北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-135

2. 谷川本流調査から(前半)

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東西方向に延びる谷川(やがわ)

【注】上の谷川のルート・マップでは、細部がわかりにくいので、90°回転させた縦長のものを載せました。

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谷川のルート・マップ


 平成16年10月17日、一日中快晴で、沢の中はちょうど良い気温でした。各地で熊出没の報道がなされていた頃ですが、その形跡はありませんでした。しかし、滝の高巻きでは苦労しました。

 荷通林道・鳥居の上流にある堰堤から沢に入ると、凝灰質の帯青灰色細粒砂岩層が見られました。
南からの沢の合流点を過ぎ、薄紫色を帯びた結晶質砂岩層から成る小さな滝があり、走行・傾斜は、N50°E・80°NW斜でした。(【図-①】)
 第2堰堤を越えて、右股・本流を進み、【図-②】では珪質の細粒砂岩層が見られ、N30°W・50°NEでした。

 標高855m付近(【図-③】)では、急冷縁部のある枕状溶岩が観察できました。【写真】ただ、周囲は溶岩の破壊されたものだけでなく、様々な礫も混ざった礫岩層という産状から見ると、一次堆積場所から運搬されたものかもしれません。

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 標高865m付近(【図-④】)では、青味がかる灰白色凝灰岩層(N50°E・10°NW)で、その上流、南からの沢合流点付近では火山砂のような凝灰質粗粒砂岩層(NS・70°E)が見られました。
 標高870m~880m付近(【図-⑤】)では、凝灰岩層が多く見られました。玉葱状風化をするものは、N75°E・30°Nでした。また、同質の堅い部分が塊となって入るものもありました。最大1m×1.5mの塊です。【下の写真】

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凝灰岩層の中の玉葱状風化 【図-⑤】

 標高890m付近(【図-⑥】)では、落差3mと2mの二段の滝がありました。造瀑層は、熱変成された結晶質砂岩層で、N20~40°E・30~50°SE傾向の節理が見られました。
 標高895m付近(【図-⑦】)では、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)が見られました。
        

 石碑(明治37年設立)の上流と、第3堰堤付近では、結晶質砂岩層が見られました。
(【図-⑧】)ちなみに、石碑は日露戦争戦没者の忠魂碑でした。
 林道の分岐する地点(標高915m)の橋付近では、灰白色の凝灰岩層が見られました。

 標高930m付近(【図-⑨】)では、珪質で灰白色細粒~中粒砂岩層があり、肉眼で石英も見られました。少し上流で、帯青灰色砂岩層(左岸)を挟んだ後、右岸の珪質で灰白色細粒砂岩層が続きました。

 そして、標高935m付近(【図-⑩】)では、石英閃緑岩(Qurtz-Diorite)が現れました。 そのすぐ上流(標高940m)の礫岩層は、直方体などの角礫で、分級されていない乱雑な配列の礫岩層です。礫種は、(ア)灰白色砂岩(最大70×30cm)、(イ)粗粒砂岩(50×20cm)、(ウ)珪質砂岩(35×25cm)、(エ)花崗岩(45×20cm)、(オ)黒色頁岩片(他と比べ丸い、最大5×10cm)で、巨大な岩塊を含んでいます。チャート礫、黒色頁岩片が少ないのが特徴です。
 マトリックスは粗粒砂岩で、内山層の基底礫岩層だと思われます。標高953m付近まで、礫岩層が見られました。(【図-⑪】)

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石英閃緑岩と接する内山層基底礫岩層【図-⑩】

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礫の間に石英閃緑岩が侵入



  ところで、石英閃緑岩と基底礫岩層の関係が重要です。
 (ⅰ)【写真・上】の産状:接触部は不整合です。(ⅱ)【写真・下】の産状:石英閃緑岩は礫岩層に部分貫入している。(ⅲ)上流の内山層の砂岩層(【図-⑫】)が熱変質している。
 この事実から、石英閃緑岩体が、不整合面を含む内山層の下に貫入していることがわかります。一方、地質構造から見て、両者の間には、断層が推定されます。つまり、石英閃緑岩体は、不整合面を中心に貫入してきたが、同時に、そこが断層の一部になっているのではないかと思われます。

 標高960m付近(【図-⑫】)では、落差8mほどの滝がありました。造瀑層は、熱変質した灰色細粒砂岩層で、堅いです。正面からの登攀はできないので、右岸側から高巻き、滝の上に出て、標高980m付近から、沢に戻りました。石英閃緑岩が風化した粘土層が見られました。(礫岩層だけでなく、砂岩層にも貫入していました。)

 

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右岸から高巻いた滝(下流側から撮す)

【編集後記】

 本文中で触れた『 石碑(明治37年設立)【図-⑧】・・・ちなみに、日露戦争戦没者の忠魂碑でした』という内容について、プライベートなことですので、内容は詳しく述べることはできませんが、当時のことを思い出しました。

 『陸軍歩兵・上等兵で、名誉ある勲章を受けた』方の石碑でした。調査で、谷川の沢筋を歩いて遡航して、この石碑に初めて接した時、「軍人の遺族や関係者は、どんな思いで、この石碑を建立したのだろう?」と思いました。明治37年(1904年)と言えば、その年から日露戦争は始まっています。

 今でも叙勲されたことは名誉なことですが、明治の時代にあって、明治天皇の御名で給わった勲章は、想像に絶するくらい誇らしいことだったと思います。しかし、我が子を「お国の為」とは言え、失った悲しみは、どの時代にあっても同じです。

 明治の時代にあっては、山仕事で入る道筋であったかもしれませんが、今、私たちも、林道を自動車を使わずに歩いて沢に入ったなら、数時間かかるほどの山の中です。

そんな場所に建立した気持ちを考えました。

 先祖伝来の墓地にではなく、山の中に石碑(墓碑ではない)を建てたのは、人目に触れる山里に建てられない(世間体を大事に)、しかし、誇らしい名誉ある戦死を称えてあげたいという、多分、親の気持ちがあったのではないか・・・と思いました。

 ただ、ひとつ心配なことは、2019年(令和元年)10月12~13日に、佐久地方を襲った台風19号による豪雨で、どうなったかということです。二日間で500mm近くにも達する降水量が記録されました。谷川流域も水害被害がありました。

 沢筋の河原に近い場所に建立されていたので、被害にあったかもしれません。どうか、無事であることを祈っています。最近は、山奥のフィールドに入ることもなくなっているので、確かめに行くことはないと思います。

 ところで、昨日(8月1日)は、佐久地方で、「お墓参り」と称する、佐久平のほとんど全ての家庭や世帯で、先祖のお墓を参拝する一日でした。

 江戸時代の1742年(寛保2年)、『千曲川犀川も)で発生した大洪水による死者を追悼することに由来していると言われています。その年の干支に因んで、『戌の満水』と称せられます。

 西暦で計算してみると、279年前の出来事ですが、その追悼儀式が、今まで、絶えることなく続いていることにも畏敬の念を覚えます。(おとんとろ)