第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因
7.混濁流説を裏付ける露頭証拠
7-(1) 混濁流で運ばれた礫、砂、泥が海水中で、分級される。
下の【写真】は、ホド窪沢の標高915m付近の滝を、下流側から写したものです。
コングロ・ダイクが滝のこぼれ口になって、流路の左岸側が、コングロ・ダイクと泥岩との境で、きれいな直線になっていることを示しています。写真を撮った動機は、コングロ・ダイクと滝の様子を紹介するぐらいの目的でした。しかし、この露頭が、重大な意味をもっていることに、資料を整理している時に気づきました。
滝を構成するのは暗灰色中粒砂岩層で、火山灰を含んでいます。滝の下は、粗粒砂岩です。滝の下流側は、全体が均質な黒色泥岩層のため、正確な走向・傾斜はわかりません。そこで、少し下流の凝灰岩層を挟む黒色泥岩層との境での値、N30°E・6°SEを採用してみます。
コングロ・ダイクの走向・傾斜は、N5°W・ほぼ垂直で、層厚20cm×長さ17mほどの礫岩層は、滝のすぐ上で途切れてしまいます。
しかし、露頭の無い部分があって、少し上流で、再び現れます。
川が曲がるのに呼応するように多少向きを変え、N10°Eの走向と垂直状態が続き、同じ層厚20cm×長さ15mほどの分布しています。やはり、下流側は黒色泥岩層で、上流側の一部は暗灰色中粒砂岩層です。砂岩層が小規模なので、落差の小さな滝となりますが、【写真】の露頭と同じパターンの産状が繰り返されます。そして、標高は920m地点となります。
* * *
今まで見てきたコングロ・ダイクの多くは、周囲を黒色泥岩層か黒色頁岩層で覆われていました。しかし、この露頭では、滝を作っている砂岩層にも覆われています。こうなると、礫岩層の貫入のドラマは、もう少し複雑になりそうです。
この付近では、全体の地層は緩やかな南傾斜なので、沢の上流側、すなわち南側が新しい時代の地層です。この時、コングロ・ダイクの礫岩と砂岩、泥岩は、別々に堆積したものではなく、一回の混濁流で同時に運ばれた後、海水中で分級されたと考えると、うまく説明できるのではないかというアイディアを思いつきました。
次の二つの可能性があります。
(ⅰ)コングロ・ダイクの二回の貫入があった。
《①/②③④+⑤/(⑤)→⑥⑦》
混濁流で運ばれてきたコングロ・ダイク②と砂岩③と泥岩⑤は、海水中で分級され、
未凝固泥堆積物①に、まずコングロ・ダイク②が重力貫入します。続いて砂岩③、泥岩⑤(露頭のない④も泥岩と考え)の順番で堆積しました。これが一回目のサイクルです。
2回目は、泥岩⑤がまだ未凝固状態の時に、次の混濁流による礫岩⑥・砂岩⑦・泥岩(露頭は見られないが、砂岩⑦の上位)が、同様にして分級し堆積しました。
(ⅱ)コングロ・ダイクは、折れてしまった。
《①/(②+⑥)③⑤/⑦・・④の事件》
混濁流で運ばれてきた礫・砂・泥は、海水中で分級されます。そして、未凝固堆積
物・泥岩①に、まずコングロ・ダイク(②+⑥)が貫入します。
続いて、砂岩③、泥岩⑤の順番で堆積しました。この時、コングロ・ダイクの一部は、海底の泥⑤から突き出ていました。
一連の混濁流による堆積の後、別に砂岩⑦が堆積しました。露頭のない部分④は、
小さな断層のような事件です。本来、連続していたコングロ・ダイクは、④の事件により、折れてしまいました。
可能性としては、どちらも考えられますが、(ⅱ)の場合は、コングロ・ダイクの礫層の長さは、32m以上(17m+15m) の長大なものになります。また、礫岩層は、分級されて後から堆積してきた砂や泥で覆い尽くされることなく、次の砂岩層で覆われるまで、海底から尖塔のように顔を覗かせていたことになります。(後述しますが、こういう場合を示す露頭の可能性もありそうです。)
ホド窪沢の露頭の場合、どちらかと言うと、(ⅰ)のアイディアの方が自然な感じです。
また、(ⅰ)のアイディアによれば、釜の沢左股沢林道の大型コングロ・ダイク露頭の産状をうまく説明してくれると思います。
まず、林道の最下部には、2度の混濁流による黒色泥岩層と灰色砂岩層のコンビがあります。これらが未凝固の時に、混濁流でコングロ・ダイクの礫岩と砂岩と黒色泥岩が運ばれてきました。海中で分級し、コングロ・ダイクの礫岩層は、未凝固堆積物の中に貫入します。同時に、周囲に砂岩層が堆積します。しばらくあって、黒色泥岩層が、「ふた」のように堆積して、全体を覆いました。コングロ・ダイクの礫層は、外に露出しなかったと思われます。
ただ、説明した産状のいずれの場合も、コングロ・ダイクの礫岩層だけが異常に固結が進んでいて、破壊された形跡はありません。そして、周囲を覆っている砂や泥は、内山層プロパーとして正常に堆積しています。砂と泥は、混濁流の流れくだる斜面に堆積していた未凝固堆積物であったのだろうという考えを採用してのことですが、特異な現象です。
自分でも、都合のいい所だけ選んでいるのではないかという気持ちになります。
【編集後記】
前回の「佐久の地質調査物語-158号」から、実に33日目になります。一ヶ月以上、「はてなブログ」に話題を載せることができないまま、時が過ぎていました。
これには多少、弁解する余地があります。
ひとつは、昨年の大晦日に救急搬送された母が、「介護度4」の認定を受けて、4月12日に「老人健康施設」に入所しました。介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)への待機状態です。数日おきに見舞い(コロナ禍の為、面会はできません)に行くことになりました。
ふたつ目は、5月連休に開催される倉澤薬師堂の花祭りに奉納する俳句の額(俳画と墨書した俳句)の準備に追われました。慣れてきて墨書も失敗することなく書けたので、清書はしませんでした。明らかに昨年より下手でしたが、『素人らしくていい』と割り切りました。加えて、俳画もスケッチ風で一日で完成しました。結果的には、やや手抜きになったかもしれません。それでも、楽しみですが、ストレスの多い日々を過ごすことになりました。
そして、みっつ目は、孫らが帰省してきたことです。4月29日(祝日・昭和の日)からの 連休に(Golden Week)、連日、自然体験活動をさせました。その為、農作業を先行させて大変でした。ポットに野菜の種蒔きをして、温室保管する作業もあります。代表的な「キュウリ・トマト・ナスなど」は、種苗の専門店から購入しますが、その他のものは、種から育てています。
加えて、一番の原因になったのは、「神経痛」です。
昨年の秋以来、断続的に痛さを堪えてきて、痛くても我慢して散歩すれば回復するので放置しておいた「肩胛骨から腕・指先への痛み・しびれ」が、5月2日に、突然悪化しました。『頸椎の五番目が変形して、神経を圧迫している為』との診断で、治療を受けていますが、連日、激しい苦痛に耐えながら、それでも畑の準備や草刈りをしています。骨の位地が多少ずれているだけで、損傷している訳ではないので、痛いのを我慢して動かしていると、痛さが和らいでくる場合もあります。
『直りますよ』という医師の話ですが、『もし、このままの痛さが続くのなら、長生きはしたくない』と真面目に思うほどの痛さが続いています。
孫たちとの「虚空蔵山から多福寺」のハイキングで、軽いけれどもリュックサックを背負ってあるいたことが、神経痛の悪化のきっかけになったかもしれない。一日も早い回復を願っています。 (おとんとろ)