北海道での青春

紀行文を載せる予定

学びの道を踏み行きて(前半)

  ♪大きな夜明けが、ありました。十万年の静けさと・・・阿蘇の夜明けが・・、阿蘇の夜明けが、ありました。♪ 
 ある中学校の音楽会で、生徒と一緒に私も歌った思い出深い学年合唱曲の歌い出しです。(児童合唱のための組曲「火のくにのうた」より、峰 陽 ・作詞/小林秀雄・作曲)

 夏休み明けから約2ヶ月間ほど、昼休み時間を返上して、清掃の開始時刻までの15分間、この合唱曲の練習に励みました。

 音楽科の学級担任・T先生がいたこともありましたが、学年の発達レベルに合わせて、1年生では、合唱組曲「 ぼくのおよめさん・ (チコタン)」(蓬莱泰三・作詞/南 安雄・作曲)を、3年生では、混声三部合唱曲「インテラ パックス~ 地に平和を~」(鶴見正夫・作詞、荻久保和明・作曲) を、みごとに歌い上げた音楽大好き学年の2年生の時のことです。

 練習をしながら、「中学生気質も、ずいぶん変わった」と感じていました。どうしても女声パートの声量が足りなくて、バランスが悪い。女子生徒も精一杯、歌ってはいるものの、男子の声量には負けてしまうのです。それで、男声のボリュームを絞るという課題が出てきました。幸い、ソプラノ・アルトのパートに数名ずつの美声の女子生徒がいて救われました。そして、『ここに、あの女子生徒らがいれば、どう思うかな?』などと思い出していました。

 『あの』と振り返るのは、私が、新卒の初任地で担任した女子生徒たちのことです。丙午年(ひのえうまどし)生まれの中学1年生です。担任したクラスに9名の合唱部員がいて、音楽会に向けた学級合唱練習の度に、『先生、男子を何んとかしてください』と泣きつかれました。

 精神的に幼い男子がいて、彼女らのめざす音楽レベルと、かけ離れ過ぎていたからです。そんな男子生徒諸君も、学年が進むにつれ、少しずつ成長していきました。

 

               *  *  *

 

 合唱曲『地球の詩(うた) 三浦真理 作詞・作曲』にも、思い出が詰まっています。

 

 一  風は気まぐれ山を越えて 口笛吹き世界を旅する
    鳥の翼にこの身をあずけ 飛んでいこう地球の果てまでも

    泣かないで笑って   涙ふいて 太陽も笑うよ
    空の上で 信じ合い夢見て さあ歌おう
    この空にとどけ地球の詩


 二  風は気まぐれ川を越えて 夢を抱いて世界を旅する
   鳥になりたい白い翼の この世界へ運ぶよ夢の詩
   泣かないで笑って 涙ふいて 太陽も笑うよ
    空の上で 信じ合い夢見て さあ歌おう 
   この空にとどけ地球の詩  とどけ地球の詩

 

 自分で言うのも何ですが、私は、音感はまあまあなものの、リズム感が悪く、歌の歌い出しが苦手です。その私が、150人からの合唱の指揮をすることになりました。しかも、この曲の歌い出だしは、8分の1拍を入れてからなので、特に難しい。

 指揮者が、ピアノ伴奏に合わせるようなスタートでしたが、毎晩、家内から腕の位置や指揮の上げ下げ、表現の振り付けまで猛特訓を受け、少しは、様になっていきました。しかし、曲の出だしだけは、最後まで自信がありませんでした。

 音楽会の前日、K先生から、『この子たちと小学校で一緒に過ごした子のお母さんが、明日の音楽会に来るかもしれません』という話を聞きました。それ以上詳しい話がなかったので、特に気にかけることはありませんでした。

 当日の発表が終わり、安堵感に浸りながら職員室に戻る途中で、K先生に呼び止められ、その母親を紹介されました。

 『この子に、お友だちの歌を聞かせてやろうと思って』と語る母親の両手には、小さな額に入った女の子の写真(遺影)が見えたのです。・・その瞬間、私は、話の訳が理解できました。

 写真の子は、中学校入学前の冬、長年患ってきた病気で亡くなりました。日帰り行事には、皆と行動を共にしたこともありましたが、6年生の修学旅行には一緒に行けず、バスの見送りと出迎えに来てくれて、学友に手を振っていたと言います。

 『お友だちの皆さんも、どんなにか成長したかと思って』と淡々と語る母親の言葉に、私は感極まるものがありました。

 その日の晩、家内の伴奏で、もう一度この楽曲の指揮をしました。
 歌いながら涙が止まりません。もし、この出来事を先に聞いていたら、私は、まともに指揮ができなかったと思いました。

 特に歌詞の「空の上で・・・この空に届け地球の詩」の部分では、堪えきれませんでした。
 少し冷静になってきた時、『随喜(ずいき)』という言葉を思い浮かべました。「人が嬉しいこと、成功したことを、あたかも自分のことのように受け止め、共に喜べること」を随喜と言います。仏教では、これを大きな「功徳がある」と説いています。しかし、この随喜する心が、いかに難しいことか、自問してみればわかります。肉親なら共感できるかもしれませんが、友人、それもライバルなら成功は羨ましく、それを妬む気持ちは、抑えられません。まして、関係の薄い人なら・・・と思ってしまいます。

 あの母親の場合、病に対する覚悟が多少はあったにせよ、愛娘が亡くなった後、お友だちが元気に中学へ登校する姿を見た時、どれほど悲しい思いをしただろうか。彼女らと、もう一緒に居ない娘を思い出してしまうので、寧ろ、お友だちだけでなく、同世代の子の姿さえ見ないようにしていたかもしれません。・・・実際、外出の少なくなった母親を、仲良しの友人らが声を掛け、音楽会に誘ったと聞きました。

 娘の遺影に学年合唱を聞かせ、『娘も喜んでいると思います』と語る母親は、まさに「随喜」を悟った世界なのだと思いました。

 

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 【編集後記】  4教科の扱いを大切に!

 音楽は、そんなに得意な分野ではないものの、合唱を自分が参加して歌うことも、皆の合唱を聴くことも大好きです。表題との関連は、後半で明らかになりますが、全体は、学年の児童・生徒たちの合唱曲に取り組んだことの思い出です。

 ところで、私は、長野県の公立高校入試に関する歴史において、極めて特異な世代になります。私たちより2級上の先輩たちは、俗に言う5教科(国社数里英)と4教科(音美体技)を合わせた9教科で入試を受けていました。私たちの1級上と私たち、さらに1級下の学年の3年間は、社理の交代する4教科入試でした。初年度は、「国社数英」、私たちは「国数理英」、最後の年は初年度に戻りました。私は、将来、理科系に進学し、理数は得意な方でしたが、なぜか得意で好きな教科が「社会科」だったので、とても悔しい思いがしました。3年間の実験的な制度で止めたのは、入試に無い教科は真剣に勉強しない傾向があったからだと聞いています。

 次の年度から5教科入試になっていきました。しかし、私・個人的には、多少負担増でも、少なくとも義務教育の期間では、4教科の学力も大事に扱って欲しいなあと思っています。昨今、授業時間数の都合で、なぜか外国語や情報処理関連の教科の充実が強調され、4教科の時間数が削られがちなのを憂いている一人です。

 『じ・く・む・た・せ・ど・ちょう・じ・こ』何のことかわからないかと思いますが、ラジオ体操(第一・第二)の順番です。上下肢→首→胸→体側→背腹・・・最後は、深呼吸です。これは、保健体育の期末テストに出題されたので、今でも覚えています。一見、馬鹿らしく思えますが、それなりの体育理論で体操が構成されていることは理解できました。