北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(下部瀬林層の謎)

     隣接する下部瀬林層の謎

 私たちは、都沢の下流部調査で、「佐久地域では三山層を欠いているのではないか」と、当初、間違った解釈をしていましたが、その問題は、「瀬林層上部層が欠如していた」ことで解決しました。そして、褶曲構造は、南北方向に延びる何本かの断層で切られながらも、都沢から腰越沢、さらに大野沢へ続いていることが確かめられました。
 また、瀬林層は、抜井川の景勝地のひとつ、乙女ノ滝付近を通る乙女ノ滝断層(推定)を境に、その下流側(西側)に分布していて、特に、上部層は、抜井川本流の北側に偏在していることがわかりました。

 瀬林層の「下部層」と「上部層」の分布概要を【下図】に示しました。
 瀬林層と蛇紋岩帯断層以外の地層は、白抜きにしてあります。図は説明の為のもので、精度はありません。

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瀬林層の下部層と上部層の分布


 瀬林層下部層は、地域によって岩相や層厚に大きな違いがありました。特に、都沢と抜井川本流の中流部(標高1030m付近、※印)は、対照的です。

 都沢の粗粒砂・砂礫岩層の分布は、矢沢断層、都沢断層、四方原-大上峠断層によって断たれながらも、類似の岩相が、都沢の上流部からイタドリ沢まで追跡できました。石堂層の上位に当たるので、瀬林層下部層と考えられます。

 

 一方、抜井川本流の中流部(標高1030m付近、※印)にも、瀬林層下部層が分布しています。大野沢断層と鍵掛沢断層に挟まれた幅の狭い特異な地域(詳しくは後述)ですが、石堂層に挟まれていることと、二枚貝化石(Costocyrena radiatostriata)を含んでいることから、瀬林層下部層と考えました。
 この瀬林層下部層としたもの同士が、大野沢断層を介して、隣接(直接に接してはいないが・・・)しているのです。

 ⇒※印;疑問箇所

 両者の岩相が、あまりに違い過ぎ、納得いきません。下位層準は、珪質砂岩で共通する部分もありますが、上位に向かい、イタドリ沢~都沢側では、粗粒砂・礫岩層を主体とするようになります。一方、抜井川中流部では、砂泥互層が多くなった後、再び珪質砂岩層となります。その岩相の特徴から、間物沢川で見られた典型的な珪質砂岩層として良いと思います。
 両者の岩相の違いは、断層を推定したひとつの根拠でもあるのですが、「同時代の地層にも関わらず、そして隣接しているのに、岩相の大きく違う理由」が、わかりません。

 そこで、そうすることは非科学的だと、十分に承知しながらも、作成中の地質図の断層で囲まれたブロックを切り離して、断層運動等で移動・変形される前の姿を想像し、地質を復元してみることにしました。【復元図参照】

 従来、蛇紋岩体が、地表に比較的多く露出する北限を、抜井川断層として扱ってきましたが、蛇紋岩という岩石学的特徴(別項で詳述)から、推定される蛇紋岩体の全体を規模の大きな断層帯と考え、『蛇紋岩帯断層』としました。そして、この断層帯が、つながるような形状が、本来の姿に近いのではないかと想像してみることにしました。また、褶曲構造の軸も、かつては、連続していたのではないかと考え、蛇紋岩帯断層が、南側にずれた「イタドリ沢ブロック」を少し左回転させました。
(注意:作成途中のものなので、鍵掛沢断層の位置は、地質説明図と少し異なります。)

 

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向斜構造の主軸と蛇紋岩帯断層に注目した復元予想図

 堆積物が石化して地層となり、さらに褶曲構造を形成していく過程でも、堆積盆は、縮小・変形していくはずですが、その割合や方向は推定できません。だから、この方法を復元と呼ぶには、あまりに非科学的ですが、やってみることにしました。

 大胆にも蛇紋岩帯の構造は、白亜系堆積盆の形を色濃く残すほどの意味があるのではないかと考えました。また、南北性の断層の方が、蛇紋岩帯断層(東西性)より後から形成されているので、断層の移動量を推定できるのではないかと考えました。
 そして、蛇紋岩帯断層が、霧久保沢から都沢(流紋岩露頭付近)、曲久保沢と、比較的、直線になるように規準を取り、現在の位置と南北方向への「ずれ」を500m単位で概略的に表しました。(下表) 

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主に、断層の水平方向に移動した量の推定(500m精度と簡略化)

 注 意;話題に挙げている大野沢断層を境に隣接する「抜井川中流地域」と「イタドリ沢地域」に注目!

 すると、話題の大野沢断層と鍵掛沢断層に挟まれた「抜井川中流部」地域は、復元先から南側へ4.5kmも移動したことになりました。反対に言うと、かつて堆積した場所は、北側に大きくずれていないと、現在の位置に対応しないことを意味します。
 これは、抜井川中流部が珪質砂岩であるという特徴と、瀬林層上部層が北側に偏在する事実から、『瀬林層下部層の堆積した時代、既に堆積環境に大きな差を生じさせる要因があったのではないか』と思いつきました。つまり、都沢からイタドリ沢の岩相は、かなり陸域に近く、粒度の大きな砂礫岩層を堆積させるような環境にあり、反対に抜井川中流部の岩相は、沖合に当たる堆積環境であったと考えると解決できます。さらに、大野沢付近を加えると、もうひとつのタイプの中間型の堆積環境がありそうです。

 次に、瀬林層の分布する各沢の地質柱状図を作り、対応関係に着目しました。【下図】

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各地域ごとの「瀬林層」の対比・・・(柱状図)

 

 瀬林層の発達する大野沢が、全体の特徴を良く表しているように思われます。岩相変化を見ると、瀬林層のほぼ中間に、海の極めて浅くなった時期があり、汽水環境か、場合によっては淡水になったことが予想されます。この岩相変化は、間物沢川での変化と同じです。つまり、大野沢下流部での地層の中身が、下部層から上部層までの要素を備えていると考えられるので、これを基準に他の沢を対比させました。
 岩相の大きく異なる「イタドリ沢」と「抜井川本流中流部」は、層序関係から下位の石堂層の直上に位置し、瀬林層下部層に相当するのは確実である一方、層厚からも上部層を欠いていることが推定できます。

 

 【編集後記】

 今、「はてなブログ」に瀬林層のことを話題に挙げながら、もし読むひとがいたら、地質図がなくてわかりにくいだろうなと思っています。しかし、「はじめに」で触れましたが、まず結論ありきではなく、地道な踏査と観察記録の分析や推理から、少しずつ全体像が見えてきた過程を辿りたいと思います。(お付き合いください。)

 実の所、群馬県側の瀬林層について書かれた文献を見て、「北列・中列・南列」と岩相の特徴から区分していることは、知っていました。しかし、この隣接する同じ時代の地層が、かくも違う理由が、「堆積した場所、陸域に近い~沖合~はるか沖合」によって岩相の違いを生じさせ、さらに長い間の断層運動によって接近していたことがわかり、3区分の理由もわかりました。ただ、仮説であることは注意しなければなりません。

 その後、専門家の文献などを手がかりに、日本列島が大陸から移動してきた過程の中で、この白亜系もどう変化し、移動してきたかを明らかにしていこうと思っています。

                              (おとんとろ)