北海道での青春

紀行文を載せる予定

冬芽三題(令和3年睦月の句)

① 薄着の子 並木駆けてく 冬芽空

② 未来への 願いが詰まる 梅冬芽

③ 里わ垣 冬芽と喋(しゃべ)る 孫の声

 

 1月の季語と題材は、二人の孫らと散歩した折、良く目にした「冬芽」にしてみようと思う。
 令和2年の暮れから、長女夫婦が子どもを連れて帰省した。夫は、睦月5日に職場復帰したが、コロナ禍の中、狭い住宅に住むストレスを理由に、長女と孫は、実家に長期疎開している。老人ばかりの集落に、子どもの元気な声が響くのは、活気があって、ある意味微笑ましいが、家の中は遊具の散乱で、閉口している。
 『まあまあ、子どものすることだから・・・・』と、私自身がストレスにならないように、自己コントールしている。


 【俳句-①】は、二人の孫のあまりな薄着に心配しつつも、寒さを気にもせず元気な様子は、冬芽のようで頼もしいと感激したことを詠んだ。
 私は、冬晴れの青空を見上げながら、木々の冬芽の膨らみ具合を鑑賞しているが、孫たちは、棒きれを手に走り回っていた。 

 『子どもは、風の子』と言うが、寒風の中、本当に寒くないのだろうか?
 大人は防寒着と手袋を着用しているのに、子どもらは素足と素手で、しかも薄着である。口々に、防寒具や手袋を着けるように説得するが、強引に履かせた靴下さえ、脱いでしまう。まして、手袋などは、じゃまでしかないようだ。
 大人が歩きだすと、子どもらは駆け出し、太陽系の惑星の如く、先へ行ったり後に行ったりして、走り回っている。そして、薄着の上着のシャツさえ脱いで、ランニングシャツになると言い出す。体内には熱源があって、寒くはないのだ。触ってみると、手足は、凍り付くように冷たいのに、苦にもならないらしい。

 思い起こせば、若かった頃の私も、真冬の体育館でのバレーボール指導の折、スポーツウェアー1枚で過ごしていた。養蚕用ストーブが1台しかなかった子ども時代、冬の朝の寒さなど、気にもしなかったことが、懐かしく思い出された。
今の私には、とても再現することはできないが、生命力で漲っている子どもの身体の芯にはマグマのような熱源があって、火山噴火の溶岩のように湧き上がってくるものらしい。

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子どもは寒くないのだろうか?

 


 【俳句-②】は、枝々にびっしりと付いた梅の冬芽を見ていると、ひとつずつが、タイムカプセルに封じ込められた未来へのメッセージが入っているような気がしてきたことを詠んだ。
 例えば、子どもが、自分の将来への夢を込めて、『N年後の私へ、○○になりたい』というような、願いを書いた手紙が入っているかのようにも見てとれる。一見似たような粒々の梅の蕾(つぼみ)にも、よく見ると個性があって、それぞれ違った「希望(のぞみ)」が詰まっているのかもしれない。

 

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冬晴れの空と梅の蕾(つぼみ)


 ところで、人の言葉は、声に出して発音すると、それなりの意味をもった伝達力となり、コミュニケーション手段となるが、心の中で静かに滲み出てくるようにして創られてくる思考過程では、誰の言葉なのかわからないような未分化で、まだ有象無象の状態である。
 この状態から、言葉が口を通過しようとする瞬間に、自分の考えたことに近い言葉が、空気振動音となって出てくる。実際は、無意識に行われているのかもしれないが、少なくとも、私は、そう感じている。
 ちょうど今、下の方の孫が、苦労して言葉を出そうとしている様子を、日々目にする。
 自分の気持ちや表現を伝えようとしているのに、適切な言葉が出せなくて、幼い脳細胞で、必死に言葉を捜しているようだ。人間は、こんな過程を経て、言葉を紡ぎ、いつの日にか、大きな反物に織り上げることができるように、言語的にも成長していくのだと思う。
 梅の冬芽も然り。
 寒風の中、薄い表皮に覆われた冬芽の中は、春の訪れと共に開花する時の為に、少しずつ「梅の花言葉」を紡いでいるかのような錯覚を覚えた。

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梅の開花


 【俳句-③】は、庭の正木(マサキ)の生垣(植え込み)で、孫の声がする。正木の赤い果実や冬芽に、大人の声がけを真似て、何やら喋っているらしいことを詠んだ。
 自然に囲まれた田舎生活なので、積極的・意図的に、野山や冬田道、公園などに毎日連れ出している。そして、様々な自然現象を見つけると、実体験を通して遊ばせている。
 もっとも、私にとって取るに足らないと思うことに、孫らは興味を示すことも多く、逆に禁止するような場面もある。
 この正木の垣根では、クチクラ層の発達した葉が、つやつやした肌をしていることや、冬芽や赤い果実がかわいいこと等、擬人的に紹介したので、それを真似て喋っていたようだ。二階の部屋で、遠くから庭の様子を伺っていたので、詳細はわからない。
 私の経験では、男の子より女の子の方が、大人の話を真似た会話を良くして、「ままごと遊び」にしている光景を目にする。

 子どもは、大人にはつまらなく見えるものでも、遊びの対象に変えてしまう。本来的には、遊びの天才なのだ。
 ところで、現代の子どもの生活で危惧していることがある。
 私たち自身の子ども時代や、子育てをしていた時代と、今の時代が、大きく様変わりしたと感ずる点のひとつは、テレビ等の活用方法である。
 親が家事や、場合によっては親の都合で傍にいられない時、携帯電話で子どもの好きなアニメ番組や映画作品などを検索・呼び出して、それをテレビに映し出して見させている。すると、子どもは、画面に食い入るように対峙して、静かに真剣に見ている。だから、番組が放送されている間は、子どもが何か悪さをする心配は無い。非常に便利な子守役だ。
 ただ、親の方では、この便利さには危険も孕んでいることを知って利用しないといけないように、私は、孫らを見ていて感じた。時折、誘っても野外や自然の中での活動より、テレビ視聴の方が好きで、抜け出せないことがあるようだ。

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正木(マサキ)の冬芽

 

【編集後記】

 今までは、「編集後記」で良かったが、今回は、同時進行である。実のところ、明日、令和3年1月20日(水)に、1月の定例俳句会が予定されていて、それに向けて創作してきた俳句を載せたからである。

 みゆき会の会長M氏から、長野県ではコロナ禍での非常事態宣言の対象地域ではないが、県が独自に定めた警戒レベルで、私たちの地域もレベル5となったので、会の中止を告げられた。

 新型コロナ・ウイルスの新規感染者が、かつて東京都で100名/日と報告された時、私たちの佐久市を人口比で換算すれば、1名/日になると、警戒はしていても、どこか冷静に推移を眺めていた。

 しかし、現在では、一日で数名か1名とは言え、連日、陽性反応の出た感染者数が報告されている。自分たちの感染リスクは、仮想数ではなく、現実の心配事になっている。ワクチン接種が始まれば、自分も含め、会員の全員が優先度の高い人々に分類されるので、安全策というより、必然的な処置と言わざるを得ないだろう。

 

            *  *  *

 

  ところで、【俳句―②】で、 下の方の孫が、苦労して言葉を出そうとしている様子を話題にしたが、象徴的で、脳科学的にも興味のあるエピソードを紹介したい。

 昨晩、私と一緒に風呂場で遊んだ後、模型の「(コンクリートミキサー車」を紛失してしまい、一騒ぎあった。彼が、『「ごんごん」無い』と騒ぎだす。

 「かんかん」というのは、消防車だとわかっているが、新しい言葉である。良く聞き返すと、「ご(ろ)んご(ろ)ん」らしい。転がることからの連想のようだ。私が、わからないでいると、さすが一緒にいることの多い、3歳年上の兄が、『ミキサー車か』と言うと、彼、『ピンポーン』と正解であることを知らせた。『だったら、ミキサー車と言えよ』と私が言うが、言わせてみようとするが、なかなか発音できない。

 そこで私は考えた。幼児の頭の中には、自分自身で作り上げた言語体系があるのではないか?

 「ごんごん」は、日本語に翻訳すると、「ミキサー車」になる。大人の世界で通用する日本語の発音はできないが、幼児の意図する対象と現物は、同じ物を意味しているのに違いない。私たちが、外国語の辞書で翻訳して、知らない言葉の意図する内容を理解するように、幼児の脳細胞神経のシステムの中でも、似た活動と翻訳過程が進行中なのではないかと、不思議な思いであった。

 「わんわん」が、最近、ようやく「犬」になった。

 がんばれ! 梅冬芽が、開花するように、いっぱい言葉を紡んでいこう。