北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(鍵掛沢断層の存在)

            鍵掛沢断層の存在

 鍵掛沢の西側に、比較的大きな断層があることは確実です。十石峠~新三郎沢と東側からの蛇紋岩露出の連続が沢の西で途切れ、さらに霧久保沢~都沢と連なる西側分布と比べ、北側に大きくずれているからです。

 昭和62年8月2日の調査で、鍵掛沢に入りました。当時、沖浦悦夫先生を編纂委員長に進められていた『南佐久郡誌自然編』改訂版へ載せるデーターを収集することが目的でした。
 鍵掛沢の上流部は、石墨(graphite)化した黒色頁岩や結晶質砂岩、輝緑凝灰岩(schalstein 塩基性火山噴出物)、チャートなどが分布していて、岩相から見ると白亜系ではないことがわかりました。(※後述する「黒瀬川構造帯に関する項」を参照してください。)
 鍵掛沢の下流部は、蛇紋岩が連続している露頭が多く、滑滝の全体が蛇紋岩からできている箇所も見られます。登るには滑って危険ですが、実に美しい景観が楽しめます。
 一方、鍵掛沢が合流する抜井川本流の「臼石橋から、さらに上流の石堂橋」辺りまでの現地形は、流路が目まぐるしく急変する箇所が多くあり、特別な地質構造を示唆します。
 とりあえず、私たちは、鍵掛沢の西側に「鍵掛沢断層」と名付けた断層を推定し、その通過位置を、抜井川中流部から、さらに北側の大野沢に追跡することにしました。

 

     抜井川中流部の調査から

 

 平成5年7月、抜井川の本流と、その支流の調査に入りました。【図】「抜井川中流部と周辺ルートマップ」を参照してください。本文中の説明【図の①】などの表示は、図の各数字に対応しています。

 臼石橋付近や支流では、黒色頁岩が優勢な砂泥互層で、ストライプ層準も見られ、三山層だと思われます。臼石橋から南東に300m、かつて国道と林道を結ぶ簡易橋があった所(【図-①】)に、暗灰色細粒砂岩層(数m)と砂質黒色頁岩層(10cm)の砂泥互層があり、黒色頁岩層が風化・浸食され、砂岩が露出している部分に「ソールマーク」が見られました。ソールマークは、砂の上に残された凹凸のことです。泥の上に砂が堆積する時、砂を運ぶ水流が、泥の表面を擦り取ります。固まった後で、泥が浸食されると、砂の部分に流れの跡(流痕)が凹凸となって残ります。この面は、砂岩層の下底を意味するので、古水流の推定や地層の上下判定に使われます。ここの地層は見かけ上、逆転していました。

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「ソールマーク」の露頭

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     ~ソールマークの説明~
 臼石橋の上流で、ソールマークが見られる。間物沢川(まものざわがわ)の漣岩(さざなみいわ)に印象が似ていたので、恐竜の足跡化石が発見できるかと期待した。しかし、ソールマークは層理面の下底を示すので、漣痕化石とは、上下が逆の関係になる。
 図で、ソールマークの残る砂岩層Cを含む砂泥互層は、地殻変動で逆転する。その後で、下位のE・D層が削剥されると、C層が露出する。堆積時に下底であった面の凹凸模様は、古水流の方向に長く延びた形となって現れる。

 

              *  *  *  *

 

 本流から東に延びる無名沢の標高1045m(【図-②】)で、蛇紋岩露頭(高さ10m×幅8m)を見つけました。また、これより下流の小滝(落差3.5m)では、砂岩の中へ蛇紋岩が、あたかも染み込んだように見える露頭があり、標高1035m付近では、砂岩と礫岩の構造不明部に断層粘土が見られました。いずれも、断層の存在を示唆してくれそうな情報です。


 再び本流に戻り、下流から観察していくと、珪質で硬い灰色の細粒~中粒砂岩層が現れます。岩相の特徴から、瀬林層下部だと思われます。わずかに泥岩も挟まりながら、さらに上流まで続き、大小さまざまな滝をつくる造漠層となっています。
 小さな滝と、それから続く周囲の木々や苔を映し出した水域は、日本庭園そのもので、趣深い風景です。(後述)

 

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抜井川中流部・臼石橋~石堂橋~坂口橋

 

 イタドリ沢との合流点の少し下流で、抜井川が流路を変える付近(【図-③】)に、薄い礫岩層を挟む砂質の黒色頁岩層の露頭(幅15mほど)がありました。硬い珪質砂岩が優勢な地層の中で、異質に感じられる砂泥互層です。『化石層準ではないだろうか』と思い、私たちは、ノジュール状の部分や砂質黒色頁岩層で化石を探しましたが、その時は見つかりませんでした。しかし、平成8年に調査した時、ノジュールの中から二枚貝の化石(Costocyrena radiatostriata)を発見しました。この二枚貝は、下部瀬林層で多く認められます。同質の地層は、この地点から約25m下流の小さな橋のある左岸までつながります。

 一方、川の右岸側の砂泥互層で、「N10°E・72°W」の走向・傾斜と級化層理も認められ、地層全体の西傾斜を確認しました。しかし、北方への延びは、下流側にある礫混じりの粗粒砂岩からなる滝によって切られ、追跡できませんでした。さらに上流へ辿ると、沢は東に流路を変えます。珪質で青味がかる明灰色細粒砂岩(「NS・60°W」)が見られました。

 ところが、イタドリ沢合流点より東側(【図-④】)では、走向・傾斜ともに、それまでの傾向と大きく変わります。ちなみに、「N40~60°E・40~45°SE」と、走向はさらに東振りとなり、傾斜は東落ちとなります。
 岩相から見ると、違う時代には見えないですが、構造が大きく違うことを根拠に、両者の間に鍵掛沢断層が走り、下部瀬林層(西側)と石堂層の下部(東側)が接しているのではないかと考えました。

 

 抜井川本流に鍵掛沢断層を推定した地点④から上流側、乙女ノ滝を経て、石堂橋付近まで、石堂層が分布しています。特に、石堂橋の西側露頭(【図-⑤】)は、豊富に二枚貝化石を産出する場所(私は、まだアンモナイト類の発見は無いが)として知られています。

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石堂橋西側露頭で化石拾いをする中学生

 

 ところが、このゾーンの地質構造が、わかりません。

 走向・傾斜のデーターを素直に採用すると、地層はぶつかることになります。層理面ではなく、節理面を測定した可能性もあります。付近に蛇紋岩帯断層が走っているので、その影響を受けて、地層が湾曲したり、細かく切られたりしていることも考えられます。周辺域の地質構造を加味し、大局的な見方をすると、蛇紋岩帯断層の延びる方向に沿っていると考えても良いのかもしれません。それで【図-⑤】では、N20°W~N10°E・20°Eの走向・傾斜値を採用しています。

 これで問題解決かと言うと、もうひとつ重大な問題があります。それは地層の上下判断ができません。具体的に言うと、石堂橋西側露頭(【図-⑤】)の化石層準層と、東側に分布する珪質砂岩層の、いずれが上位層になるかという問題です。単純に、東落ちを採用できそうに思えますが、【図-⑤】は連続していないので、どちらとも解釈でき、また、それを決める証拠もありません。
 3つの可能性があります。

① 化石層準が上位である場合;

 石堂層全体を見ると、下部層は砂が多く、上部層は泥が多いという傾向があります。こういう見方をすると、化石層準は泥優勢な砂泥互層や砂質黒色頁岩層から成るので、上部層と言えそうです。地質構造を考えると、軸が西に傾いた背斜構造の南翼に当たると解釈できます。

② 化石層準が下位である場合;

 地層の全体的な延びを蛇紋岩帯断層の延びの方向とすれば、化石層準が断層に一番近いので、下位になります。さらに、報告された化石種から石堂層下部に当たるのではないかと言われています。地質構造は、向斜構造の南翼に当たると解釈できます。

③ 点的存在でわからない;

 産出する化石の豊富さという観点では、異質な場所です。石堂層からの化石報告と言えば、その比較的多くが、この石堂橋の西側露頭のものと推測できます。しかし、石堂層のどの層準になるのか不明であるという状況は、悲劇です。
ちなみに、松川正樹先生は、石堂層の模式地を間物沢川に移しています。

 ・・・私たちは、②のアイディアを採用しました。「白井層」も含む白亜系全体の褶曲構造から見ると、当地域は、向斜構造の南翼(南西)に当たると考えました。

 

 【編集後記】

 本文中で触れた「日本庭園のような・・・」という所へは、家内が不在だった休日で、子どもたちが小さい時に連れていきました。その後、もう少し大きくなってからは、乙女の滝から三段滝の辺へと冒険させました。そして、令和2年の夏には、なんと孫らを・・そこは難しいので、臼石の周辺を案内しました。既に、調査当時から1世代(One Generation)以上の年月が流れます。

 同様に、石堂橋西側露頭で「化石拾いをする中学生」も、懐かしい日々です。平成6年当時の中学1年生なので、アラフォー世代になっています。学校の文化祭で、学級展示に化石のことを発表したいと言うので、案内しました。・・・それにつけても、ゆったりと学び、文化・学芸さらには体育や旅行的行事も、このコロナ禍で、本来の学習カリキュラムから削られているだろうと思うと、とても残念でなりません。     (おとんとろ)