北海道での青春

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佐久の地質調査物語(地史―3)

3. 山中地域白亜系を中心とした地史

 

(1)基盤岩(御座山層群)が堆積した時代

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 御座山層の観察した範囲では、泥岩(石墨化~千枚岩化)から砂岩、凝灰質砂岩、砂泥互層と変化しているので、泥相から砂相へと移行している。(その更に、以前は不明)
 その上位に、火山噴出物が入る傾向がある。
 泥岩の弱い変成は、堆積後のことである。基盤の上昇に伴い、御座山堆積盆は縮小していった。
 西日本では三畳紀後半から隆起し始めて、ジュラ紀には陸域になっていた。沿海州方面から大きな湾が入りこんでいて、その後、複数の淡水湖となり、手取層群などをためた。
 一方、御座山層群は、太平洋の海底にあって、堆積を続けていた。同層準の石灰岩は、珊瑚礁起源のものではないが、下位の地層の泥岩に有機物が多いので、部分的には海底火山や珊瑚礁なども発達し、それらで閉ざされた内海や湾の停滞水域があったと考えられる。南海で形成され、ジュラ紀に付加された地層と考えられている。堆積した時代は、中生代と思われるが、基本的に不明なので、先白亜系という扱いをしている。


(2)「新三郎沢層」が堆積した時代

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 全体は、凝灰角礫岩層と火山角礫岩層とに大別できる。緑青色~緑色を帯びる「緑色岩類」が多い。
 新三郎沢で観察される最上位に、枕状溶岩がある。
 御座山層群の下には、「ホットスポット」のような場所があり、海底火山活動が盛んであったことが、原因であろう。海上へと成長してくる火山から供給された火山物質は、やや深い海の時代には、凝灰角礫岩が多く、広く御座山層を覆ったであろう。(下部層)海が浅くなり、隆起が進む中で、火山角礫岩が多くなってきた。(上部層)

 

(3)「新三郎沢層・最上位層」が堆積した時代

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 火山活動が沈静化して、少なくとも一部の新三郎沢層は陸化したのではないか。枕状溶岩の層準の上位に、玄武岩質の火砕流堆積物や火山灰などを供給した陸上火山の存在を想定している。新三郎沢層の最上部層と、最初の白亜系・白井層は、あまり時代的に離れていないと思われる。その理由は、白井層の特異な砂岩層の特徴が、堆積物供給の後背地の変化を良く反映しているからである。
 極端に解釈した場合、新三郎沢層の最上部層と白井層は、「同時異相(Contemporaneous  heterotopic facies)」の関係にある可能性すらあるかもしれない。
 全域は一旦は、陸域に転じた。小さな断層による陥没で、凹地が何カ所かでき、堆積盆となった。わずかに残った陸上の火山は、溶岩や火砕流を噴出した。玄武岩溶岩の一部は、湿地や湾に流出したかもしれない。その後、火山活動は完全に停止し、風化・浸食された火山噴出物は、流水によって運ばれ、白井層を形成することになる。


(4)「白井層」が堆積した時代

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 基盤岩や新三郎沢層が陸化して間もなく、陥没するようにして白井層の堆積盆ができた。その分布は、蛇紋岩帯断層の南側にも及んでいる。
 火山性堆積物の供給を受けながら、二枚貝化石層準へと移行する岩相変化から、比較的短時間で海が深まって行ったと思われる。
 基底礫岩層の後、小規模な海進・海退を繰り返しながら、堆積物をためていった。茨口沢では、9相の層準を確認した。相粗粒砂と泥の互層、軟弱砂岩層、緑色砂岩層、黄土色砂岩層、二枚貝化石層準、明灰色砂岩層、砂泥互層と重なり、石堂層の基底礫岩相当層が認められた。
 白井層の下部では、全体的に凝灰質である。軟弱砂岩層は新三郎沢層の枕状溶岩から、緑色砂岩層は火山灰から、黄土色砂岩層は、やや風化の進んだ火砕流堆積物が、明灰色砂岩層は火山性堆積物の影響が薄れたものが、白井層の中に取り込まれたものである。これらの砂岩層の特徴は、火山性堆積物の風化が進行していく順番に対応している。
 また、基底礫岩層の中に泥・砂・礫が混ざるという、極めて分級が悪い岩相から、小さな堆積盆であったことが伺われ、初期の汽水環境から、急速に海が侵入してきたと考えられる。

 

 

(5)「石堂層」が堆積した時代

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 基底礫岩層が、御座山層群と新三郎沢層を不整合関係で覆う。離れていた複数の白井層の堆積盆を繋ぐように、石堂層の堆積盆は拡大し、しだいに海は深まっていった。
 全層厚のほぼ半分で分けた時、下部層は、粗粒~中粒砂岩が多い砂泥互層で、上部層は、細粒砂岩が多い砂泥互層と砂質黒色頁岩層から成る。共に、動物化石層準がある。植物化石は、下部層にのみ認められた。(ただし、炭化物が多い。)沖合相を示す下部層からは、アンモニイト化石が産出した。
 基底礫岩層の礫の配列情報から、堆積物は、現在の方向で、南~南西方向から供給されたと考えられる。北側と東側が外洋に繋がり、開かれていたと思われる。例えば、現在の富山湾の一部ぐらいの湾状地形をイメージしても良いかもしれない。


(6)「石堂層の最上位層」が堆積した時代

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 蛇紋岩帯断層に沿って、蛇紋岩メランジェの一部が地表近くまで上昇してきたか?
 蛇紋岩メランジェは、既に石堂層の堆積時代から、地下深部で上昇が始まっていたと思われる。白井層の一部に例外(断層運動で移動した可能性)はあるが、白亜系の現在の分布は、蛇紋岩帯断層の北側だけなので、白亜系堆積盆と先白亜系を区切る性格をもっていると思われる。
 尚、抜井川最上流部の石堂層の黒色泥岩(2カ所)の中に、「軟弱砂岩」塊が認められた。この時代に、基盤岩(南側)の隆起があって、一旦は石堂層が覆っていた部分が削剥され、下位の白井層や新三郎沢層の一部が露出し、供給された可能性もある。


(7)「瀬林層の下部層」が堆積した時代

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 石堂層の最上位層の堆積時代から、基盤岩類の隆起は始まっていたが、蛇紋岩帯断層の南側は、急速に隆起したので、瀬林層の堆積盆は縮小して浅い海になっていた。
 この為、瀬林層下部の堆積環境は、【A陸域に近い相】・【Bやや沖合相】・【更に沖合相】と、3区分できる。【C】の先は、現在の方向で東側の群馬県・埼玉県側で、外洋とつながっていた。
 瀬林層の堆積環境が、3相認められるという理由は、『隣接する下部瀬林層の謎』の項で述べた通りだが、鍵掛沢断層と大野沢断層に夾まれた細長いブロック自体が、相対的に南側に大きく移動し、【A相】と【C】相が鍵掛沢断層を介して接している(直接の観察はできないが)ことから、明らかになった。

                 
(8)「瀬林層の上部層」が堆積した時代

 

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 瀬林層の上部層が堆積した時代になると、隆起はさらに進み、堆積盆は縮小し、海も浅くなった。 【A相】は、陸化してしまい、堆積層が無い。
(有って、削剥された可能性はあるが・・)
 【B相】は、シダ植物類の化石が観察できたので、淡水~汽水性の湖のような堆積環境だったと思われる。
 【C相】は、引き続き海であったが浅海となったと思われる。
 大野沢本流とその支流第3沢・第4沢付近では、周囲の粗粒砂と礫の中に花崗岩と閃緑岩の巨大な岩塊が認められた。明らかに基盤岩類からの供給であり、激しい隆起の結果だと考えられるが、その上位に当たる三山層とは整合関係であるので、一時的な激しい隆起があったとしか理解できない。何か他の理由があったのかもしれない。
 ちなみに、花崗岩や閃緑岩の巨大な岩塊が、突然に見られる現象は、三山層の比較的上部にもあります。


(9)「三山層」が堆積した時代

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 山中地域白亜系の東部域では、三山層は、黒色頁岩層からなる深海成層で、当地域・白亜系の中で、分布・層厚ともに一番発達しています。
 白亜紀の日本の標準階では、「宮古統」に対比され、白亜紀の前期と後期の境(ほぼ1億年前)の少しだけ後期寄りの「宮古海進」の時期とも、ほぼ一致しています。ですから、当時の海が一番広がり、大きな堆積盆ができた時代でした。
 ところが、佐久地域では、長野・群馬県境(現在の方向で東側)付近に高まりがあり、三山層の堆積盆が、分断されていた可能性も十分ありえます。
 三山層の堆積時代の始めには、蛇紋岩メランジェの個体貫入は終了し、一部は地表に露出していました。
 三山層は、蛇紋岩帯断層を越えて、侵入しました。蛇紋岩帯断層の南側には、石堂層は削剥されていたと思われるので、一部三山層は、御座山層群を不整合で覆ったかもしれません。
 これまでの内湾性の地形に対して、急速に海が深まったので、堆積盆の縁(斜面)に、一時堆積した砂や泥は、混濁流となって海底に運ばれ、「ストライプ層準」層や崩壊堆積物の再堆積層などの証拠を残しています。
 ただ、佐久地方では、白亜系を概観すると、大きな向斜構造の軸付近に三山層が分布し、石堂層の範囲を越すことはないので、仮に、一旦は拡大した海も長続きはしなかったと思われます。

 

(10)「三山層の最上位層」が堆積した時代

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 三山層最上位の花崗岩や閃緑岩の岩塊(ラグビーボール大)を含む礫岩層が、佐久地域で観察される最後の白亜系です。
 これは、当時の西側、現在の方向で、北側(内山層の分布域)からの急速な隆起が原因かと思われますが、瀬林層上部層でも類似の岩相があるのは不思議です。
 泥相から礫相への岩相変化が急すぎる点や、東部域に比べて層厚が薄過ぎる点などから、礫岩層の上に、削剥された部分が多少はあるのではないかと推測しています。
 しかし、「乙女ノ滝断層」の東側から県境にかけての範囲では、白亜系の中でも新しい時代に堆積した瀬林層も三山層も観察されません。(【下図】の断面図で、石堂層の向斜構造の上位に、瀬林層・三山層が無いのに注目!)
 現在でも標高の高い県境地域でもあり、断層の垂直運動で隆起して、削剥されたとする推理は、成り立ちません。仮に他の地域の削剥された量と比較しても、2つの地層の層厚分が削剥されたということは、あり得ない現象です。つまり、元々、堆積しなかったか、あったとしても極めて薄かったとすることが、自然です。
 それで、瀬林層の上部層の時代から、既にかなりな高まりがあって、三山層の時代には、陸化していたと考えています。(【図】では、陸水を想定しています。)
 *東部域の三山層では、下部層と上部層に分けていますが、この内、佐久地方では、上部層は無かった可能性も大きいと考えています。


(11)褶曲構造が造られた時代

 褶曲構造は、白亜系が堆積した後、基盤岩を含む地域全体が、当時の東西(現在の方向で南北)の方向を主力とするような応力を受けて、片方へ覆い被さるような非対称な構造をしている。全体が陸化に向かう過程で、少しずつ折り曲げられてきたのだろう。
 この後で堆積した中新世の内山層も、緩い褶曲構造は見られるが、内山層堆積以前だろうと思う。

 また、断層の動きと競合している部分や時代があったと考えられる。地質図に表す上での解釈は、褶曲構造が造られた後で、南北性断層の主活動があったとしているが、実際は、断層運動と褶曲構造の形成は、重なっているはずである。地層が応力に耐えられなくなって断層ができたり、断層の動きによって褶曲の形成が促進されたりする関係があったのだろう。(再掲:断層の様子と活動時期の推定)

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  佐久地域の「鍵掛沢断層と大野沢断層」付近で、褶曲の向斜構造軸を大局的に見ると、北に3km、南に2kmほど移動し、全体では5kmほどの「ずれ」がある。
現在の山中地域白亜系の分布は、南北最大幅でも5km、延長方向に40kmほどなので、石化による収縮や、褶曲による繰り返しを考慮して、南北に10~15km、東西に40~50km程度の広がりがあったのではないかと想像する。

 この大きさは、富山湾の一部、氷見と黒部を結んだ線の内側ほどの規模になる。

 

      * * * *

 

 【編集後記】 

 令和3年2月1日にスタートした「佐久の地質調査物語」(山中地域白亜系)は、まだ、参考文献を残していますが、「物語(ものがたり)」という形式でのノンフィクションという位置づけなので、省略します。それで、明日、3月末日に、「おわりに」を載せ、終了の予定です。4月からは、内山層について取り組みたいと思います。

 ただし、晴耕雨読の私にも、春の訪れとともに外の農作業や、その他の屋外作業が出てきますので、ここ2ヶ月間のようなペースでの掲載は無理かもしれません。(おとんとろ)