』母は、急に父の容体が悪化したので、午前中に、近しい人々を呼んだが、今は平静に戻った旨、しかし、そう長くは持ちそうもない様子ので、私と妹を呼んだ旨を、簡単に話してくれたました。

 4晩ほど寝ずの看病をした妹は、その日、茨城県土浦市の自宅に戻ったのだが、着いて30分もたたない内に、母からの電話をもらったので、そのまま引き返してきた。

 そして、父の病室にいた母が、何事が起きたかのと、びっくりするほど、ドアを蹴破るような勢いで、廊下を走り抜けて入って来たとのことでした。妹は、私より30分も前に着いていました。

 私は、長野からの国道が渋滞して、なかなか車が進まなかったというような嘘をついてしまいました。なぜなのか、私は、父の死に際には、間に合いたくないという気持ちがしていました。だから、妹は、『お父さん、まだ生きているの』と、息せききってやってきたのに、私は、『お父さん、まだ生きているの』と、静かに病室に入ってきたのでした。


 それから、私たちは、病床の父に寄り添って、静かに見守っていました。
 やがて、目を開けた父は、母には人生の伴侶として尽くしてくれたことへの感謝を、妹には、良き娘であり、看病してくれたことへのお礼を、そして、私には、母やこれからのことを頼むと、苦しい息の中から言い残しました。私たちが、それをしっかりと受け止めると、父は目を閉じましたが、咳と痛みのせいで、なかなか寝つかれない様子でした。

 妹は、睡眠薬をもらってくると言い残して部屋を出て行き、看護婦さんと戻ってきました。そして、看護婦さんは、父と容体についての話をし、点滴の滴下速度を倍にしました。しばらくすると、父は眠り始めました。

 規則正しい父の寝息が止まると、私たちは、そのまま停止してしまうのではないかと、はらはらし、再び寝息が始まると、安心したりしました。そんな緊張した数時間を過ごし、やがて、ほんとうに父の息が止まる瞬間を迎えたのです。

 『お父さん、起きて目を開けて!』という妹の、父にすがりついて泣きじゃくる声が部屋に響き渡り、連絡を受けて駆けつけてきた医師の診断で、父の死は、とうとう現実のものとなりました。

 『医学常識からすれば、驚くほど長生きをしたSさんでした。患者さんからは、教えられることばかりでした。ほんとうに意志の強い方でした』と、主治医の先生は言いました。高栄養剤を点滴に加えれば、もう1日は生きられたかもしれませんという話に、母と私は、父も今際の言葉が話せたのだから、その必要はなかったと、これまでのお礼の言葉を述べました。妹は、あの点滴の意味(痛みを解消するモルヒネの量)がわかったようで、『どうして?・・・たとえ、1日だけでも、お父さんに余分に生きていてもらわなかったの』と、私たちを責めました。 

 その晩のうちに、父を自宅に運び、私は、父が2年ほど前に祖母にしたのと同じ作法で、布団に寝かしつけました。この病魔との闘いに明け暮れし1年余りの間に、すっかり痩せ細ったとはいえ、父は毅然とした口元に笑みを浮かべ、眠っているようでした。しかし、父の額に手をやった時、(温もりは去り)そのあまりの冷たさに、確かに、私には、死んだ父がいたことを実感しました。

 

             *   *  *

 

 ところで、父は、「今日の自分があったのは、母親のお陰だ」というような趣旨のことを、祖母の死後、人にも語るようになりました。

 農家の次男に生まれた父は、祖母の祖父への説得と、たいへんな努力で学費を工面してもらい、旧制N中学校から師範学校(東京学芸大学の前身)へ進学させてもらいました。その苦労の程度は、私には小説の世界のような話だが、それでも子どもの頃、父たちの学用品が残っていて、「これは米、何升だった」とか、「アンゴラウサギの毛を売ったお金で買った」とかという話を聞かされていたので、そのイメージは少しは湧いてくる。

 聞くところによれば、祖母の兄という人は、なかなかの勉強家であったようで、南佐久の片田舎から、旧制U中学校まで(旧制N中学校が、まだなかった時代)通っていたが、家の事情で学費が工面できずに打ち切られ、やむなく学校を止めなければならなくなったと言う。

 祖母は、その兄が、切なくて一晩中泣いていた姿が、「おやげなくて(注;「かわいそう」という意味の佐久方言)」忘れられずにあって、息子たちは、どうしても学校へ出してやりたいと、がんばったらしい。自身も、向学心・好奇心のある祖母だった。

 父たちは、学生生活を太平洋戦争とともに終えた。戦地から、父の兄は引き揚げてきて、間もなく肝臓疾患で倒れた。

 写真でしか知らない私の伯父に当たる人だが、父より小柄な身体であったが、スケールの大きな人だったらしい。また、当時の国策の一貫だったが、農家を継いだ伯父は、卒業した農学校長推薦で、海軍士官への道を進んだ優等生でもあった。特に、長男であったという理由だけでなく、祖父母にとっては、格別な期待と信頼を寄せていた息子だったようである。父の弟(三男)の叔父が、『S(父)と俺が、二人死ぬよりも、お袋にとっては、ショックが大きかったと思う』と、冗談ではあったが言うように、父が東京から家に呼び寄せられて、跡継ぎとなった後でも、きっと心の大きな傷跡として残っていたと思う。祖母の「信心深さ」というのも、この辺りに起因するのかもしれない。足腰が立たなくなってからでも、芝生の草むしりをするからと外に出ては、よく近くの薬師堂の屋根を拝んでいた。
 『何を拝んでいるの?』と、私が尋ねると、『皆の健康を、お薬師さんに、お願いしているよ』という返事が返ってきました。

 

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薬師堂の本堂と垂れ桜

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 「夫婦や親との、本当の対話は、その人を失った時から始まる」と、言われる。
 正月に帰省した折り、お仏壇に御飯やお茶が上がっていて、母が供えたんだなと思いました。私が、御飯を上げて下がろうとした時、『仏さんが食べる間は、蛍光灯を点けておいてくれや』と、母が、隣の部屋から声をかけた。母も変わったなあと思いました。
 私も最近、「もし、父であったら、どう判断するか?」と、自分に問うことがあります。また、娘たちの顔を見ていると、ふと、自分たちの子どもの頃を思い出し、父が自分であるかのような錯覚に陥ることがあります。しかし、ここにいる女性は、いったい誰なんだと思い、妻であることに気づくと、いきなり現実の生活に戻されます。私たちも、結婚して、いよいよ十年目になります。

 『あまり、飲み過ぎないで。煙草を吸ったら、窓を開けて! あなたのお父さんが、最期まで心配していたことでしょう。』と家内が言うと、私は少しだけ襟を正して聞くことにしています。
 「親の忠告と冷や酒は、後になってから効く」と言うが、父と私の対話が始まりました。

                    平成3年 2月12日(父の月命日に)

 

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倉沢薬師堂の花祭り法要(平成2年5月5日)

 【編集後記】 本文中で、足腰の弱くなって参拝できなくなった私の祖母が、屋根を拝んでいた本堂で、今年(令和2年)行われた法要の光景です。(注)年号を間違えています。

 コロナ禍のせいで、一般参賀や恒例の「やしょうま」撒きもない、僧侶一人と役員だけの法要になりました。例年では7~8名ほどの僧侶を招いた盛大な会になります。

 地域社会の人々の健康と生活の安寧を祈ったのは、いつも通りでしたが、新型コロナ・ウイルス感染の終息も祈願したことでしょう。