北海道での青春

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薬師堂・鐘楼の「曳屋」による工事

 薬師堂の鐘楼は、北~北東側に傾いていて、数年前から梵鐘のある階上に登れないように、階段を封鎖してあった。

 平成28年度前山南区総会で修復工事予算案が可決され、同年5月23日から工事に入った。

 特殊な工法による作業なので、『三光組(さんこうぐみ)』が当たることになった。

 長野県神城断層地震(2014年11月22日発生・M6・7白馬村付近)により傾いた善光寺鐘楼を担当(平成27年)したり、洞源山貞祥寺の三重塔(平成2年)も移築したりしている。

 「曳家(ひきや)」と呼ばれる業界の専門業者である。

                *  *  *

 正確には記録されていないが、どんな工程で鐘楼(建物)が修復されたか、概要をみてみよう。

 

①曳家の準備:

 建物の1階部分の柱や梁()を支える為に、部分的に布で保護し、丈夫な材木で補強する。骨折患者の手足の固定保護のような作業である。当然、前の状態を正確に記録しておいたものと思われる。

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曳く準備が整った建物全体

 

 

②持ち上げて移動:

 油圧式ジャッキを使い、建物の水平が保たれるように、少しずつ全方位的に持ち上げる。できた隙間に角材を入れたら、ジャッキを抜くことを繰り返す。全体を移動させる為の大きな材木が、移動方向に設置された。

 移動は、土台材木・鉄製板・ころ(回転)用の鉄製棒・建物の下を支える材木の順番に重なる。鉄道だと、枕木・レール・車輪・鉄道車軸という関係になる。

 移動準備に多くの時間を要するが、移動時間は割と短くて驚いた。大きく2回の移動(曳き)工程であった。

 

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持ち上げて移動した(左から右方向へ)

 

③土台の整備:

 一帯の基盤は第4紀湖成層で、その中に不透水層があって清水が湧いている。鐘楼の地下も、長年の間に、地下水が移動して隙間が生じてきた可能性もある。

 表面の敷石を取り除いた後、少し掘り、砂利を入れて固め、その上は、鉄棒を組んだ枠にコンクリートを入れた。最後に、表面塗装をした。

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砂利を入れ、鉄棒の枠を施し、コンクリートで土台を造る

 

④敷石の復元:

 コンクリートと鉄材を使い、参拝道と四隅の土台を整備した。その後、4本柱を支えていた土台の礎石と敷石を復元した。

 同年(平成28年)4月14日に発生した熊本地震による城の石垣復元よりは簡単だろうが、丁寧に石材には、方位と番号が記されていた。
 工事が完了した後、前の状態を良く知っている人は、まったく変わらないと思っていても、敷石の下は、完璧な耐震・水平維持機能を備えた土台が整備されている。

 

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元通りに敷石を復元する(石に方位と番号がある)

 

⑤元の位置に戻す:

 柱の礎石と敷石が元に復元された後、参道の西側(本堂側)に移してあった建物を、元の位置に戻した。建物の柱と梁の補強はそのままである。

 ちなみに、礎石付近の新しい色調の木材は、移動工程で利用される木材である。新旧、大小、厚薄など様々な素材が用意されていて、微妙な差を埋めながら作業工程に併せて利用されていた。

 私は、移動が済んだので、これで工事は、ほぼ完了したのだと思っていた。ところが、そうではなかった。

 

 

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元の位置に建物を戻す


⑥柱最下部の接ぎ木:

 鐘楼を支える4本柱は、約30cm四方の角材である。国宝松本城のような主柱では、丸太材の狂いを予想して、原木材の4分の1を角材にして利用するというが、ここは、昔の1尺(約30.3cm)単位の一本柱である。それでも、相当な巨木材だ。その柱最下部の修復が、更に残っていた。

 経年劣化に対応して、各柱を切断する長さは、5~25cmと別々である。(修復後の目視できた長さ)

 油圧式ジャッキと台座を入れる作業の途中で、宮大工さんが、柱の下の部分を切り落とした。
 それを補う為に新しい角材が用意され、古い柱と、「組み手」のような方法で結合される。合成接着剤で貼り合わせられるわけではない。

 そして、礎石に空いた10cm四方×深さも10cmの穴に、4本柱からの凸部分が隙間なく入り、全体を支えることになる。

 職人さんのすばらしい技術に感服した。新しい木材を入手できるのも貴重である。ただ新素材の経年変化を予想して、寸法を変えていたとまでは思えないが、もしかすれば、国宝・法隆寺の宮大工と、同じレベルであったのかもしれない。

 

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柱最下部の接ぎ木は、まだ入れてない

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接ぎ木の長さ(厚み)は4本とも違う(北側の2本)

 

⑦接ぎ木だけを残し:
 鐘楼を支える4本柱が、礎石に固定されて、修復工事は、ほぼ終了した。
 敷地周囲のコンクリート補強枠と、敷石の隙間から真新しいコンクリートが見える。これは土が付けば、その内に見分けがつかなくなる。さすがに、250年の差がある柱は、断層として、誰の目にも明らかである。
 説明した修復の工程を知る人は、目には見えない所で、大変化があったことを想像できると思う。(例えば、敷石の下が堅固な構造であることも理解できるだろう。)

 正式に完了したのがいつか知らないが、梅雨が本格化する前に工事は終わった。写真は、6月23日午前に撮影した。屋根の光沢は、未明~朝の雨のせいである。

 

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無事に修復工事を終えた鐘楼と本堂

 

 【編集後記】

   「曳屋(ひきや)」さんという専門的で特殊な工事を請け負う業者さんの存在を知り、また、どのようにして修復工事を進めていくかという工程を見聞して、とても感激しました。

 工事の道具や使用する木材(統一されない新旧・大小・厚薄・形など)を最初に見た時は、かなり前近代的な工事をする皆さんだと思いましたが、実はそこにこそ、歴史的建物を修復することに特化し、着実に対応していく知恵と仕組みがあることがわかりました。

 仮に規格通りに製作した建物や部材も、経年変化の中で、使われた場所や役割の違いで、様々に変わってしまいます。だから、同じものがない。それ故に、個々の個性ともいうべき特性を見て取り、対応していく必要があるのだと理解しました。