北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(はじめに)

         はじめに

 題名を『佐久の地質調査物語』としましたが、「フィクション」ではありません。ただ、物語という言葉に敢えてこだわったのは、自然科学を題材にした「易しい話」で、地質に興味のある人が、親しみを感じて読んで欲しいと願ったからです。

 地質学に関する学術論文は難しいです。対象とする人のレベルや目的から、仕方のない事情もわかりますが、もう少し私たちにもわかるように伝えて欲しい。また、一枚の地質図にしても、苦労して作られているはずなのですが、その大変さは見えてきません。
そこで、調査がどんな風に進められたか、そこには、どんな失敗や人間ドラマがあったのか、そんな裏話とでも言うべきエピソードもあったことがわかれば、親しみを感じて、比較的マイナーな地質の話題も面白くなるのではないかと思いました。
 そして、もうひとつの願いは、観察者としての記録を後世に残したいと思います。 
 調査活動を通して、地学分野は、『知りたい、見つけたい、わかりたい』と念じても、期待する対象物は容易に見つけられないことが多く、反対に見てもわからないことばかりという気がします。だから、私たちがフィールドを歩き、見聞きした基礎資料は、何とか、後輩のために残せないものかと思います。素人の調査とは言え、対象を記録・記載して、後世に残すことには、大きな意義があるように思うからです。

 例えば、【写真・下】のように林道ができて、露頭が現れた場所もあります。しかし、数年後、同じ場所も、コンクリート防護壁で封印されてしまいました。また、採石や道路工事で失われていく自然も、ずいぶん多くあります。さらに、露頭は、何年か経つと新鮮さが失われ、草木にも覆われ、見えにくくなります。だからこそ、この時代に生き、目撃した私たちには、その情報を後世に伝える責務ともいうべき使命があるのではないかと思うようになりました。

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目視できる断層とコングロ・ダイク

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断層の説明図(東武道沢)



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コンクリート吹き付けされた露頭

 信濃教育会は、長野県の教職員や教育関係者で作る職能団体で、明治19年に設立されました。佐久教育会は、その支部のひとつで、昭和36年、旧佐久市の誕生を機に、前身の南佐久教育会(明治18年設立)と北佐久教育会(明治19年設立)が、翌年(昭和37年)の5月に統合されました。

 私たちは、佐久教育会地域研究部門のひとつ、「地学委員会」に縁のある仲間です。明治時代の大先輩たちから数えると、大正・昭和、平成、(令和)へと、優に100年以上の歴史を背負っています。紀要集でも残っていそうですが、残念ながらありません。教育会誌にジャーナルとして、年度ごとの活動報告や雑記が残されているに過ぎません。やはり専門家ではなく、年間に数えるほどの調査日数では、十分な成果は出せませんでした。
 しかし、各時代の折々で刊行された市町村郡誌自然編の編纂では、会員もお手伝いをしています。中央から専門家を招いたり、そのご指導を仰いだりして、会員らが足で稼いだ資料も含まれ、貴重な成果が残されています。(別に、ご覧ください。)

 この冊子は、題名の趣旨のように、佐久教育会地学委員会の仲間と調査した内容に基づき、調査の経緯や、参加した人々にまつわるエピソードも載せています。私たちという表現は、地学委員の仲間と調査したからです。個人で調べた内容もありますが、厳密には区別していません。
                          平成28年 11月2日

 

【編集後記】

 今まで、細々と「みゆき会」の俳句にまつわるエピソードを紹介してきましたが、私の専門でもあり、また、ぜひ発信したい地質分野に関する話題を今月(2月)から載せていこうと思います。俳句は、月一回程度となります。

 山中地域白亜系のまとめは、平成9~11年に勤務した長野県望月少年自然の家の頃に、ほぼ完成していたのですが、定年退職後に、改めて編集し直しました。

 『いつか、冊子にまとめたい』という思いはありますが、少しまとまった部数を印刷するとなると、経済的負担もあるので、US記憶メモリーの中に保存してきました。

 それでも、「はてなブログ」さんで公開できるならば、いいかなと思い、これから発信していきます。

 ちなみに、使用した写真の露頭は、内山層のもので、白亜系のものではありません。

白亜系の後、内山層、さらにそれより新しい時代の地層(香坂層・兜岩層など)の話題に移って行く予定です。