北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―5)

(2) 褶曲構造の形成に伴い活動した

       南北性の断層

 

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断層の位置と名称 (再掲)

 【 大野沢断層(おおのさわ・だんそう)】

 鍵掛沢断層と平行するように、四方原山(よもっぱら)から鍵掛沢のさらに西側を経て、大野沢に延びる南北性の断層です。断層を境に、蛇紋岩帯は大きくずれ、推定で、2~3kmの右横ずれ断層です。

 鍵掛沢断層との関連が強く、活動時期は、ほぼ一致するのではないかと考えています。
 断層の通過位置について、大野沢支流・第6沢付近での瀬林層(上部)と石堂層の不連続露頭のいくつかは、確実です。また、抜井川中流部の瀬林層(さらに沖合相)と、イタドリ沢の瀬林層(陸域に近い相)の岩相が、接しているのに似ていない疑問点から、堆積環境の違いによる事実がわかり、この断層の存在を設けるきっかけになりました。(第1章参照)
 なお南側で、四方原-大上峠断層へと収束すると考えています。

 

 【仮説】 『鍵掛沢断層~大野沢断層に挟まれた

      ブロック』は調整役を果たしていた

 四方原山を挟んだ鍵掛沢と都沢上流部で蛇紋岩帯の分布が大きくずれていることから、鍵掛沢の西側に比較的大きな断層があることは、調査の早い段階で、わかっていました。また、複数の断層があるらしいこともわかり、鍵掛沢断層群と呼んでいた経緯もありますが、大野沢の調査から、3つの断層(東側から、鍵掛沢断層・大野沢断層・四方原-大上峠断層)があることが明らかになりました。

 ところで、鍵掛沢断層は、推定5~6kmの「左横ずれ断層」で、大野沢断層は、推定2~3kmの「右横ずれ断層」だと考えています。(下の図表を参照)

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 そうなると、2つの断層に挟まれたブロック(抜井川中流域)は、北側から応力を受けたことになります。そして、四方原-大上断層の「右横ずれ断層(1.5km)」を考慮すれば、このブロック自体が、全体の動きを調整するかのような働きをしていたとも解釈できます。

 つまり、飛び地のような白井層分布域と、連続する蛇紋岩帯の連続を推定して地質図では「?」として示しましたが、鍵掛沢と都沢上流部の蛇紋岩帯の大きな不連続を説明する方法として、「抜井川中流域(「鍵掛沢断層~大野沢断層」に挟まれたブロック)」自体が、断層帯だったと考えられます。

 白井層の飛び地は、本来は、新三郎沢の白井層が西に延びた程度の位置にあったのではないかと思います。その後のブロック全体の断層運動で大きく南にずれ、飛び地となってしまったのでしょう。
 このアイディアは、瀬林層の3相「【A】陸域に近い相・【B】やや沖合相・【C】さらに沖合相」を考える根拠にもなりました。第1章「隣接する下部瀬林層の謎」を参照)

 

【 四方原山-大上峠断層(よもっぱら~おおかみとうげ)】

 四方原山(標高1631.6m、輝石安山岩から成る新第三紀鮮新世の活動(?)と推定される火山で、標高1400~1500m以上に溶岩が分布する)の南にある白井層(飛び地)の西端から、都沢上流部を経て、抜井川・大野沢を通り、大上峠に達する「右横ずれ」断層です。推定されるずれは、1.5~2kmほどですが、他の断層の活動期間よりも長く、内山層堆積後も活動していたのではないかと考えています。
 この断層には、次の4つの断層が収束または派生していると、解釈しました。

① 矢沢断層(都沢上流部で分かれる。ほぼ同時期の活動。)
② 大野沢断層(四方原山の西で分かれる。ほぼ同時期の活動。)
③ 都沢断層(都沢の二股で合流し、落差を解消している。内山層堆積後の活動。)
④ 茨口沢断層(大上峠で分かれる。内山層堆積後の活動。)

 

 【編集後記】

 断層の話題は、もう2回ほど続く予定です。

 ところで、驚いたことに、私の「今月のファイル利用量」が1%になりました。

 無料で、ほぼ一年の後、3月1日から「はてなブログpro」となりましたが、ずっと利用量が0%なので、『こんなに毎日、話題を載せているのに、はたして、ブログ内容はアップされていないのではないか?』と不信感を抱いていました。

 無知なので、そういう気持ちになったのですが、考えてみれば、『情報容量の大きい、例えば動画用に構成されているんだ』と気づきました。私の内容は、文章が主体で、画像もサイズがある程度小さくなるように加工していあるので、質はともかく、量で見ると、ようやく1%ですよ、ということらしい。

 それならば、前回に続き、三宅島で溶岩流を見たことのエピソードを載せてみよう。

 

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「ひょうたん山」スコリア丘の海側先端 (平成25年8月6日午後撮影)

 三宅島の「ひょうたん山」は、1940年(昭和15年)の噴火によって形成された、標高64mのスコリア丘で、南側が吹き飛ばされたような姿で、中央に爆発火口が見えている。(前回の写真を参照)

 山の裏側、海に面する側は、絶壁になっていて、同時期の爆裂口が残っている。

【写真―上】は、ひょうたん山の海側先端で、表面を覆う黒色スコリア層(2m)と、下位の赤味を帯びた暗灰色スコリア層(4m+)が見られました。

 【写真―下】は、表面だけが赤味を帯びた火山弾で、いわゆるアグルチィネイトの産状をしていました。

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火山弾の中に巨大な「灰長石」が見られる

 これらのスコリアや火山弾の中に、直径3cmを越えるような灰長石(アノーサイト)の巨大な結晶(塊)が見られました。【写真―下】

 火山噴火に際して、遊離結晶として放出されると言いますが、珍しい産状のようです。

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Anorthite(灰長石)の巨晶・・・斜長石(Plagioclase)の中でCaが多い

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赤場暁1962年の玄武岩溶岩

 ひょうたん山の周囲には、1962年(昭和37年)に、割れ目噴火があって流出した赤場暁(あかばぎょう)溶岩が分布しています。地形的には海側の下に位置していますが、層序関係では、ひょうたん山の噴出物より上位になります。

 ひょうたん山の噴火の22年後に、玄武岩溶岩を大規模に流出させて、陸地を太平洋側に広げたことになります。

 溶岩流は、スコリアや火山岩塊、火山弾などが混ざり合い、高温を保ったまま斜面を流下してきたと想像できます。【写真―上】は、巨大な「しめ縄」を思わせるような産状で、溶岩が流ながら、隣の流と合流したり、少し冷えて固まりかけた部分を引きずるようにしたりして移動していったものと思われます。

 ちなみに、赤場暁溶岩流は3系列あって、私たちが観察したのは、規模の小さなものでした。【写真―下】の溶岩の断崖を見ると、優に、30m以上の高さがあり、西に向かって続く広がりには、目を見張るものがあります。

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赤場暁・溶岩の断崖が続く

 これらの下に三宅島の基盤とも言うべき「大船渡期」玄武岩溶岩(地上部だけで10m+)が見られました。

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大船渡期の玄武岩溶岩

 その昔、私は、勝井義雄先生の岩石学の講義で、ハワイ火山のアア溶岩(Aa lava)と、パーホエホエ溶岩(Pahoehoe lava)なる玄武岩溶岩があることを知りました。

 それから十数年後、教育実習生の火山学習の場面で、信州大学から来ていた学生が、大学の資料室からアア溶岩の実物を持ってきて授業をしてくれました。それを見て、『アスファルトみたい』と冷めている生徒の中、『さすが、本物はすごい』と私は一人感激していました。

 そして、三宅島では、アグルチィネイト(agglutinate)の産状をしていましたが、広義(典型的なものは、粘性が低く縄状~ろうそくの垂れた感じ)のパーホエホエ溶岩(Pahoehoe lava)に直接触れることができ、私は、直垂落ちる汗とは反対に、背筋が冷たく感じるほど感激し満足していました。(おとんとろ)