北海道での青春

紀行文を載せる予定

都沢付近のまとめ(後半)

(4)見抜けなかった上部瀬林層の欠如

 都沢では、上部瀬林層が堆積していないことがわかりました。つまり、この時代、既に陸化していたという意味です。大野沢の瀬林層(上部層)からは、砂泥互層部にシダ植物の化石が確認されるのに対し、比較的露頭状態の良い都沢で、それらの対比層がまったく認められないことに疑問を感じていました。その答にもなります。

 

(5)三山層(さんやまそう)

 1020m二股と呼ぶ場所に砂防堰堤ダムがあり、調査した平成4年頃の都沢は、土砂の貯まったダムの中の河床で、二股となっていました。
 左股に入り、カワラ沢の合流点から東へ15m付近までは、蛇紋岩露頭が点在します。

 そして、ここから上流へ200mほどの狭い範囲に、三山層は分布しています。
 下流側から見ていくと、最初の露頭は、泥が優勢な砂泥互層で、泥岩は純粋に泥だけのものと、砂質なものがありました。また、砂岩は、「蛇紋岩成分が染みこみ、変質している。(11.Aug 1992)」と記載していましたが、再調査の結果、大きな問題へと発展する内容を含んでいました。その後の調査で、蛇紋岩帯を乗り越えるような三山層堆積時の海進があり、 既に露出していた蛇紋岩礫が堆積物として入っている可能性があります。(後述)

 この30m上流に小さな滝があり、灰色中粒砂岩(主)と黒色頁岩(従)の互層部分で、「N60~80°W・70~80°N」の走向・傾斜を測定しました。
 少し上流の蛇紋岩に押し出されるような部分の砂泥互層では「N20°E・80°W」と、前の走向に直交するような値も得られました。
 これより約60m上流で、再び滑滝が現れ、「ストライプ」層準が見られ、走向・傾斜は、「N40°W・65°N」と、北落ち傾向を示します。
 さらに上流の2箇所で、ストライプ層準が見られ、標高1050m付近の確認した最後のストライプでは、「N10°W・70°E」と、東落ちのデーターもあります。岩相から、三山層であることは間違いないと思いますが、蛇紋岩帯断層に近く、構造は安定していません。

 

 一方、下流側ブロックでは、泥が優勢な砂泥互層が見られ、部分的に黒色頁岩層が卓越した層準もありました。また、特徴的なストライプ層準の露頭が、7箇所ありました。この内、上流側の4箇所は、北落ちの傾斜に対して、北側が上位であることが確かめられました。しかし、下流側の3箇所は、地層の傾斜は北落ちながら、「ラミナ」の構造解析から、北側が、寧ろ下位層であることを示していました。

 つまり、下流側の地層は、見かけとは反対に、上下関係が逆転していることがわかりました。(「ラミナが教えてれたこと」を参照)
 それで、私たちは、褶曲面が著しく南側に傾いた向斜構造を考えました。そうなると、向斜軸は、ちょうど送電線の真下辺りになり、南翼の3箇所のストライプ層準に、北翼の3箇所が対応することになります。そして、向斜軸付近は、直径が15cmを超える閃緑岩の大礫(Cobble gravel)を含む砂礫岩層が対応することになります。

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 三山層を含む、抜井川に沿った向斜構造は、都沢周辺地域や大野沢でも確認できました。走向・傾斜は「N50~70°W・60~80°N」と、走向は石堂層や下部瀬林層と調和的ですが、傾斜を見ると、向斜の中心軸付近まで、かなりな急傾斜(両翼とも北落ち)です。この為、中心軸、正確には褶曲面が、著しく南に傾いたという言い方をしています。軸に向かい傾斜が緩くなるという一般的な向斜構造とは、かなりイメージが異なります。「毛布の中心を折り畳み、それをかなり斜めにしたような」重なり方をしていると例えた方が、わかりやすいかもしれません。

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都沢の地質柱状図 


           
【 閑 話 】   二度と来られない所だから

 平成4年11月15日(日)は、伴野拓也先生と私のふたりだけの調査でした。ちょうど会員の郡外勤務や校務の関係で、参加できる人が少なかった時期です。
 午前中に都沢から東側へ数えて9番目のイタドリ沢を、午後は8番目の無名沢に挑戦しました。ストライプ層準(三山層)を確認した後で、粗粒岩~礫岩層(下部瀬林層)を見つければ、向斜構造南翼の対応関係は完璧なものになります。そろそろ現れる頃かなと期待しながら沢を詰めていました。しかし、晩秋の早い日没を迎える時刻となってしまい、目印となる大木(標高1160m付近)までの踏査とし、目的を完全に果たすことなく引き返してしまいました。その木は、山の斜面から沢に向かって枝を張り出した岳樺(ダケカンバ)で、夕焼け空を突き刺すかのように聳えていました。長年の風雪に耐え、一種独特な趣があり、神々しさを備えていました。
 私たちの調査している沢沿いの山林には、このような大木が、沢の「分され」や三股にいくつか見られました。たぶん、炭焼きなどの山仕事をした人々が、交通の目印にしたのでしょう。きっと、当時も既に周囲の木々とは一線を画する巨木だったのだと思います。それが更に年輪を重ね、まさに御神木といった雰囲気を醸し出しています。
 私は、「もう二度と来られないだろうな』と思いつつ、まだ目的は果たしてはいないので、『もう一度、参ります』と、つぶやいたような気がします。しかし、予感通り、この大木との再会は、その後ありません。

 私たちの調査は、限られた回数で実施しているので、自ずと目的と優先度があります。茨口沢のように、わからなくて何度も出かけた沢もありますが、多くの沢は、もう一度、足を運べるとは限りません。寧ろその調査で入ることが、最初で最後の機会となります。
 だから、露頭が無かったり、ブッシュで先に進むのが嫌になったりして、誰かが『もう、止めよう』と言い出した時、『もう二度と来られない所だから、もう少し先まで行こう』と、誰かが言うのも常なのです。茶道の一期一会ではありませんが、そんなつもりで自然を眺めると、それなりに思い出深いものです。
 写真は、もう行かないだろうなと思う都沢の上流部です。

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流紋岩の露頭・板状節理(左岸)と柱状節理(右岸)が見られる

  

  【編集後記】 

  都沢の踏査(平成4年8月11日)には、『流紋岩の露頭写真が撮りたいから』と、ご高齢の岡部 静 先生(故人)が参加されました。義父らと日曜日に自転車で地質調査に出かけ、真っ暗になって帰宅したというエピソードを義母から聞きました。

 今より不便で撮影も大変な時代なので、きっと「撮り忘れた」こともあったのでしょう。そう言う私も、パソコンや画像処理に不慣れな頃、文章に画像を取り込めばそれで済んだと、元画像を消去してしまったこともありました。

 確かに、本文で述べているように、都沢の左岸(板状節理)と右岸(柱状節理)で、産状(溶岩の冷却条件の違いか?)の違う流紋岩露頭の写真を撮りました。しかし、保管用CDを隈無く捜しましたがみつかりません。仕方なく、原稿の紙面からスキャナーで読み込み、画像にしたものを使用しました。 

 全ての物事において、そうだと思いますが、自然観察でも観察記録やデーターを整理して保管することは、基本中の基本と言えそうです。  (おとんとろ)