北海道での青春

紀行文を載せる予定

人を待つこと三題(6月の句)

① 暮色なお ゆかしくあやめ 佇(ただず)待つ

② 四十年(よそとせ)ぞ 卯の花生けて 朋友(とも)を待つ

③ 梅雨知らず 信濃(しなの)を唱う 姉見舞ふ

 

  今月は、人を待つことの非日常的な出来事があり、その体験が印象的だったので、「待つ」ことをテーマに俳句を作ってみようと思った。

 

 【俳句-①】は、日暮れても暗くならない土手で、アヤメが月の出を待っている様子を詠んだつもりになっている。しかし、私の俳句作りでよく陥る妄想癖で、読み手には伝わらない。
 『幼子の 棒先間近 梅の実や』と、近所一家が、棒で青海を収穫している場面で、子供にも収穫体験をさせようとするが、棒は届かないもどかしさを俳句にして、これを俳句会に提出するつもりでいたが、ふとアヤメを目にした瞬間、迷った。

 アヤメの直立する立ち姿は、宮中で天皇や平安貴族に仕えた女官のような気品があり、紫色の花柄も、古式ゆかしい。

 昼間も振る舞いを崩さず、さらに夕暮れても、誰か貴い人や月の出を待っているような気がしてきた。それで、こんな俳句となった。落語の「崇徳院」の落ちのような解説だが、月の出は無理にしても、立ち居振る舞いを正して立つ姿は美しい。

 

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ヒオウギアヤメ

 

 【俳句-②】は、40年振りに再会する朋友が訪ねて来るので、卯の花を玄関の生け花にして待っていたという文字通りの俳句である。

 乏しい通信方法の時代、何かの縁で不通になると、心ならずも交流が途絶えてしまう。しかし、札幌で地質学会の国際大会が開催されるのを記念して、同窓会名簿ができ、電子メールが公開された。それで、K君がやってくる。

 何回かのメール交換の後は、検索スキルを使えば、玄関直行の便利な時代だ。私は、野良仕事の後、畑の土手に生えていた霞草のような「卯の花(ウツギの木)」を採ってきて生け、K君を迎えた。

 

 

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ウツギ(卯の花

 【俳句-③】は、再び「つもり」で詠んだ句であろう。唱うから信濃の意味が、長野県歌「信濃の國」であることは理解してもらえたが、他は説明がないとわからなかった。

 母は、6姉妹と兄の末っ子である。長寿だった皆も、母と4歳年上の姉を残すだけとなった。その姉が、老人介護施設を移ったと聞いたので、母と私で訪問した。

 娘さんの話では、母の姉は悪い所がどこもないので移転した。医療施設の併設がない分だけ入居費は安くなったと言う。以前より健康的に見えるし、寝たきりから入所者仲間と関われるようになっていた。

 ところが、どう努力しても母が、自分の妹であることが理解できないばかりか、記憶の片隅にもない。脳の状態は寧ろ悪化していた。

 飽きてくると、無邪気に「信濃の國」を唱うのだ。正確に3番途中までは唱えるが、その後はハミングに変わる。いつか自分にも訪れる世界なのかもしれない。目頭に込み上げてくるものがある。

 ちなみに、「梅雨知らず」は、実際の梅雨の時期である時間感覚もないという意味と、つゆ知らずの意味なのだが、俳句では、掛詞というのは存在しないらしい。


 待っているものの最大なことは、老化と死である。俳句の題材としては相応しくないかもしれないが、強烈な体験だった。

 ところで、信濃の國は不思議な歌である。
 私が入院していた時、老人ばかりの病院食堂で、TVから曲が流れたことがある。

 その瞬間、老人のほぼ全員の耳と目が、TVに集中した。懐かしい童謡などと共に、人の脳裏に焼き付けられていたのだと思った。


 (【写真】は、私が母の「米寿の祝い」文集を作成した時に使用したものの一部からの引用です。花リボンのセーラー服姿が、14歳の母です。)

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兄の出征前に(昭和17年)

 【編集後記】

 はなはだプライベートな写真で、公開をためらった。ただ、信濃毎日新聞の紙上でも、古い写真を載せ、歴史的説明がなされている特集がある。その類の一部と思えば、いいのだろうか。この写真に写る人々の中で、現在存命なのは、本文に登場した母と姉、それに幼児の何人かぐらいになってしまっている。

 今は、お盆(盂蘭盆会)の時期で、先祖の位牌を仏壇から出して、白布を敷いた机に並べ、生花や供物、盆提灯と共に盆飾りを整えてある。私の父母と祖父母の、それぞれの両親の位牌と、家内の父母の位牌が並ぶので、何組かの夫婦の位牌がそろう。

 そんな中、ペアでないのは私の父と、父の兄の位牌である。父の方は、良いとして、父の兄は、終戦の4ヶ月後に亡くなったからである。戦地からかろうじて故郷に生きて戻れたものの、病死した。言わば戦病死と見なされ、広い意味での戦没者である。

 太平洋戦争(大東亜戦争)での日本(日本国民)の戦没者数は、310万人と推定されている。(軍関係230万人、一般人30万人、国内での戦死者50万人。)その中の一人としてカウントされている。そんな多くの御霊が、日本国中のそれぞれの家々や家庭を訪れているのだろうか。多くの犠牲とは言いたくないが、命を懸けた貢献によって、今の私たちの生活があることを、しみじみと思う。感謝と畏敬、平和を維持していきたい。