北海道での青春

紀行文を載せる予定

分数と私

 5月に、相田一人(あいだかずひと)さんの「父・相田みつを」を語るという講演を聞いた。東日本大震災後、みつをの作品をブログ(Weblog)で使いたいがという問い合わせが殺到し、【わけ合えば】という作品を自由に引用して使える処置をしたそうである。

 詩は、「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」という対句で始まる。実に、日本の美徳の本質を衝いている。外国語にも訳され、流布したようである。

 この「分ける」という行為を、6年生教室では毎日行っている。しかし、もし、10Lの味噌汁を14人の児童と、T教諭の15人で平等に分け合うとしたら、それは、絶対に不可能である。

 一見、1/15ずつ皆で分ければ良いように感じるが、その分量は、0・666・・L(循環小数)となって、測り取れない。そこで、児童には0・66Lずつ平等に配り、担任が0・76L飲んで残さないようにすれば、良い。いくら子ども思いの教諭でも、0・7Lずつ児童に配り、自分が残り0・2Lでは忍びない。こんな風に、平等に分けようとすると、余るのは数学的にも確かである。

 ところで、「分ける」から連想するのは分数で、これについて、Y教諭と論争した。2/3(三分の二)は、ひとつの「パイ」を3等分した後、2つ合わせたものと教えているらしい。小学生の段階だからと、一歩譲っても、本来分数は、「比の値」であって、現実にはあっても小数で表せないものを表現する数値なのだ。

 だから、例えば米国では次のように教えているかどうかは知らないが、『相手は、パイひとつを丸々もらっているのに、俺は2/3か。あいつは俺の3/2=1・5倍もらっている。相手対自分が、3対2とは、不平等だ』と理解しているらしい。なぜか、比の単元は、数学に強い日本人の弱点である。それに対して、米国では落ち込むどころか、寧ろ、理解が深いというデータを見たことがある。

 実際、中学校理科・化学単元の「化合物の定比例の法則」で、私はどのくらい手を焼いたことだろうか。分数は比の値、比は分数で表せるという理解が、日本の中学生には無理らしい。それ故、機会あるごとに、小学校で算数を担当している先生方に力説してきた。
比と分数は、同じものだと教えるようにと・・・・・。
 しかし、今は少しだけ違う。
 日本人、否、日本の教育を受けた人々は、物をわける時、まずは人数分で平等に分け、それから相手に配慮しながら、受け取る美徳を算数でも教わってきているのかもしれない。そう考えると、酒宴で、いつも会費負けしない私は、もう少し慎ましやかに、飲み食いしなければいけないなあと、思うようになった。
                          (平成23年 12月)

  【忙中閑話】   

 比と分数「A:B=3:2=3/2:1=1:2/3」という関係がわかれば、どんなにか便利かと思うが、頭の固い先生方には理解されない。AはBの1.5倍、BはAの3分の2倍という単純なことなのだ。特に小学生の段階で、分数の学習の中で、比の値という学習を、ぜひとも導入して欲しい。