北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(白井層に挑戦)

   謎の多かった白井層への挑戦

 平成7年6月24日に、私たちは、昭和63年度以来、わからないので敬遠したままの茨口沢の「白井層(しろいそう)」と、その周辺の調査を行ないました。そして当年度内で、佐久地域で一番古い白亜系・白井層の地質構造を解明しようと計画しました。
 それで、この章の冒頭、松川正樹先生の3年振りの佐久来訪だったわけですが、北海道での調査中のけがを押してまで来ていただいたのは、棒向沢の「白井層」を先生から現地で説明してもらえる約束があったからでした。

 平成7年8月11日、棒向沢(ボーメキ沢)に入りました。
 この沢の下流部は、石堂層です。上流部の先白亜系の中に、白井層が、ポツンと分布しているのですが、十分な情報がなくて先白亜系との関係はわかりません。(断層で接していると解釈しています。)
 文献によると、かなり古くから著名な研究者が入っていて、この場所を、どうして発見できたのか不思議なくらいです。きっと、山仕事をしていた土地の人が、化石の出る所があると教えたのかもしれません。
 棒向沢の標高1300m付近に木橋がありました。そのわずか上流の湿地帯(地形図では小さな沢が南東から流入する辺り)を過ぎた、標高1320m付近で、礫岩を挟む黒色中粒砂岩から、二枚貝の化石をみつけました。
 その上流からも化石を産出しますが、標高1035m付近の砂礫岩層から産出するものが、一番保存状態が良いようです。先白亜系との関係がわからないので、分布だけを示してあります。地層には、節理面があって、走向・傾斜の測定には苦労しました。層理面を化石の並び方から判断して、「N60~70°W・45~50°S」の値を得ました。
 「Neobakvria shinanoensis」を始め、何種類かの化石を説明していただきましたが、覚え切れません。同心円状の肋が15本ほどあり、放射状の肋の無い「Costocyrena Otsukai」というシジミ貝類は、素人でも外見から同定できそうです。この「C. Otsukai」は、白井層から産出することが多いとのことです。

 一方、形は似ていますが、同心円状の肋と肋の間に放射状の肋が入る「C. radiatostriata」は、瀬林層からの産出が多いと教えていただきました。この2種の二枚貝の化石は、多産するので、地層区分の良い手がかりとなりそうです。(【閑話】参照)

 

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棒向沢のルートマップ

 

 【 閑 話 】 懐かしい出会いと松川先生のその後 
 
 平成25年5月25日、「佐久穂町地質同好会と公民館」主催で、松川正樹先生を佐久穂町「花の郷茂来館」にお招きし、『山中白亜系の層序と堆積構造に関するMatsukawa(1983)以後の研究の評価』と題する講演会がありました。

 その中で、「Costocyrena. Otsukai」や「C. radiatostriata」などの非海棲二枚貝は、示相化石であって、示準化石にはならないという話をお聞きしました。このシジミ貝類は、三畳紀に分化した系統で、生息期間が長く、白亜紀の中で、両種が生存していた証拠もあります。佐久地域では、石堂層(海成層)の堆積時期に一端消滅し、再び復活しているようです。たまたま「C. Otsukai」が白井層に、そして「C. radiatostriata」が瀬林層(下部)に多かっただけのようです。 
 陸地部分が残っていた手取層群に関する、先生と門下生の調査では、両方の種は、生き残っていたという証拠が得られました。その意味で、示準化石としては不適当で、示相化石であるとの研究成果を発表されました。

 ちなみに白亜系の年代区分は、元々、欧州産出のアンモナイトの生息区分を基準に作られているので、非海棲化石類を使って時代考察するのは、無理だろうとの示唆をいただきました。

 

 【編集後記】

 今日の話題は、やや少ないですが、連続して分布する白亜系の中で、分布域がかなり南側に離れた棒向沢の「白井層」の紹介で、一端、幕を閉じます。実は、この白井層は、極めて多くの謎を秘めていて、比較的その分布が多い「茨口沢」へは何度も足を運びました。多分、ひとつの沢にこれほど足繁く通った所はないと思います。次回にご期待ください。

               *  *  *

 

 ところで、山中地域白亜系の分布する抜井川本流には、「古谷(こや)ダム湖」があります。主目的は、巨大な砂防ダムというような洪水対策だと思いますが、観光にも一役買っていて、町で運営する保養・宿泊施設「臼石荘」が、ダム湖のすぐ下流あります。私たちも、夏の調査で利用させてもらったことがあります。

 ここのロビーに、ダム湖の北側にそびえる山(痩せ尾根)の昔の写真が額に入って飾られていて、ガラス越しに撮影しました。(【写真―下】

 【写真―上】は、ダムと付属施設建設の為に、山肌が削られ、大野沢や大上(おおかみ)林道への分岐に懸かる橋を撮した現在の姿です。(現在と言っても、平成7年)

 痩せ尾根の一部の高まりなので、正式な名前はありません。西側から見ると三角錐に見えるので、私たちはフィールド・ネームで、「三角山」と呼んでいます。

 この三角山は、粗粒岩からできていて、最終的に、瀬林層(上部層)だとしましたが、構造を解明していく段階では頭を悩ませた場所でした。今は、ダム湖の底(当時の川の右岸側)に「礫岩層が連続している旨」」が、旧南佐久郡誌に記載されていました。

私たちには、調べようもありません。三角山のコンクリート吹きつけをした箇所を少しだけ孔を開けて叩いてみましたが、粗粒砂岩ぐらいの手がかりしか得られませんでした。

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古谷ダム湖の北側の「三角山」

 

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ダム湖の工事前の「三角山」(撮影年は不明)

 このように、湖の底に沈んでしまえば、後世の人には観察できない所となってしまいます。反対に、山肌を崩しても、コンクリートで覆われてしまえば、これも観察できなくなります。埋蔵文化財ほど貴重ではないにしても、自然の地形や形態を変えた時には、何とか記録を残しておくことも重要だと思いました。

 その点、後世に伝えようとする思いからでしょうか、誰かが昔の「三角山」の晩秋の風景を撮し、残しておいてくれたことに感謝します。    (おとんとろ)