北海道での青春

紀行文を載せる予定

筑北連合小学校

 佐久平(さくだいら)の一角、泉小学校の校庭に超大型クレーンが立ち並び、建て替え工事をしている。近くを通った時、『ああ、これで小学校も無くなるのか』と娘が言った。と言うのも、母校野沢中学校も数年前、同様な工事で、思い出の校舎が消えたばかりだからだ。
 この泉小学校、私はその第一回卒業生なのだが、出来たばかりの「浅過ぎる25mプール」で泳いだことはあるが、新校舎の完成を見ずに卒業した。卒業証書には、佐久市立泉小学校・前山部校とある。「部校」を分校と間違える級友がいて、よくからかった。私たちは、37名いたが、桜井部校は17名。当時、中学で一緒になる野沢小学校(3学級)は、1クラス51~53名なので、まずは、小規模校同士が名前統合し、経過期間として部校時代が2年続いた。
宿命とは言え、果たして恩恵があったのだろうか。
 コンクリート製・何尺何寸プールから、まばゆい白プールに替わる。潜水して女子の水着姿がよく見えるようになった反面、足が底に着いてしまって実に物足りない。なにしろ、大小ある内、小プールさえ、泳げない人は絶対に入れない。陸上では足の速い級友が、水を懸けられただけで恐がっていたので、福音だったに違いない。

 部校時代が正式に始まる一年前から、プールの共有はもちろん、合同でのキャンプや遠足が行われた。私たちの方が腕白揃いで、向こうは優等生や美人が多かった。その中に、唯一Mという悪ガキがいて、桜井部校の面子を潰されまいと、一人で、ちょっかいを出してきた。TV時代劇の幕藩体制下で、見栄を張る偏狭な武士の姿と、妙に重なる。
 その点、本城小学校での坂北小・坂井小と交流会の様子を見聞きすると、今の子どもたちの友好意識は、大きく変わったなあと思う。ちなみに、M君と私は、中学校で同じ組(クラス)となり、卒業以来毎年続く同級会で、同時代を生きたことを懐かしむ間柄となった。

 ところで、私の卒業生との思い出のひとつは、「筑北連合小学校」の修学旅行である。誰が名付けたのか、バスの表札に示され、ホテルで『連合小の先生』と呼ばれた。児童総数40名に、引率教職員12名という珍しい旅行隊で、違和感を覚えながら聞いた「連合小」の響きも、今では悪くないネーミングだなあと思う。
 (実際、東京上野での宿泊地周辺を歩く時は、養護特別支援学級でも、こんな児童と引率者との比率ではあり得ないので、通り過ぎる人で、こんな分野に関心のある人なら、どんな風に解釈しただろうかと思った。)

 何十年振りかの国会議事堂や東京タワー見学で、私も楽しく学ばせてもらったが、それ以上に、遊学の旅を満喫していた児童らを見ていて、嬉しくなった。
 旅の最後、夕闇のバスの車窓に顔を押しつけ、坂井小・坂北小の学友に、必死に手を振る姿が、目に浮かぶ。印象に残る「私と同じように写るMくん」はいただろうか。本城小学校での出会いと学びが、郷愁と共に蘇る、いつの日かに、全員で再会しよう。 
 本城小学校、ご卒業おめでとう。  
                              


 【忙中閑話】      小学校統廃合の思い出

 私は、娘たちが通い、卒業した佐久市立泉小学校の第一回卒業生になる。ただし、学校名は正確に言うと、泉小学校の後に「前山部校」と付属する内容が続く。
 昭和40年4月、東京オリンピックが開催された年の翌春、それぞれ単級であった前山小学校と桜井小学校が統合して、泉小学校が誕生した。数年前から統合の為の準備はされていたが、PTAの話し合いで学校名が決められたのは前年のことだった。現在では、泉地区・泉団地と、地名のように扱われている「泉」だが、当時は字名もない水田地帯だった所に、人家や団地が造成され、小学校名から地名が名付けられた。
 片貝川の支流で「清水(しみず)川」と呼んでいた清流の川底から、湧水があった。
私たちは、夏休みの水泳の後、この川に入って「さなぎ取り(岩の間を手で探り、両手で魚を捕まえる方法)」をした時、足下の川砂の中から、湧き出ている噴水流を目撃している。遠く八ヶ岳に降った雨や雪解け水が、何年かかけて地中を移動して、伏流水となっているのだ。南佐久層群(更新世チバニアン)の、近隣で少なくとも5層準以上ある伏流水脈の中で、最も下位になり、佐久盆地の底から湧き上がっている。この泉に因み、子どもたちの「知・徳・体」の教育の源流が、尽きぬ湧水のようにとの願いが、「泉小」の謂われである。
 私たちは、統合される一年前から、先に建設されていた新しいプールで水泳をした。夏休みには、隣で校舎が建設されていく様子を眺めながら、桜井小の子らと一緒に泳いだ。遠足行事や修学旅行は、合同で実施したが、卒業式は、それぞれの学舎で行なった。つまり、名目上の統合であった。この「部校時代」は2年間続く。新校舎で卒業式を迎えたのは、2級下の私の妹の学年からである。
 さて、昭和60年、泉小学校20周年記念行事の一環として記念誌が発刊された。私は、第一回卒業生として原稿を依頼されて、寄稿した。「前山部校の時代」と題して、当時のエピソードを載せた。原文を探したが見あたらない。それでも、いくつか覚えている。
(1)『俺は、ヘーシンクだ!』
 東京オリンピック大会の開会式(昭和39年10月10日)は、稲刈り休み中だったが、柔道無差別級・決勝戦は、学校が始まっていた。小学校の畳敷き講堂にある、鍵付きケースに収まった白黒テレビの前で、授業中に観戦した。猪熊 巧 選手の体重別優勝に続き、期待された神永昭夫選手は、オランダのアントン・ヘーシンク選手の寝技に敗れた。押さえ込みに入っての30秒間、私たちは畳を叩いて必死に応援したものだ。しかし、ヘーシンク選手は、日本選手を負かした憎い外人にはならずに、その礼儀正しく、正正堂堂として凛々しい態度に、私たちは、憧れを抱くようになった。何か不都合な場面になると、「俺は、卑怯な事はしない」という意味を込めて、両手を高く上げて、『俺は、ヘーシンクだ!』と叫んだ。
(2)『分校じゃなくて、部校だよ。』
 パジャマを買ってもらったのが嬉しくて、脱がずに上にセーターを着て登校してきた小学6年生Y君がいた。着替えないままの、だらしのない子なら、現代でもいそうな気はするが、着物寝間着に替わるパジャマは、当時の子ども心を大きく揺さぶるものだった。その彼が、真新しいノートに、新学校名を記したことを自慢しようと、授業前に見せた。「佐久市立泉小学校前山分校」とある。目ざとく間違えに気づいたY子は、『分校じゃなくて、部校だよ』と大笑いした。
(3)『おめ、それ飲むのか?』  家庭科の若い女性の先生は、それだけで近代的なセンスがあるが、その日は、「紅茶の飲み方」の授業であった。受け皿にカップとスプーンをどう置くか、角砂糖の入れ方、スプーンでかき混ぜた後のスプーンの置き方などの説明をしていた。
 紅茶は、色の良く出る日東のティーパックを使う。お湯は、ポットならぬ、湧かしたやかんから注ぐことになる。私やY君は、先生の説明を聞いていたが、気の早いY子は、要領を得たようで行動に移っていた。
 「それでは始めましょう」の合図で、私たちが用意しようとすると、Y君はY子の紅茶を見て、大笑いしながら、『おめ、それ飲むのか?』と言う。先日の敵討ちのつもりか、さらに笑った。
 Y子は、ティーパックの袋を破いてカップに入れ、スプーンでかき回したとみえて、カップの中で紅茶がぐるぐる回っていた。
 紅茶のティーカップ事体が物珍しく、紅茶やコーヒーをカップに入れて、どう飲むかが授業対象として意義をもっていた時代だった。
 ・・・・以上のようなエピソード内容を、もう少しユーモラスに書いたように記憶している。