北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―3)

3.褶曲構造と断層について

 地質構造を解釈する上で、いくつかの断層を推定する必要がありました。
 白亜系の延長方向に沿って延び、同時に基本的な構造を決めていると思われる「蛇紋岩帯断層」と、これを切る南北性の8つの断層があります。また、白亜系の中にも小規模な2つの断層(馬返断層と茨口沢断層)があります。

 蛇紋岩帯断層を切る8つの断層は、東側から、①曲久保断層、②乙女ノ滝断層、③棒向沢断層、④鍵掛沢断層、⑤大野沢断層、⑥四方原-大上峠断層、⑦都沢断層、⑧矢沢断層で、それぞれ関係する地域名を採用して名付けました。

 また、棒向沢と四方原山の南麓には、離れ小島のように「白井層」が分布しています。基本的には、先白亜系と不整合関係で接すると思われますが、露頭での証拠が確認できないので、図面上では断層によって接していると解釈しています。

 尚、推定断層とは言うものの、それぞれ断層で解釈した方が良いと考えられる証拠もあります。例えば、大野沢で見られた証拠から「鍵掛沢断層群」は、3つの断層であることが明らかになりました。また、矢沢では、「矢沢断層」の証拠を観察しています。
 その他、都沢断層・馬返断層・茨口沢断層は、それぞれの地層が分布する地域で、断層証拠を説明していますので、ご覧ください。

 

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断層の位置と名称

(1) 白亜系の南縁を決める

       「蛇紋岩帯断層」

 調査の初期段階で、先白亜系と白亜系の境は、主に石堂層の基底礫岩層(ie,不整合)か、蛇紋岩体であることが多く、この産状を説明する為に、大きな断層を推定していました。当時、『抜井川断層』の名前で、白亜系の堆積盆を画するような大断層をイメージしていました。
 しかし、以下の理由で、直線的な断層という解釈より、『もっと幅のある構造帯の一部である』という扱いの方が良いと考えるようになりました。

【理由】

 ① 蛇紋岩体を伴う「黒瀬川構造体」という扱いの方が良い。
 ② 蛇紋岩メランジェという固体貫入モデルがイメージできるようになった。

 

 そこで、白亜系との境のはっきりとした北縁と、わずかでも蛇紋岩の露出する南側への一定範囲を、ひとつのゾーンとして扱い、これを『蛇紋岩帯断層』と呼ぶことにしました。

【概要】
 蛇紋岩帯断層は、南北性の断層によって切られ、分布が大きくずれています。

 東側から、曲久保~新三郎沢~鍵掛沢までは、比較的連続していますが、ここで、四方原山を南へ越えた白井層分布域まで大きくずれます。その先は、都沢の奥・東ナカヤ沢上流部へと繋がると推定しています。そこからは、都沢~尾根筋(P1301、P1292)~霧久保沢へと繋がります。

 蛇紋岩帯断層を推定した東ナカヤ沢上流部と尾根筋【図版の「?」印】では、蛇紋岩の露出が無い場合もあり、また、他地域に比べて著しく少ない傾向にあります。図版では、幅を確保して推定してあります。

 反対に、白亜系が切られている部分、特に、鍵掛沢下流域と都沢の二股から上流域は、水平幅で500mにも渡り、多量の蛇紋岩露頭があります。ちなみに、鍵掛沢では石堂層と接し、沢には造瀑層が蛇紋岩の綺麗な滑滝が見られます。都沢では、石堂層と三山層と接しています。

 この違いは、蛇紋岩メランジ(第4章参照)が、地下深部から固体貫入してくる時、弱線としてより貫入しやすい箇所を上昇してきた結果ではないかと想像します。つまり、既に岩盤となっていた御座山層群と白亜系との岩質の固結の違いによるものではないかと考えました。

 

【形成時期】
 蛇紋岩帯断層の形成された過程は、2通りの方法で考える必要があります。ひとつは、蛇紋岩貫入という観点から見たもので、もうひとつは、断層の動きとして見た場合です。
 蛇紋岩の貫入は、石堂層最上位層の堆積した頃と考えられています。そして、蛇紋岩礫が肉眼で確認できたのは、三山層の堆積時です。ですから、蛇紋岩帯(メランジェ)は、少なくとも瀬林層堆積時に、少しずつ上昇し、上の堆積物が削剥された後で、地表に顔を覗かせたことになります。瀬林層上部層が欠落している都沢の二股上流部で、三山層と蛇紋岩が接する部分を見れば、瀬林層堆積時に露出していたとしても不思議ではありません。

 一方、蛇紋岩貫入の頃から断層運動は始まり、瀬林層や三山層の堆積した時代に、基盤岩の上昇を伴い、白亜系堆積盆の北方への縮小を起こしながら、活動の最盛期を迎えたのではないか。特に、御座山層群と白亜系の間を区切る(右横ずれ断層)ような動きをしていたと思われます。

 その意味で、蛇紋岩帯断層は、白亜系堆積盆の大きさを決定し、その特に南縁を区切るような役割を果たしていたのではないかと、言えそうです。

 ちなみに、第4章で紹介した広義の秩父帯を細分した「秩父累帯北帯」・「黒瀬川帯」・「秩父累帯南帯」の内、黒瀬川帯と秩父累帯南帯の境目に当たるのが、この蛇紋岩帯断層とも言えるのかもしれません。

 

 【編集後記】

 インターネット検索で、植田勇人先生の「 Hayato UEDA's research」のウェブサイトで、「蛇紋岩が固体貫入するイメージ」を見つけ、自分なりに理解できた時のことは、良く覚えています。長年の疑問が、少しずつ解けていくようでした。

 日本全体から見れば、地表への露出は寧ろ稀な岩石ですが、私たちが調査で訪れる所には、頻繁に見られました。変動帯や変成帯に伴うという程度の認識はありましたが、それ以上のことはわかりませんでした。

 ところで、児童の絵画の話題ですが、石灰岩花崗岩の多い地域に住んでいる児童が、河原の風景を描くと、多くの子が石を白くするそうです。例えば、県内だと、南信地方。佐久地方では、安山岩が多く、また堆積岩も、多くは黒~暗灰色なので、そんな系統の色合いになります。視野が広がり、それらの事情がわかると、もう少し柔軟に色付けをすることでしょう。

 ある意味、私たちも、蛇紋岩を特別な意味をもつ岩石だと、もっと早めに気づいて取りかかれば良かったかもしれません。

 蛇紋岩の露頭写真を載せようと捜しましたが、良く見られるし、いつか撮りに来るからと、あまり撮影してありませんでした。なかなか無いものでしたが・・・・。

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 何とか見つけたのは、平成10年11月15日の新三郎沢での蛇紋岩の小滝でした。 

 実は、同じ場所で、平成8年10月26日に撮影した写真とネガ(当時)は紛失したようです。露頭から落下した蛇紋岩の礫が、再凝固して「現世の蛇紋岩の礫岩」があると、川底を表面に出して撮影する為に、上流にダムを作って水を迂回させて撮影した貴重なものでした。

 それから3年、同じ場所に行くと、沢の流路が変わり、川底露頭が見えていました。そして、蛇紋岩の崖の一部が沢水の浸食作用で削られて、小さな滝と滝壺ができていました。同じ場所も刻々と変化することを改めて知り、興味深かったです。(おとんとろ)