北海道での青春

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佐久の地質調査物語(軟弱砂岩の正体・前半)

     軟弱砂岩の正体

 他の地層と比べ、層厚もわずかな「白井層」なのに、極めて多様な岩相と分級の悪さを特徴とする『白井層の特異性』について述べてきました。その原因を、『茨口沢白井層へ堆積物を供給した後背地は、比較的近い所にあり、ある程度、風化や浸食が進んだ火山起源堆積物が多かったのではないか。それらが、他の砕屑性堆積物と共に、あまり大きくない白井層の堆積盆(海成層)に、風化・浸食に対する耐性の弱い順に運ばれ、堆積したからではないか』と、推理しました。

 「軟弱砂岩」が形成されたメカニズムも、基本的には、この考えで説明できると思います。結論を先に述べると、『軟弱砂岩の正体は、溶岩か火山弾が、大礫として砂岩層の中に取り込まれたものではないか』と考えています。では、なぜ、そういう推理結果となるのか説明します。

 

(1)砂岩層に含まれる岩塊が柔らかいのは、かなり特殊な事情である。

 軟弱砂岩が、巨大な円礫で、球体や回転楕円体であることに注目すると、流水で運搬される過程で角がとれて丸くなり、しかも、当時は容易に壊されないだけの硬さがあったことになります。
 一般に、流水の運搬によって堆積した場合、粒子が大きいということは、化学的に安定した硬い物質であることを意味します。または、運搬距離が短くて、小さくなる前に砂岩層の中に取り込まれてしまったことが考えられます。
 前者の場合は、取り込まれた岩塊が、周囲の砂岩層より古い時代のものであることが多いです。一般的に、古い時代の岩石の方が、珪質であったり、硬かったりするからです。
 後者の例では、瀬林層や三山層の砂岩層に含まれる閃緑岩や花崗岩の大礫の産状が当てはまります。これは、堆積盆の急速な沈降と海進により、遠くまで運ばれることなく、巨大な礫のまま砂と一緒に堆積したものです。
 しかし、いずれの場合も、取り込まれた岩塊だけが、差別的に柔らかくなるということは、ありません。それ故に、軟弱砂岩は、特殊な事情があるはずです。

 異質な岩塊が砂岩層などに含まれているという例では、ノジュール(nodule)があります。砂岩層の中で、核になる物質に化学成分が集積したり、元の物質(例えば化石など)を置換したりして、硬い団塊になります。本地域でも国道299号線沿い露頭で、石灰質ノジュールを見つけました。【写真・上】表面は炭酸塩に特有な風化面があり、一部を割ってみると、二枚貝の貝殻片を含んでいました。

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石灰質ノジュール

 また、東武道沢の内山層の砂岩層の中から、カニの爪が核になっていたノジュール【写真・下】の例もあります。ただし、ノジュールは、削られて丸くなる訳ではないので、塊になることはあっても、完全な球体や回転楕円体になるとは限りません。寧ろ、不規則な形状になるでしょう。 

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ノジュールの中のカニの爪

 

 きれいな球体の軟弱砂岩は、海成層の砂岩層に含まれていたので、流水によって削られながら、大きさを維持できる程度の時間的長さか、距離を運ばれたはずです。そして、砂粒と共に海底に堆積した後は、地質学的には異常とも思える短い時間で、変質が進み、脆くなる条件が必要です。これには、軟弱砂岩を構成する物質の物理・化学的性質が、関係していると思います。

 軟弱砂岩は、文字通り柔らかいので、ハンマーの先で削れます。中には、いくぶん硬いタイプのものもありますが、共通して表面は、赤褐色~こげ茶色に風化変色しています。自然界の芸術品であることに畏敬の念を抱きつつも、内部を確かめようと思い切って砕いてみました。すると、特に核となるような部分もなく、反対に外側ほど変質が進むということもなく、全体がほぼ均一に脆くなっていました。ルーペ程度の拡大率での観察では、変色した砂粒の集まりのように見えます。ただ、変色した色の特徴に注目すると、酸化第二鉄〔Fe2О3〕の色を連想し、鉄成分が含まれているのではないかと考えました。

 そう言えば、溶岩や火山弾のような火山性物質には、磁鉄鉱〔Fe3О4〕など、鉄成分が多く含まれています。そして、長い年月を経て、最終的に粘土鉱物にまで変化します。その途中の姿を見た経験はありません。砂粒のように見えるものなのでしょうか。
 花崗岩の風化は、南佐久地方の松茸(マツタケ)山地帯を調査した時、見たことがあります。「ザラメ」以上に脆くなった産状を見て、「風化・浸食の言葉の意味」を実感しました。集中豪雨による広島の土砂災害(平成25年8月20日早朝)で、話題に挙がった花崗岩の風化した砂「まさ」のイメージも、良くわかります。
 話が少し脱線しましたが、こちらの物質は、珪長質(felsic)ではなく、苦鉄質(mafic)です。火山性物質だとすると、溶岩や火山弾が有力候補です。岩石としては脆い部類ですが、流水で短い距離を運ばれる程度なら、寧ろ、適当な大きさと、きれいな形に整えられ易い硬さではないかと想像します。

 

(2)白井層の特徴からも、火山起源堆積物の可能性が

  高い。

 茨口沢の背斜構造西翼で見られる9層準を、層序関係がわかるように下位層準から並べ直しました。【図表・下】番号1~8は白井層で、9が石堂層基底礫岩(相当層準)層です。

  9:角礫の礫岩層(石堂層基底礫)

  8:砂泥互層(礫層挟む)
  7:明灰色砂岩層
  6:泥優勢な砂泥互層(貝化石)
  5:黄土色砂岩層
  4:緑色砂岩層
  3:軟弱砂岩層
  2:砂優勢な砂泥互層(礫層挟む)
  1:礫岩と粗粒砂岩層(基底礫) 

 

 白井層は、全般的に分級が悪く、基底礫岩層にさえ、泥が混じっています。石堂層の基底礫岩層がチャート礫を主体とする、きれいな礫岩層であるのと対照的です。白井層に、明確な凝灰岩(tuff)層はありませんが、泥の中身は、特徴的な砂岩の風化色から、凝灰質だと思います。
 特に、風化色が青色~青緑色を帯び、フィールド・ネームで「緑色砂岩層」と呼ぶものは、変色の原因が緑色凝灰岩と同じではないかと思います。
 そして、風化色が、黄土色から砂岩の一般的な灰色に、時間の経過と共に移行するのは、火山性物質の風化・浸食、そして流失・運搬の結果ではないかと、解釈できます。

 一方、砂泥互層となった(2)・(6)・(8)の時代も見逃せません。堆積輪廻(サイクル)から見ると、単一な砂岩層の堆積環境に対して、砂泥互層は、堆積盆の沈降または相対的海進があった証拠です。小規模ながら、3回ほどの海進と海退が現れるような地殻変動を繰り返してきたことが伺えます。

 

 現在の白井層の佐久地域の分布域は、以下の5箇所(ⅰ)~(ⅴ)にあります。

  (ⅰ)四方原山の南(北相木村)
  (ⅱ)棒向沢中流
  (ⅲ)棒向沢上流部
  (ⅳ)茨口沢から大野沢
  (ⅴ)曲久保林道

この内、(ⅰ)~(ⅲ)は、先白亜系(御座山層群)の中にあって、関係は不明です。石堂層の分布域より南側になります。
 (ⅳ)と(ⅴ)は、基底礫岩層から始まり、一連の堆積層があり、上位の石堂層(基底礫岩)に不整合で覆われています。 

 白井層の堆積盆は、分布を見ると、石堂層の堆積盆より南側に偏って広がり、面積的には決して引けを取りません。しかし、分級が悪く、砂礫の多い岩相は、浅海性を示しているので、浅い海でつながり、時期によっては、互いに分離した浅瀬になっていたかもしれません。つまり、当時の陸域の影響を受けやすい堆積環境にあったと考えられます。
 その後背地は、海底火山活動(陸上火山活動でも可)があった地域が陸化し、火山活動が終わった後の大地は、風化・浸食が進みます。そして、白井層の小さな浅い海に、最初は粒度の粗いもの、風化・浸食に弱いものから順に運ばれます。しだいに深まり広がる海には、粒度の細かいもの、風化に耐えたものが供給されました。一連の堆積物を貯めていく過程では、何度かの小規模な海進・海退の時期もありました。
 最後に、一度陸化した白井層より、やや北に中心をもった広域での急速な海進があって、点在していた白井層の堆積盆をつなぐようにして、石堂層の堆積盆に飲み込まれたのではないか。すなわち、石堂層の基底礫岩層に相当層する角礫の礫岩層の堆積があったという一連のストーリーが考えられます。(ちなみに分布(ⅰ)~(ⅲ)では、石堂層に関する露頭証拠はありません。)
 以上のように、白井層堆積盆の変遷を類推すると、軟弱砂岩の正体が、溶岩や火山弾であっても、決して不自然ではありません。寧ろ、放置されれば、完全に消えていたものが、砂岩層というシェルターの中で守られ、今日まで姿を留められたのかもしれません。

 

 【編集後記】

 軟弱砂岩の正体は、溶岩や火山弾ではないか・・・という結論(仮説)です。

 次回、(「軟弱砂岩の正体」の後半)は、もう少し対象を絞り込みます。

                            (おとんとろ)