北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地史―2)

第10章 山中地域の地史

  2. 二畳紀後期~白亜紀後期の

       日本付近の概観

 

(1)二畳紀ペルム紀)後期~三畳紀前期

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 アジア大陸の東縁で、最初のプレートの沈み込みが始まりました。今より南方で、現在の南トナ海から東シナ海付近です。(揚子地塊への沈み込みが考えられます。)
 飛騨帯や三郡帯・山口帯などの二畳紀の付加体が、アジア大陸地塊に加わったと考えられます。そして、この付加帯の上の浅い海(陸棚)に、舞鶴帯の地層が堆積しました。
 秩父帯の中に点在する二畳紀フズリナ(紡錘虫)などを含む石灰岩は、【図】の秋吉海山と類似した海底火山や火山島に伴う珊瑚礁など、大洋底からの高まりにできた浅い海に堆積した石灰岩と思われます。
 ちなみに、この時期、秩父帯となる地域は、まだ形成されていません。

 

(2)三畳紀後期

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 プレート境界の沈み込み側は、横ずれをして北方へ移動するようになりました。この為、境界付近には、飛騨外縁構造帯などの「蛇紋岩メランジェ」ができました。
(北方に移動したので、中朝地塊と接するようになり、大陸地塊との関係は、現在の位置関係に近づいてきたました。)
 二畳紀の付加体である三郡帯は陸域に転じ、この地塊の海側にできた三角州のような所に、美弥(みね)層群が堆積しました。
 この時期、秩父帯は、依然として形成される前で、静かに準備が進んでいました。

cf:蛇紋岩メランジェは、規模は小さいものの、山中地域白亜系との境で認められるものと同類の内容と思われます。

 

(3)ジュラ紀末期

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 日本列島の基盤となる飛騨帯や三郡変成岩帯などの古生代末(二畳紀)に付加された部分に、黒瀬川地塊や南部北上帯が、プレートの動きによって接近して衝突しようとしています。
 この時、ジュラ紀の前期から後期にかけて付加された丹波帯・美濃帯と、秩父帯は、ジュラ紀末期には間の海に陸地として現れるようになりました。そして、それらの間は、それぞれ「ナップ帯」となっていました。

 

(4)ジュラ紀末期~白亜紀前期

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 プレートの動きは、日本列島の基盤となる地塊に衝突した後、向きを変え、横ずれとなりました。
 そして、黒瀬川地塊を含むジュラ紀の付加体(外帯)は、南方から、一方の付加体(内帯)は、北方から移動してきました。この2つの小大陸地塊が、別々な動きをしながら、ぶつかり合いました。
 この境目が、日本列島を外帯と内帯とに大きく二分する大断層で、中央構造線(Median Tectonic Line)と呼ばれるものです。(cf:厳密には、もっと複雑!)

 この頃、秩父ナップや武甲山ナップは、秩父帯プロパー(教義の秩父帯)によって押し上げられながら移動してきました。そして、移動していく時の応力によって、歪みが生じ、横ずれ断層ができました。
 この断層群によって陥没してできた凹地で、山中地域白亜系は堆積しました。
 つまり、日本列島の帯状配列の中、ジュラ紀付加体のひとつである秩父帯の中にできた細長い陥没地が、山中地域白亜紀の堆積盆となり、周囲から堆積物の供給を受けて地層が形成されました。

 尚、この時期のプレートの動きによる横ずれの結果、別な場所(やや北方)で作られた手取層群と領石層群(山中地域白亜系の瀬林層の一部に対比される)のように、まったく植物区の異なる地層が、(山岳などの障害物を夾んでいた可能性)並列するようになったと考えられています。
                 
(5)白亜紀後期

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 プレートの日本列島への沈み込みは活発となり、四万十(しまんと)帯が形成されていきました。
 プレートは、斜め方向に沈み込んでいたようで、中央構造線は、まだ横ずれをしていたと推定されています。
 三波川帯は、上昇して陸化します。
 一方、中央構造線を夾んだ領家帯は、この時期の沈み込みに伴って、高温低圧変成を受けました。
 ちなみに、今日、中央構造線(断層)を夾んで変成の異なる帯が接していますが、少なくとも両帯の間にあって、今は失われている部分があったと推定されています。例えば、領家帯を代表する花崗岩体は、上位にあった地層が浸食されて、地下深部の花崗岩(【図】の内帯花崗岩)が地表に現れています。

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日本海拡大前の地体構造(大藤 茂 ・富山大)を簡略化


 【上図】は、日本海拡大前の地体構造(復元案)として、大藤 茂 先生(富山大教授)が示した図です。私を含む素人が、理解しやすいように単純化しました。時代は、おおよそ白亜紀として良いものと、私は理解しましたので、この時代に入れてみました。
 図の水色の部分は、古生代に由来する古い地塊です。(最近の話題では、日立変成岩の原岩は、カンブリア紀との情報もあります。)
 黄色の部分は、古生代末~三畳紀中生代始め)の次に古い地塊です。
黒色の部分も、ほぼ黄色の部分と同等な時代の地塊です。
 これの地塊は、アジア大陸の東の縁で、プレートの動きによって集められました。後に、それぞれの構造線(比較的大きな断層群)となるのが、ほぼ南北に延び、日本列島と、沿海州の構造が、共通した由来をもっていると考えられています。
 ちなみに、中央構造線は、棚倉構造線、バルチザンスク断層と、起源を一にするとする見解です。


【編集後記】

 中央構造線と言うと、信濃教育会が主催した「信州自然学」講座を思い出します。

 毎年、夏休みに県内の各郡市を順番に訪れ、地形や地質、動物・植物・天体などを実地に学習する機会がありました。参加できない年もありましたが、上伊那大会(平成14年8/7~9)と、下伊那大会(平成18年8/8~10)では、中央構造線が地表に表れている露頭を実際に見て、感動しました。

 

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  下伊那大会で案内された「安康」露頭:奧側・「領家帯」側の黒っぽく見える部分が、断層ガウジ(fault gouge)。運動運動によって岩石が破砕され、粘土のように粒径が小さくなった。さらに砕かれたりすると、断層粘土となって崩れやすい。

 

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 中央構造線を始め、伊那谷中央アルプスの地質研究で名高い、松島信幸先生の案内で、美和ダム湖の溝口露頭を観察しました。その後、「三峰川の総合開発」(米国のTVAよろしく)のトンネル工事(掘削中の内部)も見学しました。

 Fs(珪長質岩脈・貫入岩)が、大きな断層(中央構造線)のある辺りで、その西側(写真の左)が領家帯、東側(右)が三波川帯です。

 Myは、マイロナイト(Mylonite)/Csは、破砕岩・カタクラサイト(Cataclasite)です。共に、断層運動を引き起こすような応力を受けて、圧砕・変形されたものですが、マイロナイトは、高温の深部で原岩の鉱物が再結晶し、塑性流動を受けた断層岩です。

 カタクラサイトは、比較的低温・高圧条件の地殻浅所で、脆性破壊を生じた断層岩です。どちらかと言うと、機械的な破壊要素が強く、破砕岩とも呼ばれます。

 BsとSbsは、共に黒色片岩(結晶片岩・crystalline schist)を原岩とするカタクラサイトです。既に、広域変成作用で、再結晶していたものが、更に断層運動で破砕されました。Sbsの方が、珪質で変成度が高いようです。間に、断層ガウジ(Fg)があります。

 さらに、他地域の露頭での専門的な研究から、ここで見られる両帯は、完全な本来の姿ではなく、遠く離れた所から押し寄せ、擦れている間に、失われている部分があると考えられています。

 当時のメモを元に、まとめてみました。

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 懐かしい「ナナフシ」の写真も出てきました。葉や茎に擬態した昆虫がいるのがわかりますか? 尚、平成19年は、私たちの佐久大会で大変でした。(おとんとろ)