①孫抱けば 蘇(よみがえ)る日よ 春惜しむ
② 孫はしゃぐ 土手に地雷と 蕗のとう
③ 孫子らの 多幸祈りて 甘茶仏
今年度も、倉沢薬師堂花祭り(5月連休)に奉燈俳句の額を掲げる為に、午前中から集まり準備をした。二人の孫ができたことへの感謝と祝いの意味を込めて、今月は、孫と春三題とした。
【俳句-①】は、生後3ヶ月目に入り、頸(くび)も座りつつある孫を抱いていると、何十年間という歴史が蘇ってくるようで、様々な思いから涙ぐむようになり、俳句にして詠んでみた。
まず抱いている赤子が、娘たちであるかのような気になる。つい最近の出来事であったように感じられるのに、その娘の子がここにいる。
そして、さらに私自身が、祖父母に抱かれていた60年以上も大昔の様子が、想像できるような錯覚に陥る。繋がってきた生命の不思議さと、何事にも替え難い畏敬の念を覚える。しかし、発想を転換すると、我が身の生命が削られていくような寂しさも湧いてくる。
そんな人生の春が、過ぎていってしまうようにも感じて、「春惜しむ」という季語を採用してみた。
【俳句-②】 は、山の畑の大土手で、孫が蕗の薹(とう)を見つけ、『地雷だ』と大騒ぎをしている様子を詠んだ。
3歳になる孫は、冬は土手で「そり」を滑らして楽しんだ。同じ土手の斜面で、山蕗の蕗の薹が出ているのを見つけた。一緒に行った家内は、真剣に捜し回っている。
幼児と言えども、語彙力はかなり身に付いていて、大人の話もわかれば、戦場にしかないような地雷の意味や目的も知っている。
本来は、近づいてはいけない地雷だが、婆ばが、真剣に採っているので、ありかを知らせてあげている。
4月ともなれば、初物ではないが、季節感あふれる「蕗味噌」は、とても味わいがあるので、我が家の食卓に上る。
【俳句-③】は、文字通り、孫子らの幸せと成長を祈って、お釈迦様の小さな木像に甘茶を注いだことを詠んだ。
奉燈俳句の背景画に、アマチャの木を描いた。ガクアジサイに似た花を付ける。蔓を煎じて、甘茶にする。毎年、花祭り期間中、貞祥寺で作ってきてくれて、参拝者に供している。
【編集後記】
平成30年度(平成30年4月~平成31年3月)に創作した俳句と、そのエピソードを載せていきます。
ところで、「平成」の元号は、この年度で終わり、次年度は「令和」となったのですが、私は、二重の意味で喜んでいます。
ひとつは、年号の計算をする時、30年という切れの良い数字であること、しかも、良く言われる「1世代・One Generation」に匹敵する数字だから便利です。
大きな講演会での講師や、世界を股にかけて活躍されている方のお話を聞いていると、良く『1992年のことです・・・・・』などと西暦が、ポンポン出て来ますが、私は、『1989年が平成元年、2000年が平成12年だから』と、西暦を元号に換算してから、時代背景を理解しています。
これは、反対に昭和の年号を西暦に直す時に、1900年に「元号+25」年を加えて計算してきた習慣の延長です。個人的な見解がですが、元号による時代理解の方が、便利なのです。世の中には、きっと私と同じように感じている人がいるように思います。
そして、ふたつ目は、生前の天皇の譲位が、年齢などの条件から適当な時期を迎えているのではないかと感じていたからです。大きな式典などに天皇陛下が出席されて、壇上まで歩いて行かれる姿や、ご挨拶される様子を見て、そのお人柄とともに、国民の統合としての権威に敬意を覚えて感動していますが、ご高齢となり、無理をなされていると感じる場面もあるからです。さらに、ドキュメント番組等で、天皇陛下の一日の公務(皇室行事なども含め)の一部を見聞きし、とても大変なことだと理解しています。
比較することは、畏れ多いですし、大変に下世話な例ですが、私のように「二日酔いなので、今日一日、寝かせておいて」というような訳には、絶対にできません。毎日が、規則正しく健康に留意して、お過ごしのことと思います。
少なくとも、ふたつの理由から、法律の特別解釈ではありましたが、御代替わりがあったことは、良かったと感じている一国民です。