第Ⅶ章 中部域の沢
谷川(やがわ)は雨川の南、余地川(よじがわ)は、更にその南を流れる河川で、内山層分布域の中部域に当たります。この地域は、主に平成16年と平成18年に調査をしました。
平成17年度は、後述する熊倉川に挑戦していました。調査年度より、北側からの地域別に紹介していきます。谷川左股沢(8/4 2006)・谷川本流(10/17 2004&5/29 2005)・余地ダム湖周辺(9/3 2006&11/6 2004)・余地川支流、湯川~温泉の沢(5/27 2006)の順です。
1. 谷川左股沢の調査から
平成18年(2006)8月4日、既に調査済みの谷川本流との関係を明らかにする目的で、左股沢に入りました。(【谷川左股沢のルートマップ】を参照。谷川本流は、概略)
第2堰堤から沢に入ると、すぐに本流と左股沢の二股になります。
その上流(【図-①】)では、珪質の黒色泥岩層、白色チャート層、凝灰質の帯青灰白色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。互層部で、N32°E・50°NWでした。
蛇行する川の湾曲部(【図-②】)では、凝灰質中粒砂岩層が、また、【図-③】では、石英閃緑岩(Quartz-Diorite)が見られました。標高860m付近(【図-④】)では、帯青灰色(珪質)中粒砂岩層と黒色泥岩層(礫を取り込み、pyriteが入る)の間で、目視できる小規模断層が見られました。ちなみに、断層面はEW・44°Nでした。
そして、標高860~870mまでの間の接近した露頭、【⑤】・【⑥】・【⑦】・【⑧】では、この地層のでき方を考える上で重要な情報を提供してくれました。
【⑤】露頭は、【④】→(東南東へ30m:S70°E)→【⑥】に至る流路で、小さな滝が2つあります。黒色泥岩層の中に礫が、様々な形態で含まれていました。
いわゆる、「含礫頁岩」に似た、泥岩層です。特に、2つの滝に挟まれた露頭(写真)では、薄い中粒砂岩層が、層の形態を残しながら、泥岩層に不連続に入っていました。ちなみに、層理面が見えず傾斜は不明でしたが、走向と長さは、上流側から、N30°W(2m)切れて、N20°W(2.5m)~N10°W(0.5m)~N40°W(1.5m)、少し曲がり(0.3m)と連なります。(拡大ルート・マップを参照)
混濁流による堆積物のようにも思えます。
【⑥】露頭では、黒色泥岩の中に、更に大きな(2m×1.5m)の砂岩岩塊が入っていました。
【⑦】露頭では、砂泥の関係が逆で、全体が中粒砂岩層の中に、黒色泥岩が層の形態を残しながら、N60°W・60°N(下流側)~N20°W・70°NE(上流側)で取り込まれていました。滝の間と反対で、泥岩層が砂岩層に取り込まれていました。
その上流では、黒色泥岩層から帯青灰色中粒砂岩層に変わり、次に、礫岩層となりました。礫は、黒色頁岩片や中粒~粗粒砂岩で、短径と長径の関係や級化層理から、重力方向がわかるタイプで、下流側が堆積時の下位を示していました。(⑦の北東落ちから見ると、逆転していることを意味します。)
【⑧】露頭は、黒色泥岩と凝灰質中粒砂岩の互層で、N50°W・80°SWでした。
垂直に近い傾斜ですが、すぐ下流の礫岩の産状から、上下は逆転しています。(谷川本流のデータからも、背斜構造の東翼に当たり、逆転を支持します。)
南東から小沢が合流する標高875m付近(【図-⑨】)では、礫岩層が、また、その少し上流の北からの小沢が合流する所では、珪質の灰色中粒砂岩層が見られました。
標高880m付近(【図-⑩】)では、帯青灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。走向・傾斜は、N50°W・垂直でした。
標高910m付近(【図-⑪】)では、沢が荷通林道に接近し、露頭が少なかったですが、再び、黒色泥岩層が露頭幅30mにわたり現れました。わずかに、中粒砂岩層も含みます。
南東から流入する小さな沢との合流点(【図-⑫】)では、黒色泥岩層が見られ、N50~60°W・50°NEでした。黒色泥岩層や灰色中粒砂岩層との互層が続きました。
両側からの沢状地形、標高918m付近(【図-⑬】)では、黒色泥岩層が見られました。
しばらく黒色泥岩層が点在します。林道は、沢に迫って併行していました。
標高940m二股(【図-⑭】)では、廃屋があり、左岸では、砂岩岩塊の巨礫(全体が直角三角形で、1m×1mほど)を含んだ黒色泥岩層が見られました。
二股から、右股に沿って新しい林道が敷設されていて、少し入った所(【図-⑮】)で、
灰色中粒砂岩層が見られました。熱変質した内山層の砂岩に似ているとの感触を得ました。
林道は、この先も続きますが、車で入れる規格は標高1000mまでです。
標高1000m付近(【図-⑯】)では、珪質の灰色砂岩の大岩塊が見られました。
標高1040m付近(【図-⑰】)では、玢岩(pophyrite)の岩脈が見られました。
尾根の手前、沢が南東に振る標高1080m付近まで調査しましたが、露頭も無さそうなので引き返しました。谷川本流で見られた内山層基底礫岩層が延長は、見られませんでした。(ちなみに、谷川本流935m付近で接している石英閃緑岩体と基底礫岩層の間に断層があり、P1145辺りまでの間で、連続が絶たれていると推測しています。)
標高940m二股まで戻った後、沢は土砂が崩れていて露頭は埋まっていそうなので、荷通林道を登りました。この年(平成18年)の7月18日~19日の豪雨被害で道路が崩れ、その修復工事が行われていました。林道は、さらに雨川ダム湖方面まで通じていますが、車での進入は、標高1020mまでです。
谷川左股沢の調査が早めに終了したので、駐車してあった荷通林道入口・鳥居から車で移動して、不老温泉・湖月荘側から「雨川砂防ダムの沢」に入りました。
雨川ダム湖の放出口の反対側、南に延びる沢を「雨川砂防ダムの沢」と名付けました。沢の入口、地図上の「崖」付近では、岩盤が表土と共に崩れていました。およその方向は、N50°Eで、沢の延びる方向にほぼ一致した、小規模断層と思われま す。二股付近は、熱変質した(内山層の)灰色中粒砂岩でした。
左股を進み、南に延びる沢の標高900m付近の二股では、熱変質した灰白色泥岩層で、N60°E・30°SEでした。
この後、標高1060m付近まで沢を詰めましたが、転石ばかりで露頭が無いので、引き返しました。転石情報でも、基底礫岩に関する手がかりは得られませんでした。
* * * *
不老沢:2カ所で泥岩層中にコングロ・ダイク露頭があり、標高1060~1090mで粗粒砂岩層が見られました。(六川資料)
【編集後記】
調査当日に同行した渡辺正喜先生が、『頁岩の中に礫、特に、「偽礫(ぎれき・slump ball or pseudo conglomerate)」が入るのは、付加体に多く見られると、由井俊三先生(元北海道大学教授)が言っていたぞ!』と話されたことが印象に残っている。由井先生(故人)に、この地を実地に見ていただきたかった。
谷川本流の調査を紹介した後で、「地質柱状図」を載せる予定であるが、『含礫頁岩層』の見られた地層は、従来の分帯では、「海瀬層」と呼ばれている。地団研が示した「関東山地の地体構造区分帯」では、秩父累帯北帯 に属している。
かつて、地層名の由来となった佐久穂町の海瀬(一の淵)から二畳紀のフズリナ化石が発見されたことから、古くは、「秩父古生層」と呼ばれた歴史もあるが、今日では、ジュラ紀の付加体だと、ほぼ確定している。
そんな渡辺先生から聞いた話を思い出して、「含礫頁岩層」を調べてみた。
『いわゆる異常堆積について(三梨 昴 ・垣見俊弘)』(インターネット情報)によると、混濁流の結果と位置付けないで、個々のケースに応じた調査・研究の必要性を強調しながらも、大別すると、”表層地滑り型”と、”深層地滑り型”があると述べている。
雪崩に例えた、表層雪崩と全層雪崩はわかりやすかった。大陸棚の比較的浅い所と、深い所というような場合もあるが、堆積物が堆積してからどのくらい時間を経て、固結状態がどの程度進んでいたかも影響する。
論文の詳しい内容は省略するが、ひとつ残念なことは、発見した目視できた断層が、「固結断層」であったかどうかを見極めていないことである。これも、成因を推定する大切な情報であると言う。
ところで、令和3年・4月~7月の俳句シリーズを、「はてなブログ」に挙げてから、2週間近い中断がありました。
途中、みゆき会7月の句会があって、事前に載せたブログを修正しましたが、梅雨明けで、農作業が忙しくなりました。一番は、夏野菜の収穫と水遣りですが、我が家の場合、ジャガイモ掘りに3日かかりました。
家内と私の、コロナ・ワクチン接種が入ったので、農作業を控えた日も入りましたが、それ以外は、畑の除草を兼ねる耕作もありました。
この後、畑の周囲や片貝川堤防の除草(草刈り)なども、生活計画に目白押しです。
ただ、嬉しいことに、体重コントロールにいいてす。食事の量を控えていますが、体重が微減していくことに一喜一憂しています。
ちょっと「平和ぼけ」した話題で済みません。
しかし、最近のSNS情報を見ると、東京五輪に関して、『過去のことや、、イメージ作りではなく、今の気持ちや現実をを最優先した対応」が大切だと思うのですが。
( おとんとろ)