北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―2)

2.白亜系堆積盆についての考察

 白亜系の褶曲構造は、南北性の断層によって切られ、いくつかのブロックに分かれていますが、全体としては、山中地域白亜系の延長方向(西北西-東南東)に沿って、蛇紋岩帯断層と交差することなく、ほぼ並行しています。そして、白井層を除き、他の白亜系は、全て蛇紋岩帯断層の北側に分布しています。このことは、白亜系堆積盆は、基盤岩全体の上昇傾向の中で、次第に縮小していったことと同時に、蛇紋岩帯断層が、白亜系堆積盆と基盤岩類(御座山層群など)を区切るような存在となっていたことを意味しています。

 白亜系の始まりは、基盤岩にできた凹地に白井層が堆積し、最初の海進により石堂層が全体を覆うように堆積しました。白井層への堆積物供給は、現在の方向で南ないし西の、比較的近距離から、そして、石堂層へは同様に南ないし西から運ばれてきたと思います。つまり、当時の陸地は南~西方面(現在の方向で)にあったと推定できます。 

 瀬林層は海退期で、下部層と上部層の境目は極めて浅海となり、一部は陸域になりました。上部瀬林層は欠如する地域(陸域に近い相)や、北側に偏在(やや沖合相)していますが、顕著な不整合証拠はないので、あまり間隙を置かず、次の海進(宮古海進)によって、三山層が瀬林層を覆ったと考えています。瀬林層への堆積物供給も、南~西方向からだと考えられますが、三山層の時代はわかりません。少なくとも、東側でないことは確かです。

 その意味で、佐久地域では、三山層の堆積盆は、石堂層堆積盆の規模を超えることはなかったと考えています。(他の理由は、後述します。)
 層序関係と堆積盆の広がりを模式的に図示すると、【下図】のようになります。

 

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 山中地域白亜系の東部地域(群馬県~埼玉県秩父地方)では、三山層が良く発達しています。分布域の広がりや、比較的深海成層を示す岩相から、白亜系の中では、一番堆積盆が拡大した時代(=宮古海進)だと言われています。しかし、佐久地域では、石堂層堆積盆の規模を超えることはなかったとする根拠は、以下のようです。

① 佐久地方での層厚:三山層(250~290m)<石堂層(200~350m)と、地表への露出面積では、三山層が目立ちますが、実際の層厚は薄い。


② 石堂層は、白井層を基底礫岩層に相当する角礫で覆っている。(茨口沢) 基盤岩の中の凹地に、白井層が堆積した後、それらの堆積盆をつなぐように石堂層が堆積したと考えられる。現在、白井層露頭がある南側にも薄く堆積していた可能性がある。(南への広がり?)


③ 乙女ノ滝断層の東側には、瀬林層・三山層の露頭が見られない。断層による隆起や標高が高いので浸食された可能性も否定はできないが、元々、なかったか、薄かったとする方が自然な解釈である。

④ 三山層の混濁流堆積物などの堆積構造の情報から、大陸棚斜面や浅海性の堆積環境であったと考えられる。

→佐久側の堆積盆は、小さかったのではないか。

 

 

【編集後記】

 山中地域白亜系の地質調査の後で取り組んだ「内山層」調査の途中頃から、日本海の拡大に関する内容に興味を覚えるようになりました。日本列島は、古第3紀・漸新世頃から、新第3紀・中新世頃にかけて、大陸から離れて現在の位置に移動してきて、間に日本海が生まれたという話の概要です。

 いくつかの仮説や、その過程については後述するつもりですが、大まかな言い方で、佐久地方の位置では、90°ほど反時計回りに回転した方位となっていることを知りました。つまり、白亜紀後期の頃の北は、現在の西に、白亜紀後期の頃の東は、現在の北ということになります。

 そんな意味合いを含めて、前に使用した佐久側の「山中地域白亜系復元図」を加工してみました。【下図】の上が、当時の北方向で、侵入してきた海のあった方面です。

また、瀬林層の3相(陸域に近い~沖合~更に沖合)から見ると、西側も海に近い方向ということになります。

 

 

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山中地域白亜系の復元図(現在の方向から90°反時計回りに回転させた)

 当時の基盤岩との境となる「蛇紋岩帯断層」は、南北に延びています。中央構造線は、図の左側(西)にあって、やはり南北に延びていることになります。

 褶曲構造を形成した時期は、白亜系堆積後から日本海の拡大時期(?)にかけてかもしれませんが、東西からの圧縮力によることになります。

 これ以上は、話題にしませんが、大地が動かないものとして、堆積物の供給された方向だけに注目していた場合とは、大部、複雑になってきています。(おとんとろ)