北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-100

           は じ め に

 題名を『続・佐久の地質調査物語』としましたが、「フィクション」ではありません。ただ、物語という言葉に敢えてこだわったのは、自然科学を題材にした易しい話で、地質に興味のある人が、親しみを感じて欲しいと願ったからです。
 地質学に限らず、学術論文は難しいです。対象とする人のレベルや目的から仕方のない事情もわかりますが、もう少し私たち素人にもわかるように伝えて欲しい。また、一枚の地質図にしても、苦労して作られているはずなのですが、その大変さは見えてきません。そこで、地質調査がどんな風に進められてきたか、そこには、どんな失敗や人間ドラマがあったのか、そんな裏話やエピソードを知れば、マイナーな地質学の話題も面白くなるのではないかと思いました。
 そして、もうひとつの願いは、観察者としての記録を後世に残したいと思います。
 調査活動を通して得た実感は、『知りたい、見つけたい』と念じても、期待する対象物は容易に見つけられないことが多く、反対に、見てもわからないことだらけです。だから、私たちがフィールドを歩き回り、見聞きしたり集めたりした基礎資料は、何とかして後世に、後輩へ残すことに大きな意義を感じます。今は理解できないことでも、何年か後には、奇妙で不可解な露頭の謎を、もののみごとに解いてくれるのが、自然科学の歩みだと信じています。
 写真は、平成25年の夏、信州理研の調査で訪れた東京都三宅島「ひょうたん山」と、北東側海岸で見つけた「玄武岩質溶岩・流紋岩質溶岩・花崗閃緑岩」の礫です。【写真・下】

 また、炕火石(こうがいし)と呼ばれる流紋岩質の軽石を見つけました。
 島は、風化して土壌ができている場所もありますが、基本的には玄武岩質溶岩です。特に、アスファルトのような玄武岩質スコリア丘(昭和15年噴火)のひょうたん山付近では、白いものは特に目立ちます。同じく火山島の新島や式根島では、流紋岩露頭の分布も認められますが、三宅島には無いはずです。
 炕火石は、普通の軽石よりも更に軽く、遠き島より流れ着いた椰子の実の如く、新島から太平洋上を流れ渡ってくることは理解できましたが、海水に沈む流紋岩や花崗閃緑岩が、なぜここにあったのでしょうか?
(花崗閃緑岩礫は、ここだけでしたが、流紋岩礫は極めて希であっても付近全域で目についたので、人為的なものではないと思われます。)
 露頭として存在するほどの規模ではないが、火山島の内部に岩体があって、火山噴火の時に吹き飛ばされ、海岸で角がとれたのだろうと説明するのが、一番自然です。しかし、不思議に思いました。

(cf:佐久の地質調査物語「山中地域白亜系」の中の【編集後記】で、バイモーダル火山活動の話題をに触れました。)

 

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三宅島の流紋岩と花崗閃緑岩

 ちなみに、ひょうたん山の東側露頭で、スコリアと火山弾の中に、3cmを超える灰長石(anorthite)の巨大な塊(結晶)を見つけました。火山学や鉱物学的には、有名さと貴重さで、こちらの方が、数段高級な話題のようですが、残念ながら私には良くわかりません。
 こんな例のように、「黒い物の中から白い物」を見つけるぐらいのことなら、暑いのを我慢して現地に行った人は、誰でも発見できます。しかし、比較的長持ちのする「さざれ石」も永遠なものではなく、いつか姿を変えてしまいます。それ故に、拙い観察記録でも、残しておくことの貴重さを感じます。
 ですから、ルートマップを示した場面では、細々した情報も伝えたいので、くどいと感ずるかもしれません。また、基礎データーも大切にし、当時の状態を忠実に伝えたいです。そんな願いを込め、佐久地方の内山層について、語っていこうと思います。

 

 【編集後記】

 今日から、「内山層」についての情報を紹介していきます。原題は「続・佐久の地質調査物語」としてありますが、「山中地域白亜系」に次いでの内容だからです。

 そのシリーズは、2月~3月で終了しましたが、反省点として、『もし、見る人がいたら、順番がわかりにくいだろうな』と気づきました。そこで、今回は、「はじめに」を100番として、次回から、101番という風に、番号を増やしていくことにします。

 尚、物語とした理由は、前回と同様な理由です。今度は、農繁期になるので、「はてなブログ」への掲載は、飛び飛びになることが予想されます。その意味からも、番号を増やしていくのは、良いアイディアかもしれません。そして、自分への励ましにもなるかもしれません。

 よろしくお願いします。(おとんとろ)