北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―4)

(2) 褶曲構造の形成に伴い活動した

    南北性の断層

※南北性の断層の内、「都沢断層」は、明らかに内山層の堆積した後のものであるので、 この項から外します。

 南北性の断層は、褶曲構造が形成される過程で、褶曲を造った応力に耐えきれずに断層が生じたり、逆に、断層が動くことによって褶曲の形成が促されたりした関係だと解釈しています。応力は、現在の方向で、南側の地塊が受け止める力に対して、北側からの押し上げ、覆い被さるよう応力が働き、褶曲の中心軸面が南に傾いている構造になっています。
 ただし、地質図では、褶曲構造が形成された後、それらの構造を断層が切っているという表現になります。褶曲構造が先行したことは確実ですが、その過程で断層運動も伴っていることは確実です。特に、「鍵掛沢断層群」の「ずれ」(第1章『隣接する下部瀬林層の謎』参照)は、異常に大きく、褶曲構造のあらかたが完成してから、その断層箇所だけが動き出したと考えるよりも、同時進行を示唆しているのではないかと思います。

 

(注意)「断層の位置と名称」の図は、再掲です。解説を見ても、図がないとわかりにくいとおもいますので・・・・。

 それでは、南北性の断層を東側から見ていきます。

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 【 曲久保断層(まがりくぼ・だんそう)】

 大ダル沢と曲久保の間の小さな沢から、抜井川上流部を横切り、県境のマール(marl)が露出した付近を経て、さらに先に延びる断層で、蛇紋岩帯断層を切っています。曲久保林道に沿う露頭は、岩相や化石の特徴から白井層であることは確実で、断層の西側に分布する石堂層との不連続から、推定したものです。

 蛇紋岩帯断層を水平方向で約250mずらした左横ずれ断層と推定しましたが、断層の東側ブロック(白井層分布域)が上昇したはずなので、垂直成分も大きい斜めへの移動だと考えられます。この為、横ずれより垂直方向へのずれが大きい断層のはずです。現在でも県境付近の標高が一番高い所にありますが、基盤岩の上昇に伴い、生じた断層です。

 

 【 乙女ノ滝断層(おとめのたき・だんそう)】

 棒向沢から乙女ノ滝付近を経て、大野沢上流部に達する南北性の断層で、蛇紋岩帯断層を切っています。
 白亜系を大きく二分するような意味合いがあります。断層を境に東側と西側ブロックで、分布する白亜系の中身が違うからです。

 東側ブロックは、白亜系の比較的下位層(白井層と石堂層)だけが分布しています。

 一方、西側ブロックは、石堂層・瀬林層(下部と上部)・三山層が分布し、白井層を欠いています。
 蛇紋岩帯断層を水平距離で約600mずらした右横ずれ断層と推定しました。横ずれの要素に加え、垂直方向のずれも大きかったと考えられます。基盤岩の上昇に伴い生じたものと思われますが、北側ほど大きく、大野沢上流部では、少なくとも400~450m(石堂層と下部瀬林層の層厚ほど)に達するのではないかと推定できます。相対的に、東側ブロックが上昇しています。

 

 【 棒向沢断層(ぼーめきざわ・だんそう)】

 蛇紋岩帯断層の南側に、白井層の分布域が4箇所あります。いずれも小規模な分布ですが、この内、棒向沢の2箇所で、御座山層群の中に離れ小島のようにあります。この2箇所の西側を画する断層です。白井層の東西への延びが絶たれているので、推定しました。
 白亜系の始まりである白井層の堆積盆の形成に関与した断層の一部かもしれません。
白井層の点在する分布から見て、陥没性の断層で、もし、周囲も同じ程度の浸食速度だと仮定すれば、白井層の層厚分(150m)ほどの垂直方向への移動があったと考えられます。

 

 【 鍵掛沢断層(かぎかけざわ・だんそう)】

 鍵掛沢の西側を沢と併行して走り、大上峠(おおかみ・とうげ)の少し東へ達する南北性の断層で、蛇紋岩帯断層を大きく切っています。周辺域は、複雑な地質構造であったので、後述する「大野沢断層」・「四方原-大上峠断層」と共に、3つの断層を、調査の初期段階では、鍵掛沢断層群として扱っていました。また、これらの3つの断層は、関連性があります。
 この鍵掛沢断層を境に、

(ⅰ)蛇紋岩帯断層や先白亜系が、極めて大きく「ずれ」て分布していること、

(ⅱ)白亜系の褶曲軸の延びが折れ曲がっていることが、注目すべき点です。蛇紋岩帯断層の水平移動の推定量は、5~6kmほどとなり、左横ずれ断層です。

 第1章「隣接する瀬林層の謎」や第2章「大野沢調査から断層群が見えてきた」で述べたように、白亜系の褶曲構造や基盤が横に大きくずれて移動したことを説明するのには、次の3通りの場合が考えられます。
 いずれも、乙女ノ滝断層と鍵掛沢断層の形成された時期に関する内容です。なぜなら、白亜系の分布に関して全体を二分する「乙女ノ滝断層」と、その白亜系及び基盤の構造を大きく変位させている「鍵掛沢断層」は、共に、地質構造を考察する上で、東西の横綱級に相当する関係にあるからです。

 ①「乙女ノ滝断層」のできる前に、「鍵掛沢断層」が形成されていた場合

 乙女ノ滝断層によって、白亜系は垂直方向に大きくずれてはいるものの、褶曲構造の軸までは、ずらしてはいません。つまり、褶曲構造を成すような応力に伴い、左横ずれ断層が形成され、その後で、基盤岩を上昇させる垂直方向への力が働き、乙女ノ滝断層が、できたのではないか?

 

 ②「乙女ノ滝断層」のできた後に、「鍵掛沢断層」が形成された場合

 白亜系の層厚や浸食速度が全体的に、あまり違わなかったと仮定すると、乙女ノ滝断層によって、東側ブロックが先に上昇した分だけ地層が失われていたことになります。しかし、乙女ノ滝断層を境に、石堂層の下の白井層と、逆に石堂層の上、更に、瀬林層の上位の三山層が、断層で接するのは不自然です。これは、極めて大きな断層による断崖でも想像しない限り、垂直方向への移動が優勢な乙女ノ滝断層の動きとして矛盾があります。時代の大きく異なる地層が接しているのにも関わらず、周辺にはその証拠(浸食された跡)がありません。
 
 ③ほぼ同時期に活動を始めたが、「鍵掛断層」の方が活動期間が長かった場合

 乙女ノ滝断層の東側ブロックは、現在でも標高が高く浸食量も大きいはずですが、
一部には、先白亜系の石灰岩やマールが露出しています。素直に解釈すれば、覆っていた白亜系の全てが削剥されたことになります。これは、基盤の上昇と浸食の速さを考慮しても、不自然さが残ります。つまり、元々、上位の瀬林層や三山層は薄かったか、堆積していなかったと解釈する方が自然のような気がします。
 特に、三山層を比較すると、群馬県側での安定した深海成の黒色頁岩の発達した地層に対して、佐久側では、混濁流堆積物の多い浅海性や大陸棚での地層が多いことも、これらの説明証拠になります。
 つまり、白亜系堆積後の浸食期間を通じても、鍵掛沢断層は依然として活動を続けていて、移動距離を増やしていったのではないかと思われます。

 

 ③のアイデアを採用します。基本的には、①の要素がありますが、先白亜系までが、白亜系分布域に露出することを説明するには、浸食の時間的長さを加味した方が自然だと考えました。乙女ノ滝断層の東側ブロックは、瀬林層堆積の時代から一部は陸化していたことも、十分に考えられます。

 

 【編集後記】

 本文の中で、「第○○章」という表現が出てきますが、実は、出版してはいませんが、地質調査物語は、本の体裁を成していて、全部で9章と「参考文献」から構成されています。ここの内容は、第9章「地質構造」で、既に最終章に入っています。

 ブログにするには、1回ごとに話題を変えた方がいいかなと思い、何頁・P(ページ)という表記は、避けてきました。(でも、わかり難いと思います。)

 ところで、毎回、ささやかなエピソードを載せているので、今回は、私の勉強机の上の片隅に載っている『抗火石(こうが・せき)』についてです。 

 平成25年の夏休みに三宅島に行き、島に着いて3日目に、清水岩夫先生と「ひょうたん山」から「赤場暁(あかばぎょう)」の地質調査にでかけました。

 写真は、割れ目噴火をしたスコリア丘の「ひょうたん山」の火口を撮したものです。

 

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1940年(昭和15年)噴火の「ひょうたん山」

  

 真夏の日中、火山弾やスコリアの上を歩くとどうなるかは、想像に任せますが、噴火口などを観察した後、付近の海岸に降りました。すると、写真のように、ほとんどが、玄武岩質の溶岩が波に洗われて、角の取れた礫(小石)の中に、明らかに色の違う、すなわち化学組成の異なる火成岩がありました。右端は、流紋岩です。

 三宅島は、太平洋に浮かぶ火山島で、玄武岩が多くて当たり前ですが、なぜ、ここに流紋岩がと疑問に思いました。流紋岩は、少し離れた(と言っても間は海)神津島などで産出するので、大嵐の時に流されてきたのかな? と思いました。 

 

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三宅島・ひょうたん山付近の海岸で

 海岸を捜しながら歩いていると、清水先生が、「抗火石」を見つけました。流紋岩質の軽石です。私も捜していたものです。『僕は、前に来た時のがあるから、あげますよ』と、私に譲ってくれました。

 帰宅して調べてみると、抗火石(こうかせき、こうがせき)は、流紋岩軽石の一種のようです。スポンジ状の構造を持つガラス質であり、容易に切断でき、ブロックや石材の芸術などに加工できます。軽くて、火に強いという特性も、名前の由来です。これらは、伊豆諸島の新島、式根島神津島伊豆半島天城山で産出されます。

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 だから、抗火石は、三宅島の調査の思い出と共に、私の宝物になりましたで、終わればいいのですが、今回のエピソードは、もうひとつ別な所にあります。

 「志賀溶結凝灰岩」と言うのが正式名称ですが、かつては「信州溶岩」などとも呼ばれた経緯もあります。どこが噴出場所か不明でしたが、最近、「本宿カルデラ」からのものではないかと言われています。それで、論文に触れる機会がありました。その中で、『バイモータル火山活動(Bimortal Volcanic Activity)』という科学用語が出てきました。不勉強な私は、当然知らなくて調べてみると、『大地溝帯日本海拡大に伴う活動の中で、玄武岩質溶岩と流紋岩質溶岩(火山ドーム)が、ペアになっている』と言うのです。その説明の中で、伊豆諸島の話題もありました。

 三宅島の玄武岩と、例えば一番近い神津島流紋岩(もちろん島が流紋岩だけでできているわけではないが)、つまり、その一部の抗火石が、ペアだと知りました。

 急に、この抗火石の存在が、とんでもない秘密を秘めた石だと認識しました。今までは、軽くて手で握ると気持ちがいいので、少女がお人形さんを大事にするような感触で接していましたが、これからは、そうはいきません。ちょっと神々しいです。(おとんとろ)