白井層の特異性
抜井川の上流部・茨口沢(ばらぐちざわ)には、松川正樹先生(東京学芸大学)が、産出する化石を手がかりに、白井層(模式地は、群馬県)とした地層があります。
私たちは、昭和63年8月12日、松川先生に案内していただき、茨口沢を歩いています。その時の資料を見返してみるのですが、地質構造がわかりませんでした。特に、解明を困難にさせている原因は、目視できる規模の小さな断層群で、鏡肌(かがみはだ)が随所に見られます。その度に、走向・傾斜が変わり、地層の上下関係すら、わからなくなってしまいます。
昭和63年の調査では、沢の標高1200m付近右岸の崖下で、直径が40cmほどもある「幻のアンモナイト(石堂層中と思われるが、行方不明)」を発見しました。この日は小雨でしたが、少し前のいつかある日、崖から抜け落ちたものと思われます。その他にも、二枚貝やトリゴニア化石などの説明を受けましたが、私の理解力不足で、わからないことだらけでした。
佐久を離れ、調査をしばらく中断した期間(平成元年度~3年度)があり、平成4年から取り組み始めた白亜系の調査ですが、しだいに進み、抜井川上流部へと展開してきました。
ほぼ7年振りの平成7年6月24日、私たちは、懐かしい茨口沢に入りました。すると、新たに林道が敷設されていて、露頭も新たに増えていました。その中に、興味ある事実が見えてきたのです。
いくつかの特徴的な砂岩層があることに気づきました。
さらに、背斜構造の中心軸部分が、【写真・下】のように、しっかりと見えていました。林道の整備・拡張工事で、右岸側斜面を大きく崩したようです。
こうなると、複雑な走向・傾斜と、小断層群があっても、大局的には背斜構造であると考え、中心軸から外側へ、露頭の順に、素直に並べてみれば良さそうです。
すると、下のように、背斜構造の中心軸部分の礫岩層から、沢の標高1220m付近(地図上の北西からの沢合流点)の石堂層の基底礫岩層に相当しそうな層準まで、9区分できることが、わかりました。
① 礫岩(主)と粗粒砂岩層(白井層の基底礫岩層)
② 砂優勢な砂泥互層(わずかに礫岩層が挟まる)
③ 軟弱砂岩層(赤褐色風化の砂岩塊と周囲の砂岩層)
④ 緑色砂岩層(青緑色を帯びる灰色中粒砂岩層)
⑤ 黄土色砂岩層(風化に弱い砂岩層)
⑥ 泥優勢な砂泥互層(砂岩から二枚貝化石を産出)
⑦ 明灰色砂岩層(風化に強い砂岩層)
⑧ 砂泥互層(わずかに礫岩層も挟まる)
⑨ 角礫の礫岩層(石堂層の基底礫岩層相当層?)
☆注:③と④の砂岩層は、東西両翼で確認できる。
★注:⑥~⑨は、露頭の関係で、 西翼でしか見られない。
(1) 背斜構造の中心部に白井層の基底礫岩層がある。
【写真・目視できる白井層背斜構造の軸部】の見られる場所は、茨口沢林道で送電線が通るほぼ真下です。この目視できる小背斜は、大局的に見て、背斜構造の中心軸に当たり、白井層の基底礫岩層と思われます。
中粒砂岩をわずかに挟む礫岩層で、最大経が5cmの灰色砂岩とチャート礫からできています。直径3cmほどの灰色砂岩の円礫が多く、チャート礫は、寧ろ少ない傾向にあります。
石堂層と比べると、チャート礫の割合が小さく、礫の中に泥も混じっていて、汚い(分級が悪い)感じのするのが特徴です。
分級されずに、礫・砂・泥が混ざっているという事実は、堆積物が水流によってあまり長い距離を運ばれなかったことを意味します。あるいは、堆積盆が小さかったことを意味するのかも知れません。私は、この両方だと思います。
道路から2mほどの高さでの互層部で、走向・傾斜を測定すると、軸の西側と東側で、それぞれ「N60~70°W・60°SW」、「N10~20°E・50°SE」でした。背斜軸は、わずかに南側に沈み込んでいく傾向にあります。
この礫岩層を最下部と考え、小さな断層や乱れは無視して、全体の背斜構造を西翼の地層データーから計測すると、白井層は150m前後の厚さになるだろうと推定しました。
(2) 軟弱砂岩と軟弱砂岩層
背斜構造中心軸の外側に、砂優勢な砂泥互層(わずかに礫岩層が挟まる)があり、さらに外側の両翼(それぞれ西側と東側)に、『軟弱砂岩(なんじゃくさがん)』と名付けた特異な砂岩層があります。
「軟弱砂岩」とは、砂岩層の中に、砂岩の岩質とは異なり、風化されて脆くなった砂岩岩塊が閉じ込められています。直径または、長経が、3~20cmほどの球体ないしは、回転楕円体のような形状をしています。
比較的、目につくものは大きいので、ちょうど、ハンドボールやラグビーボールが砂で作られていることをイメージすれば、ぴったりです。このため、割れた断面は、きれいな円形や楕円形に見えます。
【写真①】は、周囲が青緑色を帯びた明灰色の中粒砂岩層で、この中に楕円形の断面を見せた「軟弱砂岩」岩塊が含まれていました。産状から類推すると、かなり形の整った回転楕円体だと思われます。
ハンマーで軽く削っただけで、赤褐色~こげ茶色の内部が現れ、中粒~粗粒砂のように見えます。(写真中央の斜め直線の色の変わった部分)
簡単に擦り取れてしまうので、「軟弱砂岩」と呼ぶことにしました。対象を明確にする為、砂岩の岩塊を「軟弱砂岩」、周囲の砂岩を含めて言う時は「軟弱砂岩層」と、区別して表現しています。
写真の軟弱砂岩は、道路工事で崩され、道路に落下した砂岩の大岩塊の中に見られたものです。
【写真②】は、暗灰色の中粒砂岩層の中に取り込まれていた軟弱砂岩です。ハンマーで削り取れるほどの柔らかさではありませんでしたが、叩いて内部の様子を確かめると、茶褐色に変質した砂粒子が現れました。
【写真③】は、いくぶん青緑色を帯びた明灰色砂岩層(中央は風化色)の中に、軟弱砂岩がかつてあり、それが抜け落ちた穴と考えられる露頭です。茶色に見えるのは、周囲の泥が入っています。残された穴の形状から、球体に近いものであったと思われます。
これらは新たに大野沢に至る林道が完成する前の写真で、①と②は茨口沢、③は大野沢林道終点付近(当時)のものです。林道完成後の調査でも、同様な露頭が数多くみつかりました。(他の機会に、数々の軟弱砂岩の産状を紹介しようと思います。)
問題は、「この軟弱砂岩の正体は何なのか? そして、形成メカニズムは、どうなっているのか?」です。
(後述します。)
【編集後記】
白井層の特異性について、その成因については、次の機会とし、まずは、私たちがフィールド・ネームで、『軟弱砂岩』・『軟弱砂岩層』と呼ぶ代表的な産状を載せました。
詳しく文献資料を当たった訳ではありませんが、この軟弱砂岩に注目した記載は、南佐久郡誌を始め、他の報告にも見あたりませんでした。ひとつふたつの産状であれば、「砂が堆積した時に、他の何かが一緒に堆積したんだ」ぐらいに感じて、見逃してしまうかもしれませんが、白井層の中で、かなりな数が見つかるので、偶然ではない必然的な産状を説明する必要があるはずです。
ところで、本文中で、不明になった大型アンモナイトのことに触れましたが、そのアンモナイトは、岩盤から抜け落ちた「転石」状態でみつかりました。(昭和63年8月12日)
当時、小雨の中、皆で捜しましたが、崖の上の方だろうということで、わかりませんでした。
そんな日から28年後の2016年(平成28年)9月30日と10月1日に、当時の場所付近で、【写真】のような印象化石を見つけました。
六川源一先生が最初に見つけたと知らせてくれて、まず二人で、翌日、5人で観察にいきました。二枚貝や植物片(炭化物?)も近くで見つけました。・・・そうなると、海成層といえども、アンモナイトは流されてきた可能性も大きいです。
足繁く通った茨口沢も懐かしかったです。 (おとんとろ)