北海道での青春

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倉沢・薬師堂

 恒例の暑気払いを兼ねた句会が、7月12日に望月温泉であったが、私は、事前の検査の後、7月26日から佐久医療センターに入院することになり、7月の会を欠席することにした。

 8月24日に句会があったが、欠席した。私の8月1日の手術後の回復は早かった。しかし、お盆の少し前から、夜になると微熱が出るようになってしまい、病院からの退院は、結局8月27日までとなった。

 そんな事情で、句会を欠席したので、俳句は作らなかった。そこで、4月の奉燈俳句で話題にした「倉沢・薬師堂」について、2回に分けて情報発信しようと思う。

 

1 名称と所在地 

 倉沢・薬師堂:佐久市有形文化財(平成10年4月30日指定)
     佐久市前山505-3(所有管理:貞祥寺・地元)

 

2 薬師堂の本堂 

 間口8間の五間堂で、中世密教系寺院本堂の基本的構造を持つ。

 彫刻を多く取り入れ、極彩色を施している点は、18世紀中期の建築の特色をよく示すと言われる。

 室町後期~江戸中期、佐久地方の名棟梁・小泉家の流れを汲む「小泉吉右衛門泰亮」により、江戸時代の明和5年(1768年)に造営された。

 

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花祭りでは「お釈迦様」の木像に甘茶をかける

 

 

 

3 宮殿(くでん)

 本堂内陣の正面にあり、仏像などを納める棟・柱つきの厨子は、本堂と同じ「小泉吉右衛門泰亮」の安永6年(1777年)の作品である。
 また、彫物師は江戸在住の「高松新次郎」と伝わる。

 

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宮殿(中央)左右に6体ずつ、十二神将像が配置されている

 

4 石造藥師如来(せきぞう・やくしにょらい)

 宮殿の床下には、厳封された秘仏が納められている。

 昭和57年(1982年)11月、宮殿基礎工事の際、一度だけ公開された。身の丈約130cm、四頭身と頭部が大きく、肩の張りに厚みがあること、近世以降ほとんど使用されていない軟らかな石材であることなどから、中世にまで遡ると推定される。(善光寺縁起よろしく、倉沢山山腹にある秘仏を、群馬県の人が夢見で知って建立するに至ったという言い伝えがある。)

 

5 加舎白雄(かや・しらお)自筆の俳額

 本堂外陣(北東側の梁)には、欅板2枚を継いだ俳句の額(74cm×365cm)が掲げられている。

 寛政2年(1790年)3月に奉納され、現存する唯一の俳額には佐久地方の俳人100人が名前を連ねている。加舎白雄は、江戸中期の上田藩士・蕉風(松尾芭蕉)の俳人である。

 

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加舎白雄、直筆の俳額(全体)

 

【編集後記】

 私たち世代(戦後~)は、そんなすごい文化財だとは知らずに御堂を遊び場にしていた。石造藥師如来にも非公式に触れていたし、宮殿や俳額も、かくれんぼの隠れ場所だった。

 「曼荼羅の里」として知られる東筑摩郡麻績村の福満寺の仏像(日光菩薩立像)

の衣(ヒノキ材の薄板)が、平成時代に文化財として保護されるまで、何百年間も放置されたにも関わらず、破損しなかったことに驚いたことがある。 

 倉沢薬師堂も、似たような歴史を辿っていたようだ。

 ところで、先日、急に思い出して薬師堂に出かけてみると、今や有名になっているコウモリが天井からぶら下がっていた。

 特に害を与えるわけでないので、居てもいいが、糞を垂らすので、困った存在です。

 

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天井の弁天様の壁画の先に、コウモリがぶら下がっていた