北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―6)

(2) 褶曲構造の形成に伴い活動した南北性の断層

 

【 閑 話 】 四方原山-大上峠断層の

         ゆくえ?

 山中地域白亜系(佐久側)の調査段階では、鍵掛沢断層群(鍵掛沢断層/大野沢断層/四方原山-大上峠断層の3断層)が、さらに北へ6~7km延び、田口峠付近まで達しているのではないかと、密かに期待していました。

 ここには、狭岩(せばいわ)集落があります。分水嶺となる田口峠を越えて、標高差で300mも群馬県側に下った場所ですが、長野県佐久市(旧・臼田町)の行政区に属しています。ここに地質構造的にできたと言われている「先白亜系のチャート層や堅い砂岩層などの隙間にできた洞窟や地下湖」があります。
 鍾乳洞は、石灰岩が地下水で浸食され、溶けてできますが、狭岩の地下湖は、まず断層や亀裂が先にできて、それらがさらに地下水などで大きくなったのでしょう。
 これに関連して、最有力候補は、四方原山-大上峠断層などの延長部が相当するのではないかと勝手に推理していました。
 しかし、どうもそうではなく、棒向沢断層の延長の方がふさわしいと思われます。
(一応、推定断層ですが、延長が「狭岩」に至ると解釈してあります。もちろん、地下湖の規模や広がりから、大きな断層の中に、複数の小さな断層があるようなイメージです。)

 

 ところで、大上林道沿いの4露頭と都沢に、やや規模の大きな流紋岩の岩脈があります。特に、都沢では、みごとな柱状節理と板状節理が観察できます。これらの流紋岩岩脈の分布を結ぶと、北北東-南南西の方向の直線となり、何か意味のある現象のように思われます。

 この時、火山岩岩脈群の伸長方向と、それらの基盤岩への応力方向は、直交する傾向がある』ということを思い出しました。
 平成4年(1992年)、望月少年自然の家の主催事業「蓼科山の成因を探る」という現地観察会に、小林正昇先生と一緒に参加しました。八ヶ岳火山の研究では第一人者の河内晋平先生(北海道大学から信州大学教授)の講義と現地説明を伺いました。その時の先生の説明で、『貫入岩体は、既にある地層への応力と、ほぼ垂直方向に入っています。』という言葉を思い出しました。
 唐沢林道沿いに、デイサイト(石英安山岩・Dacite)岩脈が数多く貫入している様子を観察することができました。

 つまり、東西方向から大地が圧縮されるような力が働いていると、直交する南北方向に亀裂ができやすく、ここへ流紋岩岩脈が貫入したのではないかと考えられます。さらに、大上林道沿いに分布する内山層に、小さな断層や褶曲構造が見られるのは、東西方向からの応力に原因が求められるのではないかと解釈することができます。

 白亜系の褶曲構造は、現在の方向で、南側からの地塊が受け止めるような力に対して、北側からのやや上向きないしは、覆い被さるような応力があったのではないかと推理しています。だから、褶曲構造ができた時代と、流紋岩貫入のあった時代では、大地の受ける応力方向が、変化したのではないかという点で、意味のある問題を含んでいると思います。

 その後の調査で、流紋岩岩脈の分布は、四方原-大上峠断層にほぼ沿っていることもわかりました。この断層の活動時期は、白亜紀後期から内山層堆積後まであったとも考えています。

 【下の図】は、内山層を中心としたまとめで、今後に詳しく紹介していく予定の地質図です。
 調査から、四方原山-大上峠断層の延長は、大上峠~障子岩~大滝~田口峠~内山川~初谷沢に至り、内山断層まで達しているのではないかと推定しました。
 あくまで推定のレベルですが、鍵掛沢断層群が、白亜系の地塊を大きくずらしたことが、事実(一応、証拠からそう解釈できる)とすれば、このくらいの規模の断層や活動があっても、不思議ではないのではないかと思います。

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山中地域白亜系~内山層の地質図(2017年版)

 

 【 矢沢断層(やざわ・だんそう)】

 矢沢中流部から古谷集落の南にある林道「大日向-日影線」を経て、都沢の最上流部で、四方原山-大上峠断層に収束する断層です。
 矢沢付近では、先白亜系(西側)と内山層(東側)とに分け、都沢上流部では、蛇紋岩岩体(=蛇紋岩帯断層)や先白亜系を切っています。推定300mほどの右横ずれ断層ですが、寧ろ、北側(矢沢やその先)に向かい落差が大きくなる隆起性の断層だと考えられます。西側が隆起しています。都沢の上流部では落差を解消しています。

 横ずれ的な活動時期は、他の南北性の断層と同じ、白亜系褶曲構造形成時期と重なりますが、垂直方向への主活動(西側ブロックの隆起)は、内山層堆積後だと考えられます。と言うのも、周囲に石英閃緑岩体があるので、この貫入に伴って活動したことが考えられます。ちなみに、石英閃緑岩は、内山層に熱変成を与えているので、内山層堆積後の貫入であることは確かです。
 尚、その後の、更に北側に分布する内山層調査で、この断層は、余地川・谷川を経て、雨川付近にまで達していることがわかりました。

 

 【編集後記】

 本文中に出てきた「狭岩(せばいわ)」集落には、5回ほど行ったことがあります。最近の2回は、地質調査の折りに通過した程度ですが、初めての時と、多分3回目の時の印象は、強いです。

 私は運動好きで、小学3~5年生のスピードスケートでは、狭い地域とは言え、少しは存在が知られる程でしたが、小学6年生の時、結核の初期症状が出て、激しい運動が禁止されるようになりました。

 それで、中学校入学後は、「科学クラブ」(現在の専門部活動は、当時クラブと呼ばれていた)に入った。顧問で、学級担任の小林茂男先生(故人)の指導の下、佐久地方の河川や湖沼の水質調査をしていた。調査対象の化学分析は10項目ぐらいあり、私はS先輩と「塩素濃度」を担当していた。ビューレットを使う、少し本格的な方法である。

 中学1年生の夏休みに、クラブ員全員で、田口小学校・狭岩分校の体育館で泊まり、校庭隅で飯ごう炊飯をした。昼間は、狭岩の地下湖のひとつひとつに入った。小林先生から『もっと奥から取ってこい』と言われ、岩壁をへつって奥まで進み、光や外気の影響の少ない所から水を採取して、ラベルを貼ったポリ容器に入れた。暗闇で眼の退化したクモにもいたが、私はこういう冒険も得意な分野です。

 2度目は、中学2年生になった夏、級友であり、同時にバスケットボール(クラブ)の仲間10人ほどで、片道10km以上もあり、しかも坂道を自転車に乗って訪れた。

 元来のスポーツ好きな私は、同級生が多かったのもあるが、1年生の冬からバスケに所属を移していた。それで、今回は、専ら冒険の旅である。前回は、水質を汚さない為に、湖水に入れなかったが、今回は冷たいのを我慢して入った。さらに、抜け穴にも、前回も経験していた先達として、皆を案内した。さすがに、準備は懐中電灯ぐらいなので、ケービングという訳にはいかないが、子どもにとっては十分な冒険だった。

 問題は、3回目である。

 正確な年月は覚えていないが、本文でも触れた「四方原山―大上断層の延長が狭岩に達しているのではないか」と考えていた頃、田口峠付近まで調査に来た後、車で訪れた。それぞれの洞窟や地下湖には、名前が付けられていて、数十年前の中学生の頃の記憶が懐かしく蘇った。

 それで、いくつかの洞窟に入ってみたりもした。しかし、喜んで何度もすり抜けた「抜け穴」は無理だった。自分自身のお腹周りが膨らんで、物理的に無理だという理由も確かにあるが、それ以上に恐怖心が湧いてきたからだ。通過過程の何カ所かには、腹ばいになって、距離はわずかだが、匍匐(ほふく)前進をする場所がある。少年の日々には、『誰かが行けた所だから、進めば穴を抜けられる』と思うから、迷うことなく前進できる。

 しかし、大人になった自分は、『穴の中で、後退もできず、前進もできない状態になったら、どうしよう』と思うのである。前進する勇気も、後退する勇気も無くなるという恐怖が湧いてきていた。

 機会があれば、孫たちを連れて行こうと思っているが、彼らなら、初めての経験でも、きっと前進のみするに違いない。これも人生のひとつの縮図かもしれない。(おとんとろ)