北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-119

2. 内山川本流(2/3)の調査から

 ホド窪沢が合流する橋の上流20mで、石英斑岩(せきえいはんがんQuartz-Porphyry)の貫入露頭がありました。石英斑岩は、(半深成岩で)、珪長質組成の火成岩です。・・・かつては半深成岩という言い方もしましたが、今は使っていません。

 

f:id:otontoro:20210521135415j:plain

内山川本流の2 (苦水から大月の東まで)

 このすぐ上流側(【図-①】)で、やや青味がかる灰白色の中粒砂岩層が見られました。熱変質を受けていると思われます。走向・傾斜は、N70°W・20°Sでした。

 標高795m付近(【図-②】)では、層理面がはっきりしない塊状の黒色泥岩層の中に、コングロ・ダイクと「十字」に交叉した石英斑岩の貫入が見られました。

 黒色泥岩層の中に灰色中粒砂岩層が挟まっていて、走向・傾斜は、この値、N20°W・70°Eで、全体傾向を代表させてあります。
 この日(2002 7/6)の観察スケッチは、帰宅後に振り返ってまとめようとすると、詳細が不明でした。それで、尾滝沢調査(2002 8/10)の折に、観察し直しました。写真の竹箒できれいにして撮影しましたが、木漏れ日や苔が付いていて、極めてわかりにくいです。説明図を参照してください。
 中央の石英斑岩は、60°の角度で交叉するように貫入しています。貫入が同時なのか、それとも前後差があるのかは、わかりません。
 その西側に、幅15cm×長さ2mと、幅5cm×1mほどの、2つのコングロ・ダイクが泥岩層に貫入していました。コングロ・ダイクと石英斑岩は、接してはいますが、切ったり切られたりする関係は見てとれません。ホド窪沢(1010mASL)の露頭で見られたような、玢岩がとコングロ・ダイクと泥岩層を切っているような関係はわかりません。
 この露頭については、コングロ・ダイクの成因についての項で、再度、話題にしたいと思います。

 

f:id:otontoro:20210521140351j:plain

石英斑岩の交叉貫入とコングロ・ダイク

f:id:otontoro:20210521140131j:plain

十字貫入の説明図

f:id:otontoro:20210521140559j:plain

黒色泥岩との接触部分(拡大)

 

 そのすぐ上流では、黒色泥岩と中粒砂岩の互層でした。【図-②】露頭の上流10mほどの左岸では、黒色頁岩に石英斑岩の岩枝が見られました。下流側から、黒色頁岩/岩枝(5cm)/黒色頁岩(1m)/岩枝(25cm)/黒色頁岩と続きます。層理面は顕著ではないが、傾向としてN20°W・85°NEないし垂直と、層理面に沿って、ほぼ調和的に見えました。(【図-③】)顕著な熱変質はありませんが、釜の沢合流点付近の中粒砂岩は、灰白色になっていたので、熱変質は受けているゾーンとして良いと思います。

 尾滝沢の合流点と、その少し下流部では、砂優勢の灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層や砂岩層で、こちらは熱変質を受けていませんでした。(【図-④】

 標高800m、武道沢合流点から25m下流付近(【図-⑤】)から、礫岩層が現れました。礫種は、チャートや結晶質砂岩の亜角礫です。

《注》仙ヶ滝とその上流部は、一次調査(2002 7/6)をしてありましたが、不明な部分も多く、再調査しました。図幅【内山本流2/3】は、平成14年8月4日に、食堂「藤村」の看板あったの奥の橋から本流に入って内山川を下り、仙ヶ滝付近から始めました。尚、仙ケ滝付近(2002 8/4 および2002 11/3)は、複数の調査情報も合わせて報告します。

 

 武道沢の合流点から上流は、比較的大きな淵があり、その上に、仙ヶ滝が形成されていました。(【図-⑥】)滝の造瀑層は、厚い礫岩層と粗粒砂岩層の互層で、砂岩層の方が大きく浸食され、流水は中央部を蛇行するように落下していく三段の滝です。一番下の落下部分から滝の上までは、水平距離で25mほどあり、全体の落差は、5mぐらいです。滑滝(なめたき)なので、深い滝壺にはなりませんが、下流に大きな淵ができていて、子どもが水遊びをするには最適な環境です。滝付近は、N70°W・40~50°SWの走向・傾斜でした。

 

f:id:otontoro:20210521142436j:plain

千ヶ滝の上(上流側から)・・・突き当たりが淵になっている

 滝の上(【図-⑦】)に、流れ落ちる水を貯めた浅瀬があり、暗灰色粗粒砂岩層の上位に礫岩層が重なっていました。砂岩層が流水で浸食され、オーバーハング状態になっています。礫種は、灰色・白色・黒色のチャート礫(主)、黒色頁岩礫、灰色(結晶質)砂岩礫、花崗岩礫で、巨大な礫はありません。
この産状について、『下の粗粒砂岩が、礫岩に突き刺さっているので、砂岩を下位としていいでしょう』と、野村 哲 先生(元群馬大学教授)が指摘してくれました。
                       (2002・平成14年 11月3日)

 この礫岩層は基底礫岩層だと考え、内山層の最下部だと理解していた私たちに対し、礫岩層の堆積前に粗粒砂岩が先に堆積していたことを説明してくれました。(ちなみに、同様な産状は、初谷沢合流点付近にもあり、後述します。
 内山層堆積盆で本格的な堆積の始まる前、つまり基底礫岩層の堆積前に、既存の地層(白亜系か?)と不整合関係で、少量の粗粒砂岩が、まだ固結しない堆積物の状態にあり、その上に礫が堆積してきたという意味です。砂の上に堆積した礫が砂を押しつけ、礫同士の隙間から砂が突き刺すように入りこんでいるということになります。
 これは、「基底礫岩層は一番下だ」という私たちの固定概念(ある意味で偏見)を崩してくれました。そうなると、下位の粗粒砂岩層も含めて、『基底礫岩層群』と呼んだ方が良さそうです。

f:id:otontoro:20210521142733j:plain

礫岩と砂岩の境目(基底礫岩層の下に砂岩層がある)

 

 

 基底礫岩層群の露頭から50m上流の右岸(【図-⑧】)では、黒色頁岩と灰色細粒砂岩の互層で、N60°W・30°SWでした。この細粒砂岩から、二枚貝の化石を見つけました。

 内山川の湾曲部(【図-⑨】)では、砂泥の互層で、泥岩はやや古そうに見受けられました。また、目視できる断層が認められました。下流側と上流側で走向・傾斜を測ると、N85°W・38°S~N80°E・32°Sと幅があるので、図では全体を代表するものとして、「EW・35°S」と架空の値(平均)を載せてあります。
 小さな木橋付近の左岸(【図-⑩】)では、黒色頁岩層でした。(この日は、この木橋から川に入りました。)


 標高805m付近で、南東から柳沢が合流します。その上流25mでは層理面がわかりずらい黒色頁岩層がありました。北落ち(右岸)とも、南落ち(左岸)とも見えます。
 根津古沢の合流点手前の橋(【図-⑪】)では、黒色頁岩層(N60°W・60°NE)が見られました。黒色頁岩層は沢の方にも続いていて、沢に100mほど入ってみると、石英斑岩(幅5m)の貫入があり、130mほどでは、N60°E・70°SW~垂直の黒色頁岩層でした。(後日、入る沢ですが、調査が難しそうな沢との印象を持ちました。)
 本流に戻り、脇の国道254号線のコンクリート壁に沿った左岸は、同質の黒色頁岩層が続いていました。
 大月の湾曲部(【図-⑫】)では、黒色頁岩層(N80°E・50~60°S)がありました。走向・傾斜資料と同質の岩相から推理すると、根津古沢へ130mほど入った露頭とつながるかもしれません。

 そして、橋(名称不明)の上流130m付近に、コンクリート製の低い堰堤があります。ここで、内山層基底礫岩層見られました。(【図-⑬】
 堰堤から下流側30mの範囲が礫岩層で、特に白色チャートの礫が卓越した板状露頭が、左岸全体と、川底中央(2/3左岸寄り)と、下流30m川底を通じて両岸にありました。左岸側の測定で、N80°E・70°Sでした。ポットホールも見られました。
 そして、次の【図-⑭】地点まで、基底礫岩層でできた淵が続いていました。川底は、前述の白チャート礫が卓越した層準(川底中央)が、浸食された部分のようです。この走向に沿って内山川は、流れているようです。調査委員の中に、やや高所恐怖症の方がいて、右岸側をトラバースして進みましたが、大変そうでした。

 【図-⑭】から【図-⑮】および【図-⑯】付近の説明図(スケッチ)を示しました。写真と共に見てください。
 【図-⑭】地点では、礫岩層の上に暗灰色粗粒砂岩層と灰色(凝灰質)粗粒砂岩層が載っていました。暗灰色粗粒砂岩層の中には、水辺の植物の茎などと思われる炭化物が含まれていました。
 その上流、川が湾曲する地点【図-⑮】では、目視できる断層のような存在があり、内山層と大月層の境ではないかと思われる露頭が見られました。

 

f:id:otontoro:20210521143825j:plain

白亜系と基底礫岩層の境(断層)

f:id:otontoro:20210521143554j:plain

内山層(基底礫岩層)と白亜系との不整合露頭


  構造不明な砂岩の南側(F-①)と北側(F-②)は、断層と思われます。 礫岩層の中に黒色粘板岩がくさび形に入っています。また、川底から礫岩層の一部が出ています。この方向が、礫岩層全体の層理面を代表していると判断し、N60°W・50°NWと、走向・傾斜を求めました。
 一方、F-②の近くにも黒色粘板岩があり、その隣は中粒砂岩層と続きます。しかし、境が層理面とは思われませんでした。それで、少し上流部の黒色粘板岩層N20°E・35~45°Sの値を採用してあります。(【図-⑯】

 内山層基底礫岩層(1900万年前とし)と大月層(白亜紀、仮に1億年前とすると)の時代差は、8000万年以上となります。これだけの差なので、目視できる小断層が、両者を画する断層であるはずはありません。しかし、大きな時代差を決めている構造の一部を偶然に見ていることには、間違いありません。

 基底礫岩層の見られる露頭【図-⑬・⑭・⑮】の位置関係と走向・傾斜で見ると、目測30~35mの範囲が、基底礫岩層の層厚を表しているように考えられます。そこで、傾斜50°で計算してみると、層厚は24~27mほどになります。基底礫岩層の他の露頭では、一部分しか見えてないので、比較は難しいですが、最大の厚さかもしれません。尚、この礫岩層には、礫というより寧ろ「岩や小石」とでもいうような巨大な礫は含まれていませんでした。
 この日(2002 8/4)の調査は、上流部へと続きますが、図幅【内山川本流2/3】の都合で、ここで終わります。

 

 【 編集後記 】

 【内山川本流2/3】で使用した「写真」は、写りが悪いです。と言うのも、理由があって、当時、私は一眼レフ・カメラで写し、写真店で印画紙に焼いてもらった写真か、ネガフィルムからPCに読み込んだ画像を使用していました。この為、加工操作に時間がかかるので、解像度を落として、データー処理をしていました。解像度を落としてしまった写真は、きれいに再生できません。撮影場所は、山奥ではないので再撮影も可能ですが、写真に写っている人と調査した思い出と共に、同じ状況は再現不可能なので、敢えて使用しています。ちなみに、基底礫岩層群露頭で麦わら帽子の人は、渡辺正喜先生です。また、基底礫岩層と白亜系の境に立つ人は、六川源一先生です。

 ところで、PCやカメラなど、機械技術やその性能向上の変遷には、目を見張るものがあります。
 平成25年11月23日、松川正樹先生(東京学芸大学教授)の門下生・平田圭祐さん(大学院生)が、「大通嶺(だいつうれい)」の北相木層から広葉樹の化石を見つけた所を案内してくれるというので、渡辺先生と同行しました。急な尾根のみで、私は地形図を読みながら歩きましたが、平田氏は、GPSで緯度・経度・標高まで正確に捉えていました。さらに露頭を写した写真画像には、写した方位と時間(秒)までが、表示されていました。
 ただ、この日の目的は達成できずに、代わりに暗灰色中粒砂岩層からウニの殻化石を見つけました。(写真)

f:id:otontoro:20210521151330j:plain

ウニの化石(北相木層・大通嶺)

 ところで、今日は雨の一日で、外での農作業もできないので、ゆったりと過ごせそうです。それで、午後は、車庫の横の謂わばガレージのような所で、メロンとスイカの種子をいくつかの鉢で種蒔きをして、温室に入れようと計画しました。

 その前に、はてなブログを挙げようと始めましたが、とんだロス・タイムの発生です。最後に載せた「北相木層のウニの化石」の写真が見つからなくて、捜しまくりました。ようやく発見できたものの、予定時刻を大きく回ってしまいました。

 北相木層の地質や化石情報も、かなり集まっているので、いつかまとめようと、別の媒体にファイルを集めて保管してありました。常々、写真などの記録の大切さを痛感すると共に、その保管や整理は、もっと重要だと思いました。(おとんとろ)