北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-139

 中部域の沢 

 

 《 秘 境 ・ 熊 倉 川 》【(序章)】

 

 平成17年には、内山層の東側への広がりを確かめる為に、「熊倉川」に入りました。
 ところで、『熊倉川が佐久市内を流れている川であること』を、はたして何人の佐久市民が知っているでしょうか? まずは、熊倉川周辺の道路状況と河川について、概略図をご覧ください。

 

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秘境「熊倉沢」の位置はどこか?

 実のところ、私たちも、「内山層の地質調査」という縁があって、初めて知りました。
 熊倉川の最上流部、象ヶ滝付近から上流域は、熊倉川自体が、長野県佐久市(旧・臼田町)と群馬県甘楽郡南牧村との県境になっているのです。だから地形から見た日本海と太平洋の分水嶺を、少し太平洋側に越えて、佐久市の版図は、田口峠を越えた馬坂川水系の広川原~狭岩付近と、熊倉川最上流部の北側にまで広がっています。


 換言すると、仙ヶ沢の奥「日本で海岸線から一番遠い地点」に降った雨は、滝の沢林道の沢から雨川を経て千曲川へ、そして犀川の水と一緒になって信濃川を経由して日本海に流れていきますが、その地点から、わずか200m東に降った雨は、太平洋へと注ぎます。


 熊倉川の支流(佐久市)から熊倉川本流へと流れくだり、南牧川(砥沢付近から)、鏑川(下仁田町付近から)、最後は利根川(本庄市付近から)を経由して、太平洋へ到達します。
そんな海岸線から最も遠い、県境の山奥にある熊倉川ですので、まさに「佐久市の秘境」と呼ぶのにふさわしい場所でした。

 さて、第1課題は、熊倉川までどういうルートで往復するかです。
 5月の連休に、自家用車で熊倉集落付近まで偵察しました。自宅(佐久市前山)を出て、国道141号線を通り、佐久穂町から国道299号線、古谷大橋の手前から大上(おおかみ)林道に入り、大上峠を越えて、熊倉集落に着きました。集落から象ヶ滝方面へは、道幅が軽トラック1台分しかないので、普通車での進入は難しいです。(実際、私は数10m進み、旋回できないことに気づいてバックで戻りました。ただし、それは、最初の100mほどの区間だけであったとは、後日わかりました。)

 帰りは、県道93号線を通り、広川原から田口峠を越え、田口、臼田を経由して、国道141号線に出ました。そして、自宅に戻りましたが、調査をした訳でもなく、ただ車を走らせていただけで、優に4時間以上かかりました。

 

 【編集後記】

 今日、8月12日が、特別な日であることを、午後になって気づきました。

 思えば、36年前の1985年(昭和60年)の同じ日の18時56分頃、日本航空123便(羽田空港発~大阪・伊丹空港行きの定期旅客便)が、伊豆半島上空付近から機体の操縦機能を失ってダッチ・ロールしながら、最後は、群馬県上野村高天原山の尾根(1565mASL・通称御巣鷹の尾根)に墜落しました。

 ジャンボ・ジェット機なので搭乗員は524名と多くて、奇跡的に助かった生存者4名以外の人々は、亡くなるという航空事故史上最大の惨事となりました。

 今年は、東京オリンピック大会の為に、急遽、「山の日」が変更されましたが、7月の「海の日」に対向して、「山の日」を、お盆前の8月12日にして休みを増やそうという計画は、この事故で亡くなった人々の命日と重なることで、1日前の8月11日に移された経緯もあります。 

             *   *   *

 

 ところで、『あの日に、私が何をしていたか?』は、今でも鮮明な記憶に残っています。

 夏休み中、地質調査を終えた南佐久群北相木村で解散し、帰宅してから点けたテレビのニュースで、航空機墜落事故の第一報を伝えていました。何んと、私たちが解散した場所から、そう遠く無い地点で、しかも約1時間後に起きた事故だったからです。

 当初は、御座山(おぐらやま)付近と推定され、佐久側から北相木を経て、自衛隊の捜索隊が動員されました。(実際、自衛隊先発隊の一部は、佐久側から山に入る手前までトラックを進ませました。)

 しかし、長野~群馬県境の御座山より少し東側の「御巣鷹の尾根」だとわかり、拠点基地は群馬県の藤岡に設置され、群馬県側からの捜査・救助・そして遺体収容活動に変更されました。

 

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 当時、私は南佐久群南牧村の中学校に勤務していて、「南佐久郡誌・自然史偏上」の地質を担当する一員として、南佐久地方の地質と、長野県~山梨県群馬県境付近の山岳地帯の地質を調べていました。
 地質学の最新情報から見ると、地質資料の基礎データは貴重ですが、解釈や解説は、やや時代遅れの感も否めませんが、懐かしくなって、「南佐久郡誌」に掲載した私の資料をみつけました。(詳細な地質の説明は、省略します。)

 夏休み中の8月5日には、ジュラ紀付加体の「御座山(おぐらやま)層」の名称の由来となった御座山に登り、8月12日には、「栗生(くりゅう)の北にある大理石採石場」の実地調査と共に、上記の林道「栗生~小池線」の調査をしました。

 『図の16と17で、地層の傾斜が北落ちから、南落ちに変化していますが、ここが断層で接していると思われる、基盤岩と新第三紀層・北相木層との境です。』

 北相木層については、資料がありますので、後日、紹介する予定です。

 

 ところで、今日は、コロナ・ウイルス・ワクチン接種の翌日なので、副作用が出てはいけないかと、午前中に、お盆の飾り付けを帰省している孫たちとして、午後は夕立の合間を縫って夏野菜収穫をしました。そして、夕方になってから、「はてなブログ」を挙げました。気づけば、日航機事故から、もうそんなに歳月が経っていたんでするね。

明日は、叔父の新盆にでかける予定ですが、併せて皆さんのご冥福を祈ってきたいと思います。(おとんとろ)