北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年9月「みゆき会(仲秋の俳句)」

  【長月の句】 

① 「ベカンベ」の 菱の実狩りて アイヌ

             【標茶町塘路湖にて】

②  寿(ことほぎ)に 手折りて添えし 菊の酒 

③  虫すだき 太古の眠り アルファ波 

 

 9月は雨降りから始まった。今年の夏は、お盆を夾んだ一週間でも長雨が続き、秋雨(秋霖)の先触れとも言うべき異常気象であった。幸い、強烈な台風は来なかったが、雨降りの日が多かったという印象がある。それ故、ほぼ周期的に訪れた「9~10日・15~16日・20~21日」の秋晴れは実に新鮮で、故郷の山々が見違えるほど麗しいと感じた。
 今月の国内での大きな話題は、自民党総裁選に4人が立候補して、マスコミが連日、候補者同士の政策論議を取り上げたことだろう。告示前から大きな騒ぎとなり、月末30日に決戦投票があって、岸田文雄氏が総裁に選ばれた。この後、国会で首相指名の選挙があり、第100代内閣総理大臣となる。

 

 【俳句-①】は、学生時代に北海道標茶町塘路湖を訪れて、菱の実を収穫した。それを夕食にしながら湖畔で一泊し、一昔前のアイヌの人々の生活を偲んだことを詠んでみた。「ベカンベ(ペカンペ)」は、アイヌ語で「菱および菱の実」のことらしい。
 ワンダー・フォーゲル(WV)部に所属していた私の山行(さんこう)の行き先は、四季の山や沢旅が多かったが、簡単な岩登りやゴムボートでの川下りにも挑戦した。俳句に詠んだ山行は、釧路から標茶町別海町中標津厚岸町など、道東の平地ワンデリングの思い出のひとつである。今から半世紀近くも前の大昔、昭和50年秋のことだったが、鮮明に覚えている。

 ドイツ語の「Wanderung・ワンデリング(本来の発音は、バ)」は、「さまよい歩くこと、似た英語からの外来語では、「hiking・ハイキング」が該当するかもしれない。
 私たちが好んで使った『山行とワンデリング』であったが、この道東の平地山行を企画した後輩のT君は、アルピニズムでもなく、登頂を目的としたものでもない、気ままに大地を歩いてみようという発想の持ち主だった。基本的には行き当たりばったりだが、それでも別海町の牧場で360度の地平線と、厚岸湾での牡蠣養殖を見てみたいという目的があった。さらに、もうひとつの大きな目的は、アイヌの人々が良く食べたという「菱の実」だけの夕食で、一晩過ごしてみようと言うものだった。
 今では、笑福亭鶴瓶さんの「家族に乾杯(NHK番組)」なら許されるかもしれないが、湖の浅瀬に勝手に入って菱の実を狩ることはできないだろう。まして、湖畔でテント泊は不可かもしれないが、当時は、批判されることはなかった。
 実際、札幌からの道東への行き帰りは鉄道(当時の国鉄)を利用したが、釧路からは歩きと、ヒッチハイクで移動できたというような長閑な時代であった。

 

f:id:otontoro:20211217140752j:plain

湖面に浮かぶ菱

 

 ところで、菱(ヒシ)の実は、ミソハギ科(ヒシ科)の一年草水草の種子であり、食べられる。平地の池や沼に生え、葉が水面に顔を出す浮葉植物で、水面を埋め尽くすように広がる。北海道~九州の日本の各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布すると言う。
 私が育った佐久地方では、馴染みのなかった植物だったが、菱形や忍者の撒菱(まきびし)という言葉から、菱の実の形は想像できた。
 
 湖の浅瀬に入って採集してきた菱の実は、コッフェルの中に湖の水と共に入れて煮出した。特に、あく抜きの必要もなく、皮を剥いて食べると、栗の実の触感に似ていた。目的に従った夕食なので、菱の実と水だけの食事となった。

 

 

【俳句-②】は、9月9日(重陽節句)に長寿を祝って「菊酒」を飲む習慣があるとの口実で、庭先の菊の花を手折って花器に挿し、お酒を飲むという風流人の真似事をしてみた様を詠んだ。
 自分ながら滑稽である。実はお酒は毎晩のように飲んでいるので、特別な日という訳ではないが、9月の句会の題材捜しで、菊の酒という季語を見つけ、実体験をしてみるという手段に出た。

f:id:otontoro:20211217141147j:plain

重陽節句・菊の酒

 

  草の戸や日暮れてくれし菊の酒    (松尾芭蕉の俳句)
 平安の昔より、「重陽節句」には菊花酒という酒を飲む風習があり、長寿を祝うものであったという。「菊の節句」の酒も隠遁の自分には無関係とあきらめていたところ、思いがけなく日暮れになって一樽届いた。嬉しくないかと言えばそんなことはないが、日暮れて届いたところになお一抹の淋しさがないわけではない。ここに草の戸は、義仲寺境内の無名庵のこと。日暮れて酒を届けてくれたのは乙州であった。
 なお、重陽節句の日、陶淵明(唐時代の詩人)が、淋しく菊の花を野原で摘んでいると、そこへ太守から一樽が届けられたという中国の故事がある。芭蕉は、この句で陶淵明の故事を思い出しているのである。《インターネット解説から》

 

 白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の

   酒はしづかに 飲むべかりけり       (若山牧水の和歌)
 私の場合、お酒は自分で買ってきたもので、黄・白・エンジ色の菊を挿した花器をノート・パソコンの脇に置き、U-tubeを視聴しながら、図面を描き、お酒を飲んでいた。一人静かに飲んではいたが、好きな日本酒ではなく、経済的に酔えるようにと買い求めた安ウィスキーであった。一体、何に集中して取り組んでいるのかわからないが、「いい俳句ができたかも?」という気分になって、結局、飲み過ぎてしまった。
 毎度、反省して、数日間は節制する。しかし、『飛んで火に入る夏の虫』ではないが、本能のようにして失敗のサブ・ルーチンを繰り返している私だ。

 

 【俳句-③】は、秋の訪れと共に虫の音、特にコオロギの鳴き声が、夕方から深夜、そして夜が明けても聞こえてくるが、寝入りでは子守歌として聞き、起きる時には自然の目覚ましとして聴いていた。まさに、太古の人類から受け継いだ遺伝子「DNA」により眠りを誘う自然現象だと感じた、私の気持ちを詠んだ。なお、アルファ(α)波は、気持ちの安定した時に発生する脳波と言われている。

 かつて読んだ本の情報によると、日本人は虫の音を秋の風情のある音階と聞き取れるが、欧米人の中には「うるさい」と迷惑な雑音として聞こえてしまう人がいると言う。音の感覚は、視覚と同様に脳が創り出す産物だから、そんな民族的な違いがあるのかも知れない。
 しかし、都会から退職後に、わざわざ佐久の田舎に越してきた方が、夜になると小川のせせらぎの音が気になって眠れずに、当地を去った。再び、夜の騒音の聞こえる都会に戻ったという話を聞いた。ふと、私の新宿区での予備校生時代、夏の夜は灯りだけでなく、大地が揺れている音が気になったことを思い出した。

 確かに、遺伝的な要素があることは否定しないが、寧ろ、生活の音を日本文化の一部として受け止めたり、音への対応を学習して適応したりするような、後天的な要素の方が大きいのではないかとも思う。
 その証拠に、気分が優れない時や眠れない時には、虫の音が、迷惑な騒音となる。しかし、紛争下の爆発音が聞こえるわけでもなく、生命の危機を感じることもなく、安心して布団の中で睡眠に入るのを待てる幸せには、どれほど感謝してもし尽くせるものではないと心底から思う。

f:id:otontoro:20211217142031j:plain

エンマコオロギの雄(♂)と雌(♀)

【編集後記】

 気持ちでは、「はてなブログ」を少なくとも一週間に2~3回は挙げなくてはと思いつつ、農繁期は、少しずつでも野良仕事に出ることが多く、遠ざかっていた。農閑期に入った12月は、再び、元のペースに戻したいと考えている。

 「俳句シリーズ」の方も、8月の俳句を載せたのを最後に、中断しているが、ようやく12月になってから原稿ができた。9月・10月・11月・12月と、4ヶ月をまとめることができたので、地質の話題の間に、4回を入れることにします。

 尚、「みゆき会」は、新型コロナ・ウイルスの新規感染者が増えていた関係で、私たちの住む田舎では、ほとんど感染者はいなかったが、会長判断で会を中止として、文書回覧をして8~9月を乗り切った。

             *  *  *  *

 ところで、秋の虫の音、とりわけ「エンマコオロギ」については、令和元年の10月に下記のような俳句を作っていた。 

  夜を尽くし 閻魔蟋蟀(こほろぎ) 鳴き飽かぬ
 

f:id:otontoro:20211217144331j:plain

閻魔大王

 コオロギが鳴くのは、雄(オス)が雌(メス)へのラブ・コールである。羽の下に擦り合わせる器官があって、羽を振動させると音が発生する仕組みになっていると言う。

 それ故、夕方から鳴き始め、朝まで一晩中鳴いているのに、まだ叫び疲れないのかという感嘆の意味を込めた俳句だった。

 ちなみに、そんな絶倫的な精力と大きな叫び声(鳴き声)が、閻魔大王様のようなのかなと思っていたら、エンマコウロギを正面から見ると、複眼の少しつり上がった感じが閻魔様に似ていることが名前の由来だと、物の本に書いてあった。

 真剣に検討した訳ではないが、「コウロギを飼育してみようか」と思い立ったことがある。娘が小学生の時、夏休みの自由研究で、お墓の古い2つの切り株の間を往復しているように見える蟻(アリ)の行動に興味をもって、観察を手伝ったことがある。

 昼間は背中にマーキングをして、同じアリがどう動くかを調べたり、夜中も行動しているのかと、懐中電灯を照らして墓参りをしたこともあった。当時の小学生の出した結論は、『アリは働き者で、昼も夜も動き回っている』という結論だった。しかし、専門家の調査研究によると、多くのアリがいるので、寧ろ休んでいる割合の方が多いというのが真実らしい。

 それで、果たして、一匹のエンマコウロギが、休まず泣き続けるのかどうかに興味をもったからである。結局、試したことはないが、寝ながら聞いていると、同じ方向から聞こえてくるので、続けているのではないかとも思う。鳴くことを止める時は、何か動物の接近や物音に気づいて止めるようなので、その原因にも興味が沸く。

 そうこう思索している内に、脳内ではアルファ波が出てきて、寝てしまっていた。

 そんな季節は移ろい、今は冬。季節風の強い夜は、屋外の木々の擦れる音や隙間風が気になりつつも、ありがたいことに、比較的よく眠れています。(おとんとろ)