北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-143

  《 南部域の沢 》

 

2. 矢沢の調査から

 

 小さな河川ながら、抜井川は標高850~860m付近で蛇行し始めます。その右岸にある矢沢集落に、東西方向で流れ込む抜井川の支流が矢沢です。
 矢沢では、沢の入口の石英閃緑岩の露頭から始まり、千枚岩化した黒色泥岩・砂岩の互層や、珪質砂岩層、チャート層などからなる先白亜系が、下流側で見られます。ちょうど、コンクリート橋付近【図-⑨】が境目で、上流側が内山層(新第三系)となります。
 ここ矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」が推定されます。断層は、北方にも延び、灰立沢~余地川~谷川~雨川中流部に達していると考えています。

 矢沢(やざわ)の調査は、平成8年に、石英閃緑岩体の分布と、推定した矢沢断層の通過位置の証拠を求めて、2日間行ないました。既に、『佐久の地質調査物語・山中地域白亜系』の中で、「矢沢調査で、ひとまずのまとめ」として、白亜系に関係した地域の調査の区切りとしてありました。

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矢沢のルート・マップ

 国道299号線に懸かる橋の下から入ると、入口付近から石英閃緑岩が見られました。石英閃緑岩は、石英と斜長石、角閃石を主体とする深成岩です。肉眼でカリ長石と斜長石を区別することはほとんどできません。ホルンブレンドのような長柱状の角閃石が入っているので、石英閃緑岩として良いと思いました。(【図-①】)
 石英閃緑岩の露頭は、小さな木橋(900mASL)を過ぎた標高910m付近までは、川底にほぼ連続して見られます。
 標高890m付近では、石英の斑晶がなく、流紋岩のように見える産状の岩体が、滑滝を形成している箇所がありました。貫入岩体のほとんど西端に当たるので、急に冷やされて固まった「急冷周縁相」を示しているのかもしれないという議論もありましたが、本当のところはわかりません。この産状は、ここだけで、再び正常な石英閃緑岩になりました。

 木橋の手前8m付近では、細粒の有色鉱物が多く、玄武岩と見間違えるような岩体がありました。黄鉄鉱(pyrite)も異常に多く含まれ、捕獲岩ではないかという話題も挙がりました。(【図-②】)

 標高910m付近で、黄鉄鉱と、薄紫色の黒雲母の細粒結晶が、二次富化された部分をみつけました。由井教授からスカルン鉱物の説明を受けた産状と類似しているので、そう判断しています。ちょうど、この辺りまで、石英閃緑岩の連続した露頭が見られました。

 川が急に開け、落葉松林となります。ここにレンズ状の石灰岩(図のls)がありました。さらに、水平距離で45m上流にも、同様な露頭がありました。石灰岩自体は、熱変成されていませんが、かなり結晶質でした。
 

   沢の標高918m付近にコンクリート製橋、すぐ上流に堰堤(920mASL)があります。
この一帯(【図-③】)は、灰色チャートや珪質砂岩が卓越していました。ここにも、薄紫色に見える黒雲母細粒結晶や黄鉄鉱の二次富化がみられます。また、非常に小さな石英の晶洞(druse)が認められ、堰堤の上流側に幅3mの石英閃緑岩が岩枝状に露出していました。石英閃緑岩体との接触交代や熱水の移動による産状だと思われます。
 後述する「捕獲岩か?(925mASL)」とした岩体も含め、石英閃緑岩の影響は、沢の標高925m付近までと思われます。

 沢の標高925m付近(【図-④】)では、地質構造から目視できる断層がありました。沢水の流れる川底に断層面(N40°E・40°SE)が見られ、右岸側が黒色細粒砂岩、左岸側が千枚岩化した黒色泥岩と砂岩の互層(N60°W・S落ち)でした。左岸の互層部分と断層面は、ほぼ直交した関係になります。

 このすぐ上流にも、砂泥互層部があり、全体は黒色ですが、薄紫色を帯びた部分があり、千枚岩化されていました。これが、前述の「捕獲岩か?」とした岩体と接しています。有色鉱物が点紋状に集まり、閃緑岩に似た感じでした。

 標高928m、右岸を北東から流入する沢との合流点付近(【図-⑤】)では、硬い珪質砂岩が造瀑層となり小滝を形成しています。縮尺の大きい地形図ではわかりずらいですが、流路が南南東(上流側)から西南西(下流側)へと、ほぼ直角近く急変します。これは、矢沢本流と合流する支流方向を結ぶ方向に、断層(断層面:N60°E・80°NW)が走っていることが、原因と思われます。左岸側は、滝を構成する結晶質砂岩で、右岸側は、下流側から続く砂泥互層(千枚岩化はされていない。)でした。左岸側には、青味を帯びた灰色の断層粘土が認められました。

 沢の標高930m~950mにかけては、滑滝が連続していました。
 【図-⑤】の滝は、下位から灰色・黒色・再び灰色と粒度の違いで色彩を変えますが、珪質の砂岩層で構成され、滝の上は、最大経2cmの白色~灰色チャートの円礫を含む灰色珪質砂岩層でした。
 続いて、標高940m付近(【図-⑥】)では、滑り台のような四段の滝がありました。黒色と灰色の珪質砂岩で構成されています。黒色に見えるのは細粒砂岩です。

 その上流でも滑滝が随所に見られました。傾向として、次第に珪質な砂岩が減り、黒色細粒砂岩が多くなります。その中で、「白チャートと暗灰色砂岩が、縞模様となった」層準が認められました。産状を見ると、チャート(図のch)が1cmにも満たない層状で、これを切るようにして薄い砂岩層が、レンズ状または層状に、乱れて重なっています。今までフィールドで見たことのない珍しい産状なので、記載しておきます。いつか、話題になることがあるかもしれません。(【図-⑦】)

 再び、滑滝(露頭幅20m)が続きますが、珪質砂岩と普通の砂岩が混じり、灰色珪質中粒砂岩の中に、シルト片が入るような産状も認められました。
 南東から支流沢が流入する標高958m付近では、青味を帯びる明灰色の細粒砂岩がみられます。

 標高965m~975m付近(【図-⑧】・図のchの多い部分)では、黒色細粒砂岩や灰色中粒砂岩の中に、灰色~白色チャートが頻繁に挟まります。下流部の類似の砂岩と比べると、珪質傾向ではなく、明らかにチャート層が入っていることに注目してください。チャート層が卓越する範囲です。

 ちょうど、コンクリート橋付近(【図-⑨】・標高978m~979mほど)が境目です。下流側へ石英閃緑岩までが先白亜系で、上流側が新第三系(内山層)です。形成年代が大きく異なる両者は、断層で接していると考えています。
 そこで、矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」を推定しています。ただし、一般的に言えるようですが、時代の異なる岩相では明らかに区別できるものの、目視できるような断層の証拠は認められませんでした。

   コンクリート橋(【図-⑨】)から上流へ約30m、南から小さな沢との合流点付近では、暗灰色中粒砂岩層と黒色細粒砂岩層が見られました。最初に確認できる内山層と思われます。地層の境目で、「N0°~20°W・30~35°E」と、東落ちでした。
 その10m上流では、黒色細粒砂岩層に挟まれた礫岩層があり、「N60°E・60°SW」でした。白色チャート礫が多く、粘板岩や砂岩の礫も含まれていましたが、角礫や不規則な形の礫が多いという特徴があります。これは、「礫の大きさに関わらず円礫」という内山層基底礫岩層の特徴とは明らかに違います。岩質は硬く、沢は走向に沿って流れていました。

 標高985m~1005m(【図-⑩】)に、第1・第2・第3「クランク」と私たちが名付けた特徴的な地形が、連続して展開します。
 かつて、地質情報が十分でなかった頃、内山層は、「内山中生層」と言われていた時代もあるくらいですが、少なくとも、矢沢の第1~第3クランクの産状を見る限り、非常に硬い岩質で、下流側の先白亜系よりも時代が古いのではないかという感触すらしました。
 その中でも、珪質の明灰色細粒~中粒砂岩は特に硬く、これらが黒色~灰色中粒砂岩に挟まっていると、その部分は浸食に強いために削られず、沢は流路を90°近く転向して流れるようになります。その形が、日本の城郭施設の枡型(ますがた)や工具の「クランク」に似ているので、フィールドネームで呼ぶことにしました。

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 第1クランク(標高985m付近)では、黒色中粒砂岩層・珪質の明灰色細粒砂岩層・礫岩層(直径3cm白チャート)を挟む黒色中粒砂岩層という構成で、幅10mほどの珪質部分(方向N10°W)に対して、沢が「卍」文字の片方のように「クランク」に似た流路となります。

 第2クランク(標高1000m付近)では、全体的に珪質ですが、黒色中粒砂岩層・明灰色細粒砂岩層・灰色チャートを挟む黒色~暗灰色中粒砂岩層の構成で、下流側から、それぞれ「N20°W~N40°E~N70°E」と、流路が変わります。矢沢全体は、切り立った沢ではありませんが、ここだけは両岸が10m以上の崖に囲まれた渓谷です。下流側の黒色中粒砂岩層に、二枚貝や巻貝の化石層準があり、鏨(たがね)で叩いて、ようやく採集できました。巻貝の抜け落ちた跡も数多く観察できました。私たちは、詳しい種まで化石鑑定をすることができません。もし、文献による予備知識がなければ、砂岩の硬さから、とても新第三紀層とは思えないような印象の地層でした。

 第3クランク(標高1005mより少し下流)は、小規模で、粘板岩片の入る黒色中粒砂岩・明灰色細粒砂岩で構成され、クランクの中軸は珪質細粒砂岩「N30°~50°W・NW落ち」で、小さな滝を形成していました。

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矢沢の第1~第3クランク(ルート・マップ)

 

 

沢の標高1005m付近で、北からの小さな沢と合流します。岩質は硬いものの、砂岩は珪質でなくなり、泥質な部分を挟むようになります。互層の滑滝では、泥が浸食されて小さな「ケスタ状」構造が観察できました。「N10~30°W・10~20°E」と、緩やかな東落ちでした。
 沢が南に振り始める標高1015m付近から、風化色が黄土色の粗粒砂岩が出始めてきました。クランク部分と標高1015m付近の間で、岩質と構造が大きく変化していますが、原因はわかりません。

 標高1020m付近(【図-⑪】)では、同質の粗粒砂岩層と暗灰色中粒砂岩層の境で、「N60°W・20°SW」と、緩やかな南西落ちに変わります。
 これより上流の標高1040m二股付近までは、同様な岩相と地質構造が変わりません。
風化色が黄土色の粗粒砂岩と塊状の黒色細粒砂岩が主体です。この黄土色は、凝灰質であると思われ、黒色細粒砂岩との組合わせも、標高1015mより下流域とは異なった岩相です。

  

 標高1040m二股から右股沢に入りました。風化色が黄土色の粗粒砂岩と黒色細粒砂岩に加え、明らかに凝灰質の砂岩層が多くなりました。
 二股上流の小滝(【図-⑫】)の造瀑層、黒色細粒砂岩層と黄土色粗粒砂岩層の境で、
「N40°E・18°SE」のデーターを得ました。
 これより上流での走向は、N20~30°Wと安定し、20~30°Eと、東落ち傾向でした。沢は、走向に沿っていると思われ、黒色細粒砂岩と黄土色(風化色・元は暗灰色)粗粒砂岩、凝灰質中粒砂岩の互層が繰り返し観察できました。
 標高1150m付近(【図-⑬】)では、黒色で、やや珪質な細粒砂岩層の中に、3本の白色チャート層(10cm層厚)が認められました。内山層の中にはあまり見かけない産状です。
 また、標高1200mの上二股を左股に入って、すぐの所(【図-⑭】)で、石灰岩塊の転石をみつけました。転石情報ではありますが、内山層の分布域では、あまり目にすることのない石灰岩ですので、奇妙に思い記載しました。

 この後、急斜面の沢のブッシュ漕ぎをして林道に出ました。
 黒色頁岩層の露頭がありました。少し下った、標高1250m付近(【図-⑮】)の黒色頁岩層から、二枚貝と魚鱗(ぎょりん)化石を見つけました。
 林道を進み、林道の西へ張り出した標高1280m付近(【図-⑯】)では、凝灰岩露頭があります。新鮮な部分は、緑色凝灰岩として良いかと思います。
 林道の標高1260m付近では、凝灰岩の間に、斜長石が点紋状に入る安山岩質溶岩がありました。これより、林道沿いの山側露頭で、安山岩質溶岩が認められます。良く見ると、斑晶の大きさは変化しています。矢沢本流を越えた右岸側(山側)に、同質の安山岩質溶岩が観察できました。(【図-⑰~⑱】)「板石山溶岩」だと思われます。
 林道の標高1160m付近(【図-⑲】)で、黒色細粒砂岩(主)と凝灰質な黄土色(風化色)粗粒砂岩(従)の互層部の、黒色細粒砂岩層から、二枚貝化石とウニの殻模様の化石を見つけました。ちなみに、走向・傾斜は、N55°W・20°Nでした。
 林道を下った標高1120m付近(【図-⑳】)では、灰色中粒砂岩層と凝灰質粗粒砂岩層の互層部分で、N30~70°W・30~40°NEでした。

 林道が大きく北側へ「ヘアピンカーブ」する所の東側、標高1040m付近(【図-21】)で、珪質の灰色中粒砂岩層に、岩脈状に入る礫岩の異常堆積構造(コングロダイク)を見つけました。尾根を挟んだ古谷集落北側の沢でも3露頭認められています。

 

 【 閑 話 】
 残念でならないことは、矢沢に関する写真資料が無いことです。調査には携帯していくはずのカメラですが、平成8年の2回の調査では忘れたようです。それで、不確かですが、昔のフィールド・ノートを見返して、矢沢の第1~第3クランクのイメージを描いてみました。なぜ、200mにも満たない流路だけ、珪質砂岩層が卓越しているのか不思議です。

 『灰色チャートに見える層』と記載した内容は、当時のメモ書きでは「チャート層」と記されていました。この後、大野沢支流第5沢で、「珪酸分が表面に付いただけの珪質砂岩層をチャート層」と間違って解釈した話題が出てきますが、まさに、その原点でした。
 珪酸(SiO2 )の多い砂岩層とチャート層は、大きな違いです。放散中の化石を含むチャート層は、深い海洋底で堆積したものがプレートによって運ばれてきた付加体の産物だからです。 

 

【編集後記】

 本文中に出てきた『矢沢断層』についての話題です。

 地質図を作成する時、本来は繋がっていたと考えられる地層が連続していなかった時、地質構造の立体的な矛盾が解決できるようにと考えて、断層の存在を推定します。いわゆる「推定断層」です。・・・・もっとも、詳しいボーリング調査でもしない限り、地下の様子は目視できないので、どうしても推定せざるを得ません。

 しかし、地質構造だけでなく、明らかに堆積した時代の異なる地層が接している場合は、かなり確かな証拠として良いです。運良く、断層面が観察できたり、断層粘土があったり、崩れやすい断層帯があったりした場合は、さらに証拠として強化されます。

 『矢沢断層』の場合、推定断層とは言え、「推定」の文字を取り除いても良いくらいのいくつかの証拠に裏付けされた断層構造です。

 矢沢では、先白亜系(ジュラ系か)と内山層が至近距離で接しています。

 また、南側で、抜井川~都沢では白亜系の中の地層同士の不連続、蛇紋岩帯のずれが証拠です。一方、北側で、余地川から谷川では、先白亜系と内山層が接していることが証拠です。詳細は省きますが、都沢の奥から内山川まで、断層の道筋が追跡できました。(下図は、灰立沢と矢沢での断層の位置と、石英閃緑岩や板石山溶岩の分布がわかるように、部分的に載せたものです。)

 

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灰立沢から矢沢付近の地質図(矢沢断層や石英閃緑岩・板石山溶岩)

 今頃になって、改めて地質図を作成した頃を思い出してみると、いくつかの断層の位置や構造についての証拠集めや、地質柱状図などを作成して、断層の落差や「ずれ」を計算したことが、とても懐かしく思い出されます。

 私たちレベルの地質学や地質図は、いい加減さも確かにあると思いますが、それでも、詳細で多くのデーターを集め、最善の推理方法と、数理的処理で何んとか解明しようと努力してきています。

 さらに、現代のコンピューターを使った「3D」機能で、地質図が、立体的に視覚的に表現できれば、多くの人にわかりやすく伝えられるのになあと思っています。(おとんとろ)