北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和元年度の俳句(奉燈句)

◇幟(のぼり)立つ 気球があがる そら令和  

 

 平成31年4月17日、定例の俳句会が開かれた。5月連休中に開催される倉澤薬師堂の花祭りに掲げる「奉燈句・額」の準備の為もあり、午前中から集まり、昼食会を挟んだ。午前中に俳句を互いに披露し合う勉強会を行ない、午後は、俳画の製作をした。

 この後、会員の奉燈句を墨書する。例年、会員Tさんの夫で、書家のF氏に御願いするのだが、今年は事情があって、なんと私が書くことになってしまった。文章や文字を縦書きにする経験も少なく、ましてや毛筆など、小中学校での書き初め程度のレベルである。それでも、引き受けてしまう所が、私の恐ろしい所である。

 何回か、新聞紙に墨書の練習をした後、清書して、4月19日に額に糊付けした。そして、4月29日「昭和の日」に鐘楼の梁に掲げた。

 ちなみに、緊張して「立つ」を「立て」と書いてしまったが、書き直すほどではないと考え、白の修正液で直してあるが、わかるかな?

 

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倉澤薬師奉燈俳句の額

 

 【奉燈句】は、5月1日から新元号となることに因んで、鯉幟が立つ先に、佐久市の名物ともなった熱気球が上がっていく「令和」の空が広がっている様子を詠んだ。漢字の空は、「くう・から」という意味合いもあるので、敢えて『そら』とひらがなにした。

 実は、元の句は幟 垂 れ  気球が上がる  そら令和』であったが、会員Sさんの指摘を受け、幟は、「垂れ」から「立つ」に変わった。

 私は、幟が垂れているのは、無風か、せいぜい風力1の快晴の青空をイメージできると主張したが、『それは、あんただけ!』と、みごとに却下された。

 確かに、修正後の方が良いと思い直してみたが、人々の多くは、『幟が垂れていると快晴である』とは思いつかないようだ。
 

 ところで、Sさんの『あんただけ!』から、以前に勤務していたA小学校職員室でのことを思い出した。読書旬間の給食時間中に、校内放送による民話「天道様金の鎖」の朗読があり、『蕎麦の根が赤いのは、(逃げる村人を追いかけて鎖を登っていた)鎖が切れて落ちた山姥の血が染み込んだからだ』という描写場面があった。

 私は、これと似た場面を思い出して、映画『ビルマの竪琴』(市川 昆 監督)のエンディングで感じたことを話題に挙げた。
 水島上等兵は、日本で帰りを待っている許嫁(いいなずけ)、父母や家族への望郷の念を断ち切り、竪琴を携えて、捕虜収容所に現れた。戦友は『おーい、水島。いっしょに日本へ帰ろう』と呼びかけるが、鸚鵡(オウム)を背に無言で去っていった。

 映画のラスト場面は、日本へと向かう復員船の夜の甲板で、『水島は、なぜビルマに残ったのだろう』と、戦友の一人がつぶやく描写で終わる。そして、主題歌『埴生の宿』が流れた。

 ところが、BGMと銀幕に字幕が流れた時、私は完全に興醒めした。

 そこには、『ビルマの大地は紅い。戦いで流れた人々の血で、紅く染まったのだろうか』と、あったからだ。ビルマ(現在のミヤンマー)のような熱帯地方の大地が紅いのは、有機物が地中の微生物によって完全に分解され、造岩鉱物は、ラテライト化作用で、鉄やアルミニウムの水酸化物となって、紅い粘土鉱物になるからである。血液の赤色とは全く結びつかない。最後の字幕さえなければ良かったのにと思う。まさに、徒然草「神無月のころ」の『この木なからましかばと、おぼえしか』である。

 ・・・・・そんな話をしたところ、K先生曰く。『監督は、無情にも流された血液と大地の赤色を繋げて、鑑賞する人々の涙を誘いたかったのかもしれません。そう思う人がほとんどで、教頭先生(私)のような人は少ないですよ』と。

 どうやら私の感性、私は寧ろ知性として欲しいが、変だという結論になるようだ。

 

 【編集後記】 

 A小学校職員室での話題は、既に他の題名「読書旬間中の職員室」で挙げたブログに詳しい。

 ところで、私たちは、平成31年という4ヶ月を過ごしたわけだが、振り返った時の年代換算では、令和元年とされてしまうようである。実際、そういう扱いをしないと、年齢計算を始め、様々な書類の手続きで混乱が生ずるはずである。

  M中学校勤務で、新入生の受け入れ準備の時、生年月日が、昭和63年と平成元年にまたがっている入学年度にぶつかったことがある。幸い、昭和64年1月1日~1月7日の間の生まれの人はいなかった。もし、いたとすれば、しっかりと記憶していたかもしれない。

 と言うのは、U中学校で、卒業証書の点検を同僚としていた時、その年度で卒業生が1万人を越えることになり、5組のある女子生徒が、「9999番」となった。

 私が、『すごいや、9が4つも連なるなんて』と話しかけたら、『おい、もっとすごいぞ』と言う。見ると、その子の生年月日が、昭和55年9月9日生まれであった。

 一万人目の卒業生より、この9の見事に重なった彼女のことを良く覚えている。