北海道での青春

紀行文を載せる予定

柿三題(十月の句)

① 高きより 声かけ渡す 夫婦柿

② 山路越え 眺め眩(まばゆ)い 柿の里

③ 木から落ち 見上げる柿は 空で揺れ

 

 10月の俳句を佐久市文化祭(「文化の日」前後で開催)に出す予定だったが、自分では不満足で、昨年長月の『野菊咲く道踏み分けて亡父訪ぬ』に、秋茄子を俳画にして出品した。10月12日は父の命日で、茄子は好物だった。
 今月は、柿をテーマにしてみた。

 

 【俳句-①】は、句会の2日前、家内と私の二人で柿の実を収穫した時の様子を詠んだ。柿の木が上に伸びないように剪定してあるので、高所の柿も、引掻き棒か、枝股に登れば採れる。なるべく落下傷のないように、私がもいだ柿の実を、家内に優しく放り投げる。(猿・蟹合戦とは違う)

「夫婦柿」とは、ペアの柿の意味と夫婦二人で収穫したからと、洒落てみた。

 ところで、私たち夫婦の柿の嗜好は正反対である。私は、柿が学校給食で出た時は、食事指導をする教師の面子から残さず食べたが、自宅で食べたことはない。一方、家内は大好物だ。堅い実も、熟れた柿も、干し柿も、様々に加工して楽しんでいる。妹の夫と、柿好きでは双璧をなす。

 

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ペアとなった柿の実

 

【俳句-②】は、山路の坂の頂上に立つと、佐久平の縁に我が家を含む集落があり、実が収穫されずに残った柿の木が朱色に見えた晩秋の眺めを詠んだ。

 【写真】の赤い屋根の建物は、「倉沢藥師堂の本堂」だが、昭和40年代まで萱葺き屋根であった。柿もその頃までは、しっかりと収穫され、一部の柿を残す「木守柿」の風情があった。しかし、今では各家庭で少し食べる分だけしか収穫しないので、鮮やかで、眩いばかりに残っている。

 平成9年に台湾に行った時、日本へ柿を輸出する為に、山岳地帯で柿を植えているというニュースで、台湾には柿文化がないことを知った。
 知人が「お歳暮」にと、有名ブランドの干し柿を贈ってくれた。柿は全国版では、貴重なもののようだ。しかし、私には有り難みが少しも理解できない。

 

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木守柿が残る(浅間山の初冠雪)

 

 【俳句-③】は、幼少の頃、柿の木から落ちて、取ろうとした柿が宙で揺れていた記憶を詠んだ。この出来事が、私と柿との運命を決めたのかもしれないと思うので、説明しようと思う。

 極めて丈夫な母が、高熱にうなされて『柿が食べたい』と言う。小学3年生の私は、柿の実を取ろうとして、老木の枝が折れて落下した。自宅の敷地から道路に伸びた枝で、石垣の高さを含めて5mの高さから、アスファルトの上に落ちた。

 痛いのかどうかもわからず、しばらくは泣き声も上げられない。見上げた青空を背に、取ろうとした柿の実が、揺れていたのを覚えている。頭を強打したが、脳震盪でなかったのは幸いであった。
 ようやく我に返り、大泣きしたので近所の方に気づいてもらえて、私は救助された。母親孝行のつもりが、翌日は私の看病で、母が起きてくることになった。

 それが「トラウマ」となって、柿が嫌いになったのかもしれないが、印象的な事件ではあった。ただし、アレルギー等で食べられないことはないので、嫌いなカボチャが、今では好きになったのと同じように、味覚転換するかもしれない。

 

【編集後記】
 我が家の「向山」と称する畑に隣接する墓地の「檜の大木」を伐採する話題を、はてなブログに載せたが、ついに本日、専門業者の作業で伐採された。私は、自宅からでも見えるが、三回も様子を見に行った。

 とりわけ、最後に5メートルほどに切り分けられ、丸太となった姿を見た時には、複雑な心境だった。まず、直径が60㎝ほどもある太さに感動した。年輪は、数えられないほどある。唐松の50年ほどの太さと比べると、破格の貫禄である。当然、少なくとも江戸時代からのものだろうと思う。

 今まで、あまり気にもせず、寧ろ、大きな横枝が畑を覆い、日照を奪い、雨を遮り、少々迷惑な存在とだけ意識していたが、その偉大な存在感と共に、生き物としての命を絶たれた材木の哀れさを目の辺りにして、畏敬の念が湧いてきた。

 思わず、『ご苦労さまでした。多くの歴史を見てくれていたんですね。』と、私は心の中でつぶやいた。